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Q11625999 |
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行中書省
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行中書省(こうちゅうしょしょう)は、モンゴルの王朝元が中国の地方統治の最高単位として設置した行政機関。行省(こうしょう)ともいう。現在の中国における地方行政の最高単位である省は、元の行省に由来している。
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制度
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元の国制において、六部を統括する中央政府の最高行政機関であるとともに、首都大都を中心とする首都圏地帯(中国語:腹裏、モンゴル語:コル)の施政を担当した中書省の業務を地方において代行する中央政府の出先機関である。命令系統の上では中書省と同等に皇帝(大ハーン)に直属し、長官は中央の中書省と同じく丞相(モンゴル語 : チンサン)および平章政事(モンゴル語 : ピンチャン)という。幹部には右丞相・左丞相・平章政事・右丞・左丞・参知政事などが置かれ、右丞相が首席長官である。_NEWLINE_元の地方行政制度では、県・州の上に上級の地方行政単位として路が置かれたが、腹裏の中書省と、地方の行省は、その支配下に定められた各路の行政機関の上級機関としてその政務を統括する任を負った。管轄地域内における銭糧・兵甲・屯種・漕運・軍国の重事でおよそ預からないところはないとされる。時期によっては中央に設置された財務行政官庁である尚書省の出先機関に改められ、行尚書省(こうしょしょしょう)と呼ばれた。行中書省の数は最多で11にのぼる。_NEWLINE_行中書省は本来、前線における政治と軍事を統括するために設置される機関であったので、軍事行動の都合にあわせて設置された。例えば、1280年に日本に対する侵攻(元寇)目的で設置された征東等処行中書省は、属国である高麗と直轄領の遼東を管轄し、侵攻の準備と徴発を担当した。翌1281年の侵攻(弘安の役)が終わると征東行省は解散されるが、1283年に第2次の征東行省、1285年に第3次の征東行省が設置され、1287年には常設機関となった。第1次・第2次では高麗国王が次官の左丞相に任命されたが、第3次では無官、常設以降は国王就任後に年数を経て任命される様になった。その後、征東行省は元朝末期まで存続、元の高官を長官として高麗行省を管轄支配した。_NEWLINE_元では、軍政機関である枢密院、監察機関である御史台も地方に皇帝直属の出先機関を持ち、それぞれ行枢密院、行御史台と呼ばれた。ただし、その数は行中書省よりも少ない。
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沿革
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「行省」の名称自体は元朝よりも古く、金の時代に中央政府の最高政務担当機関である尚書省の高官が軍を率いて地方に出征したとき、臨時に尚書省の地方出先機関として機能したその幕営が行省と称された。金を滅ぼしたモンゴル帝国にもこの名称が受け継がれ、中国の華北や、中央アジアのオアシス農耕地帯などのモンゴルが征服した定住民居住地域において、モンゴルに帰服した現地人のエリートを官僚に採用してつくらせた徴税・施政機関のことを、金の行省の制になぞらえて漢文では行尚書省あるいは行省と呼んだ。_NEWLINE_グユクの死後、帝位をオゴデイ家から奪ったトルイ家のモンケは、地方出先行政機関の行尚書省を改革し、中国担当の燕京行尚書省、中央アジア担当のビシュバリク等処行尚書省、アム川以西のイラン方面担当のアム河等処行尚書の3行尚書省が設置された。_NEWLINE_1259年のモンケの急死後、アリクブケとクビライの間で大ハーンの後継者を巡る争い(モンゴル帝国帝位継承戦争)が起こると、モンケに随行していた官僚たちは首都カラコルムに入ってアリクブケの側に就いた。一方、1260年に内モンゴルでアリクブケに対抗する大ハーンに即位していたクビライは、自派のモンゴル貴族と官僚を構成員として、新たに正式の行政機関として中書省を立てる。_NEWLINE_それまでモンゴル帝国の国制では、中書省と呼ばれる機関は大ハーンの宮廷に付属された書記官(ビチクチ)による中央政府の文書・財務行政処理部局のことであったが、クビライの中書省は唐から金までの尚書省の機能を吸収し、中国の制度にならって新設された六部を配下において秘書・書記機関として命令書の起草から行政機関としての六部の統括までを一手に担う中央の最高行政機関として整備された。そして同年に南宋との最前線である四川に秦蜀行中書省事が任命されて以来、前線で働く将軍に行中書省事の肩書きが与えられ、行中書省と称される彼らの幕営が前線における全権を担うようになった。_NEWLINE_クビライの統治が安定するとともに、行中書省は常設の官僚機構として整備されるとともに、首都圏である大都・上都を中心とした腹裏(コル)を除き、クビライの支配が及ぶ地域全てをくまなく管轄できるよう増設が繰り返され、クビライが中国に建設したモンゴル帝国内の新政権である元の地方行政制度として定着する。当初の行中書省事には多く漢人の軍人や官僚があてられたが、制度が整うとモンゴル貴族や色目人官僚から行中書省の丞相や平章政事に任命される者も増えた。 | 17679112282332766585 |
Q55536772 |
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行橋市立蓑島小学校
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概要
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7学級、児童数51名(2017年度時点)。小規模特認校である。_NEWLINE_「蓑島のり新聞」を作成・発行している。常勤のカウンセラーがいる。学校選択制。2014年に創立140周年を迎えた。蓑島漁港の近くにある。
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教育目標・理念
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「豊かな心をもち しなやかで たくましい子どもの育成」を掲げている。 | 14350297580194436148 |
Q11626690 |
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装甲工作車
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概要
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陸軍は大陸での実戦経験から重量のある戦車、装甲車の迅速な回収と素早い再戦力化には専用の装甲回収車が必要であるとの認識を得た。この車両の開発母体には制式戦車である九七式中戦車が選ばれ、開発は九七式中戦車と同じく三菱重工で行われた。_NEWLINE_車体後部には回収機材であるクレーンとウインチを備え、小型化した砲塔には自衛用の車載重機関銃を装備している。車体後部に機材を備える関係からエンジンは車体中央に移動させられている。またエンジンはより高出力の統制型一〇〇式発動機を装備し、回収に必要なパワーを得ている。_NEWLINE_陸軍機甲部隊にとって本車は有用な装備であったと思われるが、実際にはわずか3両ほどが生産されたに過ぎずほとんど試作車扱いであった。_NEWLINE_別名「戦車隊用力作車」とも呼ばれ、名称の「セリ」とはこの略称である。 | 5129819398615530366 |
Q1069573 |
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襖
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語源
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障子という言葉は中国伝来であるが、「ふすま」は唐にも韓にも無く、日本人の命名である。「ふすま障子」が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始めた。寝所は「衾所(ふすまどころ)」といわれた。「衾」は元来「ふとん、寝具」の意である。このため、「衾所の衾障子」と言われた。さらには、ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していたところから衾障子と言われた、などの説がある。_NEWLINE_「衾(きん)」をふすまと訓ませるのは、「臥す間(ふすま)」から来ていると想像される。いずれにしても「ふすま」の語源は「衾」であるという学説が正しいとされている。ついでながら、襖の周囲に縁取りとして使用した軟錦は、もとは簾や几帳に、縁取りや装飾として使用された、帯状の絹裂地のことである。寝殿造で多用された簡易間仕切りの衝立てにも縁取りとして軟錦は使用され、また畳の繧繝縁(うげんべり)などの縁取にも使用されている。几帳は、台に二本の柱を立て上に横木を渡して、絹綾織りの帳 とばりを掛けたもので、主として女性の座する空間の間仕切りとして、使用されていた。帳は絹布を軟錦の縁取りでつなぎ合わせて、軟錦の上からさらに軟錦の帯を飾りとして重ねて垂らし、裾は長く流して十二単衣の裾のような風情を作っていた。_NEWLINE_「襖」は衣服のあわせや綿いれの意で、両面が絹裂地張りであったことから「ふすま」の表記に使用された。襖の原初の形態は、板状の衝立ての両面に絹裂地を張りつけたものであったと考えられる。この衝立てを改良して、框かまちに縦桟横桟を組み、両面から絹布などを貼って軽量化を図った。この軽量化された衝立てを改良発展して、張り付け壁(副障子)や屏風にも応用していったと思われる。むろん、張りつけ壁や屏風にも、幅の広軟錦が張りつけられていた。「襖」が考案された当初は、表面が絹裂地張りであった。このため「襖障子」と称された。のちに、隠蔽性の高い厚手の唐紙が伝来して障子に用いられて普及していくが、襖障子と唐紙障子は混同され併用されて、絹張りでない紙張り障子も襖と称されていく。_NEWLINE_一応、正式の客間には、白地または襖絵が描かれたものを用いて襖障子と称し、略式の居間や数寄屋風の建物には、色無地や小紋柄を木版で刷った唐紙を使用し、唐紙障子と称したようである。唐紙障子の考案からやや遅れて、「明障子(あかりしょうじ)」が考案された。今日の障子である。_NEWLINE_時代を経るに従い言葉が縮まり、「襖障子」「唐紙障子」の内、「障子」が脱落して「襖」「唐紙」となり、「明障子」は逆に「明」が脱落し、障子が固有名詞となり、間仕切りの総称から地位を譲った。
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『源氏物語』とふすま
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『源氏物語』の中に「開きたる障子をいま少しおし開けて、こなたの障子は引きたて給いて」とあり、また障子に歌を書き付ける話が何度か出てくる。_NEWLINE_『源氏物語』は、引き違いの襖障子をありふれた情景として描いている。この頃になると貴族や上流階級の邸宅には襖がかなり普及していたと判断できる。_NEWLINE_『源氏物語』が書かれてから凡そ100年のちの藤原隆能の描いた『源氏物語絵巻』は、濃い色彩を塗り重ねていく、つくり絵の独特の優美な日本最古の絵巻物語である。人物は下ぶくれの顔に細い横線を引いて目とし、鼻を鉤かぎ状に描く「引目鉤鼻」の手法で描かれ、家屋は屋根や天井を省略した吹抜け屋台となっている。この絵巻物によってで室内の様子がよく判り、衝立、几帳、簾、蔀、屏風など建具の使用状や、襖障子に大和絵が描かれているのが分かる。_NEWLINE_「宿木」の巻では、清涼殿朝餉の間には大和絵の襖障子と、銀地に流水飛鳥の図を描いた副障子(可動式の壁として使用した、嵌め込み式の襖障子の一種)が描かれている。「東屋」の巻では、浮舟の住まう三条の小家の縁側には、遣戸が見える。_NEWLINE_室内の間仕切りに襖障子が使用されているが、姫君の座している側にはかならず几帳が置かれ、個性を演出する織物が使用されていて、部屋をさらに細分化して使用するための重要な隔ての役割を演出している。華麗な室内意匠は実に王朝絵巻にふさわしい。外回りの隔てには、明かり取りに簾や格子も多く見受けられるが、要所には舞良戸が使用されている。_NEWLINE_帝やその他位高き男性の側には、屏風が描かれている。それぞれの建具にそれぞれの役割とインテリアとしての意匠や象徴的意味が込められているようだ。この時代の襖障子は、板戸用の骨太い組子桟に、絹裂地(きれじ)張りであった。開閉の為、引き手として太い総(ふさ)や、戸締まり用の懸金(かけがね)が付けられていた。そして多くは絵師による絵付けが施されていた。当時の一間は3mであり、2枚引違いにすると現在の建具の倍近い巾があった。しかも大工道具が未発達で台鉋もない時代で、骨太い組子しか作れなかった為、今日から考えると実に武骨で大変重い建具であったと思われる。_NEWLINE_現存最古の襖は、建久8年(1197年)に建立されたと伝えられる、高野山金剛峯寺不動堂の内陣と外陣の境にたてられている襖である。ただ上張りも下張りも張り替えられており、当時のものは襖の骨組みだけである。ヤリ鉋で仕上げられた組子骨は太く、見付け3cm見込み2cmの桧造りで、縦骨が4本、横骨が7本組まれている。しかも現在の組子と同じ縦横の骨を交互に組付ける地獄組で、大変手のこんだ作り方であるという。
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襖としつらい
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平安時代の寝殿造の内部は、丸柱が立ち並ぶだけの、構造的な間仕切りが無い、板敷きの床の大広間形式であった。開放的な空間を、住む人の日常生活の都合や、季節の変化や年中行事の儀礼や接客饗宴などに応じて、几帳や屏風や障子などによって内部を仕切り、帳台や畳その他の調度を置いて、その都度適切な空間演出を行った。このような室内の設営を「しつらい」と呼んだ。_NEWLINE_「しつらい」には「室礼」とか「舗設」などの漢字を当てている。やまと言葉としての「しつらい」の「し」は「為(し)」で「する」という意であり、「つらい」は「つれあう」や「つりあう」の意で、その時々の情況に応じて「連れ合う」あるいは「釣り合う」ように「する」ことだという。その時々の季節や住む人の格式や生活様式、行事としての儀式の状況などに調和し融和するように、さまざまな障屏具で「しつらえ」た。「しつらえ」のための主要な間仕切りであった障子が、今日の「ふすま」の原型をなしている。平安時代の寝殿造りの「しつらい」の間仕切りとしては、まず建物の外部と内部との隔てる蔀戸、蔀戸に沿ってかける御簾がある。御簾には外側にかける覆い御簾と内側にかける内簾がある。_NEWLINE_冬には御簾の内側に重ねて壁代という帷をかける。室内には、いわば帷で作った衝立ともいえる几帳を置いたり、絹や布地の引き幕に近い間仕切りの引帷や軟障で小空間を間仕切った。さらには屏風や衝立障子、衝立障子の発展的形態として、木格子の表裏に絹や布地、後に和紙を張り黒塗りの縁をつけた衾障子などを用いた。なかでも、「しつらい」の間仕切り具として最も重要な「障子」は、平安時代にさまざまな形式の障子が考案されている。仕上げ材料によって絹障子、布障子、紙障子、板障子、杉障子、そして副障子(押障子ともいい壁として用いた)や平安末期には明かり障子などが工夫されている。木の組子格子の表裏に絹や和紙を張り重ねた障子が衾障子あるいは襖障子と呼ばれた。板障子も板を下地として紙や布を張ったもので、柱間にはめ込んで壁として用いた副障子である。_NEWLINE_間仕切り建具としての発展的形態から見ると、「障子」は、衝立の原型といえる台脚の上に立てる衝立障子が原型である。絹障子、紙障子、板障子なども台脚の上に乗せる衝立障子であった。衝立障子の中に、四角に窓を開け簀を張りさらに御簾をかけて、内側から向こう側が見えるようにした通障子(透障子)なども工夫されている。「しつらい」として時々の情況に調和させるように「しつらえる」ためには可動形態が便利である。マルチパーパス空間としての寝殿造りは、便所や湯殿さえ固定されていなかった。衝立障子から、柱間に一本の溝を設けてはめ込む副障子が考案された。副障子は建て込み式の障子で、「しつらえ」に応じて建て込んだり、取り外したりできる可動式の壁であった。_NEWLINE_この副障子を、鴨居と敷居という二本の溝を設けて、引き違いに動くように工夫したのが鳥居障子(鴨居障子)で、今日の「ふすま」の原型となったもので、衾障子・襖障子と呼ばれた。このような内部空間を間仕切る多様な障子の発明は、寝殿造りの住宅の公と私の明確な分離に基づく、住まい方の変化をもたらした重大な転機となった。特定の機能や目的を備えた小空間への分離独立への展開は、「室」という概念をもたらした。平安末期に明かり障子が誕生しているが、その原型は帳台と呼ばれる寝所の明かり取りの天井に由来していると思われる。帳台は、寝殿のほぼ中央に設けられた寝所で、畳を敷いて一段高くして、四本の柱を立て、帷や御簾を立て回した。後に衾障子で囲われるようになった。帳台の柱には天井も設けられている。寝所とは言っても、昼間は居間として使用するため、組子格子の片面に光を透かす「すずし」(生絹)を張った天井を設けて、天井の明かり取りとした。そして、この帳台の格子天井の「明かり取り」が後の明かり障子の原型であり、「天井」そのものが、後の書院造りで目的や機能別に小空間に間仕切りされた「室」に、杉板天井が設けられる原型ともなっている。
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金碧障壁画
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書院造のひとつの特色に、華麗な金碧障壁画がある。金碧障壁画は、金箔地に群青・緑青・白緑そして朱や濃墨などを用いた、濃彩色の障壁画(襖や貼り付け壁、屏風などに描かれた絵)で、狩野永徳によって新しい画法が創造された。書院造の障壁画として、有名な二条城の二の丸殿舍や西本願寺の対面所がある。正面床の間の、貼り付壁や付け書院、違棚の小襖や間仕切りとしての襖、長押の上の壁面などをすべて構成要素として利用した、雄大で華麗なパノラマ金碧障壁画が描かれている。_NEWLINE_狩野永徳は、足利将軍家の御用絵師として、漢画の技法と伝統的大和絵の技法を折衷した新しい画法を創造した。平安時代の貴族の邸宅や寺院に描かれた障壁画は、中国の故事や風物を描いた唐絵であったが、日本の四季の花鳥風月や風景を主題に選び、独特の画法を確立した。また、連続したパノラマ画面を構成する為に、襖から軟錦という幅の広い装飾の縁取りの裂地(簾みすや畳にも装飾の縁取りが付けられた)を取り除き、さらに長押の上の小壁も連続した画面として利用するなどの工夫がなされた。金碧障壁画は、書院の単なる装飾的な価値だけでなく、当然ながら地位権力を象徴する演出として利用された。のちの安土桃山時代には、織田信長の安土城や豊臣秀吉の聚楽第や大阪城などに壮麗な金碧障壁画が描かれ、権力の誇示に利用されていく。_NEWLINE_永徳は時代の変革に柔軟に対応して、時の権力者に巧みに取り入り、これらの障壁画のほとんどを狩野永徳とその一門で描いている。ついでながら、狩野派一門は江戸時代徳川将軍家の画工の長として、勢力を維持し続け、画才の他に鋭い政治感覚も合わせて持ち合わせていた。俵屋宗達や尾形光琳などが狩野派の絵画技法を継承発展させて、金碧障壁画は日本美術に実に大きな影響を与えた。
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襖の下張り
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から紙は、紋様を刷り込んだ襖障子の上張り(表張り)のことで、襖障子には多くの下張りが行われる。下張りの工程は、骨縛り、蓑張り、べた貼り、袋張り(浮張り)、清張りなどの工程があり、種々の和紙を幾重にも丁寧に張り重ねてできあがる。_NEWLINE_「骨縛り」は、組子に最初に張り付けるもので、組子骨に糊を付けて、手漉き和紙・茶チリ・桑チリなどの繊維の強い和紙を、障子のように張る。霧吹きをすると和紙の強い繊維が収縮して、組子骨を締め付けてガタがこないようにする重要な役目を担っている。_NEWLINE_「打ち付け貼り」は、骨縛り押し貼りともいわれ、骨縛りをより強固にするための重ね張りとともに、骨が透けないようにする透き止めの効果もある。_NEWLINE_「蓑張り」は、框に糊付けしずらしながら蓑のように重ねて張る。これを二回~四回繰り返す。これは重要な工程で、組子骨の筋の透け防止と襖建具の裄 をだす。さらに、蓑張りが作り出す空気の層は、断熱保温効果と吸音防音効果も果たしている。_NEWLINE_「べた貼り」は、紙の全面に糊をつけて貼り、蓑張りの押さえの役割を持つ。_NEWLINE_「袋張り」は、半紙または薄手の手漉き和紙や茶チリなどの紙の周囲だけに、細く糊を付けて袋状に張る。袋状に浮かして張るので「浮け張り」ともいい、奥行きのある風合いを完成させる。_NEWLINE_「清貼り」は、紙の全面に薄い糊を付けて貼る。これは上張りの紙の材質や裏と表に材質の異なる表面紙を張るときなどに限って使用する。_NEWLINE_これらの幾重にも和紙を張り重ねていく工程は、組子の障子の格子を紙の引きで固定し、木材のひずみを防止するとともに、裄のある(ふくらみのある)風合いをもたせて仕上げるためのものである。骨縛りは引きの強い反故紙を用い、中期工程には湊紙(和泉の湊村で漉かれた漉き返しの紙で、薄墨または鼠色の紙)や茶塵(ちゃちり)紙(楮の黒皮のくずから漉いた紙や、故紙を再生したもので単に塵紙ともいう)を用い、清貼の工程には粘りの強い生漉きの美濃紙・細川紙・石州半紙などが用いられた。_NEWLINE_板戸や明かり障子は建具職人によって作られるが、襖は一般に建具とは言わず、「ふすま」と言い、経師や表具師によって、幾重にも紙を張り重ねることによって「ふすま」となって行く。紙質を変え、張りの仕口をかえて、紙を張り重ねていくと、ふすまは丈夫になるとともに、吸音効果や断熱効果そして調湿効果などとともに、ぴんと張りつめたなかにも、ふっくらとした柔らかい味わいで、落ち着いた和風の雰囲気を醸し出す。
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襖と白
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古来から、日本人は「白」という色を、汚れのない清らかなもの清浄なもの、神聖なものとして特に大切にしてきた。白に無限の可能性を感じ、美しさの原点でもあった。_NEWLINE_古代から麻や楮の繊維から衣料を作ったが、特に楮の皮の繊維は「木綿(ゆふ)」と呼ばれ、剥いだ樹皮の繊維を蒸した後、水にさらして糸状に精製したものである。この木綿で織った布を白く晒したものを白妙と呼び、日本人の白さに対する感覚の原点と言える。清らかな冷たい水の中を幾度もくぐらせて、何度もさらすことによって、身を浄めるようにして得られた、美しく白い繊維の木綿の白さに神聖なものとしての感情が移入されている。木綿は「ぬさ」とも呼ばれ、幣または幣帛という漢字が当てられている。_NEWLINE_木綿は、神を招来するための祭具であり、神の座の飾りでもあった。神前で舞う巫女の持つ榊の小枝や、神に捧げる若竹や篠などを用いた斎串に付けたり、しめ縄に垂(四手)として飾り、神聖な領域を示す結界の象徴として用いてきた。木綿は楮の皮の繊維からつくり、紙もまた楮の繊維からつくる。和紙が普及する奈良時代には、木綿に代わって紙が幣の座を占め、どこの神社も紙の幣帛で飾られるようになった。_NEWLINE_和紙の普及に伴い、奈良時代には木格子の両面に和紙を張った衝立障子が用いられ、平安時代には衾障子が用いられるようになっている。障子は古来間仕切りの総称として用いられたが、「障」はさえぎる、へだてるの意がある。障子は神聖な「奥」への視界をさえぎり、さらには物の怪や邪霊を防ぎ、風や冷気をさえぎる。衝立障子や屏風、帷そして衾障子には、木綿で織られた白妙や麻・絹そして紙を張ったが、神聖な場所としての結界として、聖域を邪霊から守り防ぐ意味から、清浄で神聖な「白」が張られた。そして、寝具として身を包む衾も清らかな白が用いられた。_NEWLINE_『類聚雑要抄』(るいじゅうざつようしょう)所収の永久3年(1115年)藤原忠実の東三条殿の寝殿しつらえ図面によると、すべての障子には絵画も唐紙紋様もない「地・白」と記されている。随身所のしつらえ立面図などには、すでに障子の表面に「襖」という文字が記され、「襖類何レモ白」と記されている。襖に白鳥の子を張るという伝統は今日にも引き継がれており、格式の高い料亭や旅館にも使われており、皇居の和室の襖も白の鳥の子が張られているという。_NEWLINE_古代以来の日本人の白に対する神聖性とは別に、仏教伝来と共に対局の金色燦然とした「荘厳」といわれる飾りの聖性を獲得していった。仏教における祭壇で、黄金の光背を放つ金色燦然とした金銅仏が安置され、きらびやかに彩られた欄間などの装飾によつて、空間全体が極楽浄土を暗示している。古代の神道の清浄な「白」に対す聖性に対して、光り輝く黄金色の新しい聖性は、古代の日本人に大きな価値観の変化をもたらした。仏教の影響は、神道の拭い清める白の神聖性と、白の装飾性から、仏像伽藍のような、より立派により華やかに装飾するという加飾性を大きくしていった。 _NEWLINE_襖の原型である衝立障子や屏風そして押しつけ壁にも、唐絵が描かれるようになり、九世紀中頃には大和絵が描かれるようになった。鎌倉・室町時代に寝殿造りから書院造りへと移行し、江戸時代に書院造りは武士階級の住宅様式として完成していった。初期の書院造りの特徴は、接客対面の儀式の場としての書院を、権力の象徴として、襖障子と張り付け壁を連続させて、その全面を金地極彩色の金碧障壁画で飾り立てた。織田信長の安土城は、殿中が金箔で光り輝いていたという。 | 17259823829098507927 |
Q743823 |
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西アフリカ・ポンド
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西アフリカ・ポンド(英語:West African pound)は、主に西アフリカのイギリス植民地、保護領、信託統治領で使用されていた歴史的な通貨である。 UKポンドと等価であった。現在では全て他の通貨に置きかえられている。 | 18015435289543612916 |
Q11627213 |
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西会津町民バス
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西会津町民バス(にしあいづちょうみんバス)は、福島県耶麻郡西会津町にて運行しているコミュニティバスである。_NEWLINE_「Let's Go シャトル」の愛称が付けられている。 | 8827869326452286870 |
Q1039896 |
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西台駅
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概要
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開業当時の地名は「志村西台町」であったが、区画整理とともに「高島平」に変わっている。開業以来、出入口が東口のみしかなかったため、高島平寄りの住民にとっては不便であったが、2003年に板橋区議会で西口を新設することが決定し、2004年3月31日に完成した。_NEWLINE_当駅のホームは元々6両分しかなく、東端は東口(当時は出入口)への階段となっていたため、8両編成への対応時には西側部分を2両分延長しなければならなかった。しかし、西端には乗務員交替用の階段があったため、電車の運行を保ちつつホームの延長と新階段の建設、旧階段の撤去を行うこととなり、三田線内では8両編成への対応が最も遅れた。ただしその後8両編成化計画そのものが延期となり、2021年度より8両編成の列車を運転する計画である。_NEWLINE_また、西口の建設時は、8両編成対応のために新たに建設した乗務員交替用の階段の完成からあまり時間が経っていなかったため、その階段をそのまま使う予定であった。しかし、駅の建築基準を満たさなかったため、結局新たに建設し直した。
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駅構造
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相対式ホーム2面2線の高架駅。東口にはコンコースと1番線ホームを結ぶエスカレーターやコンコースと2番線ホームを結ぶ車椅子用の昇降機が、西口にはコンコースとホームを結ぶエレベーターが設置されている。冷水器はない。_NEWLINE_東京都交通局志村車両基地(志村車両検修場・高島平乗務管理所・志村寮)が隣接しており、乗務員の交替も行われる。
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駅周辺
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周辺は、高島平、蓮根となる。
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東口
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タクシー乗り場を設置した駅前ロータリーがある。北側に東京都交通局志村車両基地が隣接しており、その上の人工地盤に都営西台住宅がある。
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西口
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2004年に開設された。 | 15651949365161300384 |
Q11627548 |
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西大寺 (学区)
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西大寺(さいだいじ)は、岡山県岡山市東区にある地区である。連合町内会の区域、およびコミュニティ協議会設置区域であり、岡山市立西大寺小学校学区とほぼ同等である。旧上道郡西大寺村および同芳野村東部からなる。_NEWLINE_同市東区の区役所所在地で、同区役所本庁管轄地である西大寺旧市域の中心市街地にあたる。広義の西大寺である西大寺旧市域(区本庁管轄域)に対し「狭義の西大寺」にあたる。また、裸祭で有名な古刹・西大寺が所在し、当地の中心市街地はその周辺の門前町に由来する。また当地は河港の港町、さらには市場町としても繁栄した。_NEWLINE_当地には西大寺上(さいだいじ かみ)1~3丁目、西大寺中(さいだいじ なか)1~3丁目、西大寺南(さいだいじ みなみ)1~2丁目、西大寺東(さいだいじ ひがし)1~2丁目、西大寺(さいだいじ)、向洲(むこうず)・西大寺中野本町(さいだいじ なかのほんまち)・西大寺中野(さいだいじ なかの)・浅越(あさごえ)・西庄(にししょう)・吉原(よしわら)の町字がある。
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西大寺
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西大寺上1~3丁目、西大寺中1~3丁目、西大寺南1~2丁目、西大寺東1~2丁目、向洲、西大寺、および金岡東町1丁目・西大寺中野本町の一部からなり、旧西大寺村域にあたる地区。_NEWLINE_吉井川河口よりやや上流の西岸に位置し、芥子山の南東方向1kmほどにあたる。東に芳野、南に金岡、北には雄神、西は吉井川を挟んで豊の各地区と隣接している。_NEWLINE_旧牛窓往来沿いの町並みを中心に集落が形成されており、地区内中央やや北寄りに、金山と呼ばれる小高い独立丘がある。_NEWLINE_現在の集落は中世に生まれたとされ、上道郡および同郡から分離した上東郡に属していた。当時は金岡庄という荘園の一部で、同荘園の物資の集散地として川湊が発達、内陸各地とその他地域との交易が盛んに行われた。同時に、西大寺の門前町として市場が発達し賑わった。元亨2年の西大寺境内絵図では、西大寺門前町には定期市が立ち、市場数は2反で、金岡庄の地頭方と領家方に分かれていた。酒屋・魚座・餅屋・莚屋・鋳物座などがあり、酒屋は毎年一家ごとに100文、魚座は毎年300文を地頭や領家に差し出したほか、酒屋は市の日に地頭へ酒2升を差し出すこととなっていた。今日、門前町の付近を市場町と称するのは、これに由来している。_NEWLINE_吉井川の川湊に隣接するこの市場町は、門前町と同時に湊町としても機能し、室町時代末期には西大寺の門前には小都市といえる規模にまで発展した。延徳4年、西大寺造営のために浦上宗助が「金岡西庄公文之内西大寺市場数」を、宇喜多久家は「金岡東庄領家之内西大寺市場数」などを灯油免として同寺に寄進している。_NEWLINE_戦国時代、宇喜多秀家は岡山城建造に伴い城下町の建設を計画、有力商工業者の岡山城下移住を推し進めたが、当地から多く移住者がおり、彼らが集まり住んだ場所は西大寺町と呼ばれ、今日までその地名は存続している。_NEWLINE_『西大寺文書』によれば文禄4年12月、宇喜多秀家黒印状に「高五拾石也 上東郡西大寺内」を西大寺に与えられたとあり、宇喜多秀慶寄進状では、慶長4年には「西大寺内」20石が同寺院円蔵坊に寄進されたとある。同6年の小早川秀秋寄進状によると、西大寺村の名が見え、『寛永備前国絵図』では、石高1454石余りとされている。_NEWLINE_『御納戸大帳』によると、近世になると岡山藩領分となり、引き続き門前町・市場町として繁栄し、また吉井川の船運が整備されるにつれ、作州米を主に美作方面から物資が流入し、瀬戸内航路の船載貨物も集まり、米問屋や廻船問屋が台頭、寛永19年には岡山藩が領内13箇所を定め、所商売を許可した在町の一つに含まれた。寛永10年には締問屋として作州米問屋佐七、作州米売問屋・御国米共改問屋・綿実菜種改問屋忠治郎、綿実菜種改問屋八兵衛、薪問屋佐七・紋三郎・太兵衛・磯右衛門・五兵衛・五右衛門・忠治郎などの名が見え、店舗5年には菜種綿実改問屋に八兵衛・亀次郎・加右衛門が命ぜられ、吉井川筋に積み上がる菜種・綿実を改めている。当時の当地は岡山藩により大阪への蔵米輸送を課せられた加子浦でもあり、享保8年以降は江戸廻米の輸送も負担する七加子浦の一つとなった。青森県上北野郡野辺地町の五十嵐家に残る『久星客船帳』には、江戸後期を中心とした計254艘の船名が記録されるが、当地の平野屋平吉の行安丸の名も見える。_NEWLINE_『備陽記』では、家数271軒、人口1536人、小平太渡船1、二端帆から九端帆までの船は28艘。また文化年間の『岡山藩領手鑑』では、直高2528石余り、田66町7反余り、畑16町7反余り、家数424軒、人口1944人、牛32、樋27とあり、西大寺および同寺中では、寺は慶、出家10、山伏1、堂9(観音・薬師・一切経蔵・大日・大師・仁王門・火防地蔵)、社3(鎮守牛頭所宮・天神宮・弁財天)、医者5、船27、育麦蔵1とある。_NEWLINE_江戸時代には、例年、初茄子・青瓜を出荷し、本綿も他所よりも品質が優れていたといわれる。初青瓜は享保3年には5月中旬に岡山城へ計3籠差し出されている。西外れに梅枝橋があり、梅の枯れ木で橋を作ると、その木が花を咲かせ、実を付けたので名付けられたという。対岸の新村への渡し船があり、金山の脇には金岡塚(狩野塚)と呼ばれる高さ三尺の石塔があったといわれる。渡し場は、のちに川下の金岡村地内に移ったが、宝暦6年に川筋が埋まったために再び当地にあった旧渡し場で渡船をしたいとの願い出があったと『撮要録』にある。_NEWLINE_明治22年に町村制施行、同29年2月、町制施行し西大寺町となり、昭和12年1月に上道郡金岡村、同15年には同郡芳野村を編入合併した。同28年、上道郡・邑久郡におよぶ周辺村と合併、西大寺市となった。同35年の2ヶ村(上道郡雄神村・邑久郡朝日村)および翌36年の1ヶ村(邑久郡大宮村)の編入合併を経て、同44年に岡山市へ編入合併する。同市東部地域の行政・経済の拠点を担う。そして平成21年4月へ政令指定都市へ移行、東区の行政区の一部となり、同区役所が当地に置かれ(旧支所=旧西大寺市役所の位置)区役所本庁管轄になる。_NEWLINE_明治期、山陽鉄道敷設が計画される。しかし、西大寺港への影響から地元住民が反対し、実現しなかった。地区外を通るルートで明治24年に山陽鉄道が開通すると、鉄道の必要性を感じ、鉄道敷設計画が再燃する。明治から大正期にかけ、備前鉄道・西大寺鉄道・瀬戸軽便鉄道・東備軽便鉄道・山陽海岸線鉄道などの計画があったが、いずれも計画に至らなかった。明治44年に念願の鉄道である西大寺軽便鉄道が敷設され、西大寺観音院-長岡が開通した。これにより当地から山陽鉄道西大寺駅(現・東岡山駅)が結ばれる形となった。大正4年に後楽園駅までに延伸されたが、昭和37年に同鉄道は廃線となった。それに代わり、同年に赤穂線が開通し、新たに当地北部、現在の西大寺上2丁目に西大寺駅が新設された。なお、旧西大寺軽便鉄道西大寺駅は、西大寺軽便鉄道の後継である両備バスのターミナルとなる。_NEWLINE_明治27年、日清戦争の後、当地内には工場の設立が相次いだ。まず同29年、西大寺紡績が設立された。同社は明治44年に鐘淵紡績に編入合併され、鐘紡西大寺工場となる。その後も中小の工場が設立が続き、商工業の町として栄えた。_NEWLINE_当地では近代の早くから中等教育が充実しており、明治34年に西大寺町立西大寺女学校、昭和15年には岡山県立西大寺中学校が開校した。いずれも現在の岡山県立西大寺高等学校の前身である。_NEWLINE_昭和初期頃まで、高瀬舟が当地から吉井川を通り県北の津山までの間の約三十里を往来し、廻船の積み換え港として栄えていた。現在もかつての港町・門前町・市場町の名残をとどめた古い町並みが現存しており、岡山市はまちづくり交付金事業の一環としてこの地区の保存整備を行っている。また、地元住民によりまちづくり協議会も設置されており、まちづくり協定なども制定されている。この地区の東よりの旧河本町付近には特に古い建物が多く残る。また、また五福通り周辺(北之町・中福町など)は、昭和前期から中期ごろのノスタルジーを感じさせる町並みとして保存活動が行われており、レトロ看板などの保存活動は全国的にも珍しい。五福通り周辺は、平成17年1月に映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のロケが行われ、住民がエキストラとして参加した。また西大寺八景として当地から西大寺駅前広場・向州公園の桜並木・吉井川の清流が選定されている。_NEWLINE_当地にある向洲は、向洲公園として4.1ヘクタールの敷地に岡山市東部の文化拠点として市民会館・公民館・図書館・交通公園などが立地し、さらに200メートルの陸上競技場、野球場、テニスコートなどが整備されており、昭和62年には夜間照明も備えられた。他に金岡ポンプ場などもある。_NEWLINE_昭和47年に住居表示事業により、現在の町区名となった。_NEWLINE_なお当地は、天満屋の創業地でもある。
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芳野東部
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西大寺中野本町・西大寺中野(各一部除く)、浅越、西庄、吉原からなり、旧芳野村東部にあたる地区。芳野村は、明治22年6月、町村制施行により上道郡中野・浅越・西庄・吉原・広谷・松崎の5ヶ村が合併して新設。昭和15年12月に同郡西大寺町へ編入を経て、同28年2月に市制施行で西大寺市となった。
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中野
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旧上道郡中野村。砂川の東岸にあたり、西大寺門前町の西方にある地区。北は浅越、南は金田(金岡新田)、西は砂川を挟み広谷と接する。地名の由来は不詳であるが、『慶長十年備前国高物成帳』には金岡庄中野村の記載がある。『備陽記』では石高982石6斗8升、田畑69町8反4畝、家数141軒、人口769人となっている。文久年間の記録では家数169軒、人口725人となり、家数は増加するも人口は減少している。文化年間の『岡山藩領手鑑』によれば、当時の統治は、岡山藩家臣18人の給地と蔵入地となっていた。。_NEWLINE_元禄までは海に面する漁村で、吉井川河口周辺から西は高島から東は久々井沖までを主な漁場とした。しかし沖合一帯が開墾され金岡新田などが生まれると、河港と化し、のちに農村地帯となった。_NEWLINE_明治になり、明治44年、カネボウの西大寺工場が当地で操業を開始したが、現在は移転により跡地には商業施設が立地している。現在、県道岡山西大寺線周辺には岡山東警察署(旧西大寺警察署)や西大寺郵便局があるなど市街化が進行している。また、かつては法務局西大寺出張所も立地した。_NEWLINE_明治22年6月、町村制施行により、近接する同郡浅越・西庄・吉原・広谷・松崎と合併し、芳野村を新設し、同村の大字の中野となった。その後、西大寺町へ編入、西大寺市を経て岡山市へ編入となる。_NEWLINE_昭和47年に住居表示事業が行われ、当地の一部が西大寺上1丁目・西大寺西大寺中1丁目・西大寺南1丁目の各一部となった。のこる地域は西大寺中野本町と西大寺中野に分かれた。_NEWLINE_域内には潮見塚、宗心塚、岡崎常閑墓などの史跡がある。
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浅越
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旧上道郡浅越村にあたる。西大寺(狭義)の西部に位置し、芥子山南東麓の平地で、域内中央を南北に砂川が貫流し、川を挟んで東西に区域がわたっている。東北部にも小丘陵地がある。浅越庄の遺称地となる地区。_NEWLINE_寛永備前国絵図では石高706石余り、正保郷帳では枝村として東山寺村があった。文化年間の『岡山藩領手鑑』によれば、当時の統治は蔵入地となっていた。。_NEWLINE_近世前期頃は海に近い土地であり、漁師も多数居住していた。『撮要録』のよれば、貞享2年に西大寺川河口から庭瀬川河口に至る漁域への入漁を巡って、上道郡平井村との間で争論が勃発した。_NEWLINE_明治22年6月、町村制施行により、近接する同郡中野・西庄・吉原・広谷・松崎と合併し、芳野村を新設し、同村の大字の浅越となった。その後、西大寺町へ編入、西大寺市を経て岡山市へ編入となる。_NEWLINE_現在、砂川沿いを南北に国道2号線岡山バイパスが通り、周辺は宅地化・市街化が著しい。
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西庄
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狭義の西大寺の最西北端で、東に吉原、南に浅越に接する。芥子山の東麓で、芥子山と同じ丘陵にあり芥子山の東側にある雨乞山の南東麓に位置する。北・西部は丘陵地、中・南。東部は平地となり、中央に小丘があり、天神八王子月尾宮が鎮座する。_NEWLINE_『慶長十年備前国高物成帳』では、浅越庄内の村の一つとして記載されており、浅越庄の西端に位置することが地名の由来ともいわれる。寛永備前国絵図では、石高369石余り。『備陽記』では、田畑26町余り、家数67、人口392人、池1とある。文化年間の『岡山藩領手鑑』によれば、当時の統治は、岡山藩家臣3人の給地と蔵入地となっていた。。_NEWLINE_明治22年6月、町村制施行により、近接する同郡中野・浅越・吉原・広谷・松崎と合併し、芳野村を新設し、同村の大字の西庄となった。その後、西大寺町へ編入、西大寺市を経て岡山市へ編入となる。_NEWLINE_宅地化・市街化が著しい当西大寺地区の中にあって、農地も多く残る地区である。
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吉原
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狭義の西大寺の最北端で、西に西庄、南に浅越に接する。芥子山と同じ丘陵で、芥子山東部の雨乞山の東麓に位置する南北に長い区域を持つ。北は丘陵地、中南部は平地となり、南端を砂川と国道2号線岡山バイパスがわずかに通る。_NEWLINE_古くは当地は文読(ふみよみ)と称した。_NEWLINE_『慶長十年備前国高物成帳』では、浅越庄内の村の一つとして記載されている。寛永備前国絵図では、石高241石余り。『備陽記』では、田畑13町5反余り、家数67、人口392人、小平太1とある。文化年間の『岡山藩領手鑑』によれば、当時の統治は、岡山藩家臣5人の給地と蔵入地となっていた。_NEWLINE_明治22年6月、町村制施行により、近接する同郡中野・西庄・浅越・広谷・松崎と合併し、芳野村を新設し、同村の大字の吉原となった。その後、西大寺町へ編入、西大寺市を経て岡山市へ編入となる。 | 1080558250852085774 |
Q11627881 |
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西山町 (柏崎市)
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西山町(にしやまちょう)は、新潟県柏崎市にかつて設置されていた地域自治区。2005年5月1日に柏崎市が編入した旧刈羽郡西山町(にしやままち)の区域に設置され、西山町(にしやまちょう)事務所は旧西山町役場が使用されていた。区内の住所の表記は、大字の上に地域自治区名が冠せられていた。_NEWLINE_2015年3月31日に廃止された。 | 2362070676254431755 |
Q11628857 |
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西武501系電車
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概要
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戦後、日本国有鉄道(国鉄)より譲り受けた老朽木造車や戦災国電の鋼体化車両・復旧車両(クモハ311形・クハ1311形・クハ1411形)の大量導入によって復興期の輸送力増強に充当していた西武鉄道であったが、それらが一段落した1953年(昭和28年)頃より自社独自設計の車両の新製が計画された。こうして、戦後の西武鉄道すなわち武蔵野鉄道・(旧)西武鉄道が合併して誕生した(新)西武鉄道初の新型車両として、翌1954年(昭和29年)7月に第一編成が復興社所澤車両工場(後の西武所沢車両工場)で落成したのが本系列である。なお、竣功当時本系列は西武社内において「ユネスコ電車」の愛称で呼ばれたものの、一般には浸透せず社内でもいつしか死語となった。_NEWLINE_本系列はモハ501形(Mc)-サハ1501形(T)-サハ1501形(T)-モハ501形(Mc)からなる4連で編成され、519編成までの初期落成分では編成両端の電動車(モハ)が17m級車体、中間付随車(サハ)が20m級車体と車体長が不揃いであったが、1957年(昭和32年)に落成した521編成以降では電動車・中間付随車ともに20m車体で統一され、全鋼製車体に設計変更されて落成した。後年501 - 519編成も20m車体で統一されることとなるが、詳細は後述する。
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仕様
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1954年(昭和29年)7月から1956年(昭和31年)9月にかけて新製されたモハ501 - 520(初代)・サハ1501 - 1520が初期車グループに、1957年(昭和32年)8月から1959年(昭和34年)7月にかけて新製されたモハ501 - 520(2代)・521 - 530・サハ1521 - 1530が後期車グループにそれぞれ属する。_NEWLINE_なお、モハ501 - 506(初代)・サハ1501・1502・1507 - 1520は木造車(国鉄より払い下げを受けたモハ1形等)の鋼体化名義、モハ501 - 504(2代)は従来車の車体大型化改造名義でそれぞれ新製されている。
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初期車
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前述のように電動車(モハ)が17m級車体、中間付随車(サハ)が20m級車体と車体長こそ異なっているものの、いずれも屋根板および内装部分が木造とされた片側3扉構造の半鋼製車体である。モハはモハ311形と、サハはクハ1411形とそれぞれ外観上の類似点を多く有するが、窓上下の補強帯(ウィンドウシル・ヘッダー)が内部に埋め込まれてノーシル・ノーヘッダー構造となったことが主な相違点である。_NEWLINE_モハの前面形状は当時の流行を取り入れる形で、国鉄80系電車に端を発する湘南型デザインが採用された。すなわち、前面を縦横中央部で折り曲げて後退角を設け、左右2枚の前面窓と中央上部に埋め込み式前照灯を備えるもので、各社に多数存在した湘南型の亜流デザインを採用した車両の中でも、本系列のそれは比較的オリジナルに忠実な設計とされている。ただし、標識灯が露出型の引っ掛け式とされた点や、オリジナルデザインでは前面向かって左側窓上に存在する運行番号表示窓に相当する設備がない点が異なる印象を与えていた。また、前面窓下中央部には行先種別表示板受けが設置されている。_NEWLINE_この前面形状は前面窓を連続窓風に改めた551系、前面行先表示幕設置に伴い前照灯を腰部に移設し同部分にステンレス製の飾り板を設けた701系といった具合に後継形式にもアレンジを加えつつ脈々と受け継がれ、1984年(昭和59年)から1987年(昭和62年)にかけて新製された3000系まで、実に30年以上にわたって西武の通勤形車両の標準仕様であり続けた。_NEWLINE_客用扉は1,100mm幅の片開扉で、扉窓がHゴム固定とされたプレス扉である。側窓は鋼製サッシの二段上昇窓で、戸袋窓は開閉可能窓に合わせた二段窓形状である。窓配置はモハがd1D4D4D2(d:乗務員扉, D:客用扉)、サハが2D5D5D2と、車体長の差異からサハは扉間の窓が1枚ずつ多いほか、各部吹き寄せ寸法も両者で異なる。連結面は切妻構造で、800mm幅の貫通路と貫通扉を有する。ベンチレーターはガーランド形を採用し、モハは5個、サハは7個搭載する。また、車内換気装置としてファンデリアが設置されたことから、ファンデリア直上のベンチレーター(1両あたり2個)は大型の特殊形状のものとされている。_NEWLINE_車内はロングシート仕様で、床面および壁面は木製である。内装は壁面がピンク系塗装塗り潰し、シートモケットは深紅色と当時の国鉄の特別二等車(特ロ)と同様のカラースキームを採用し、運用開始当初は特別料金を必要とする車両と勘違いされたというエピソードが残る。また、車内放送装置と蛍光灯照明を西武の車両として初めて採用し、前述のように車内換気装置としてファンデリアを1両あたり2基搭載した。_NEWLINE_501 - 509編成(初代)は同一形態で新製されたが、1956年(昭和31年)に増備された511編成(初代)より屋根および雨樋が鋼製化され、屋根の仕上げもキャンバス張りからビニール張りに変更された。鋼製雨樋は木製のものに比べて上下寸法が細く、設置位置も若干低くされたこととあいまって、従来車とは異なる印象を与えるものであった。
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後期車
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1957年(昭和32年)に増備された521編成よりモハも20m級車体となり、編成されるサハ(1521以降)ともども全鋼製車体に設計変更された。同時に床面高さが1,160mmと初期車グループよりも40mm低くされたほか、屋根部曲面の断面形状も異なっており、初期車グループと比較すると屋根が薄く平たくなった印象を受ける。屋根の仕上げはモハ511(初代)・サハ1511以降同様ビニール張りである。ベンチレーターは初期車グループ同様ガーランド形を搭載し、ファンデリア直上のベンチレーター(1両あたり2個)が大型の特殊形状のものとされていることも初期車グループに準じている。_NEWLINE_客用扉は1,100mm幅の片開扉であるが、初期車グループと異なりプレス模様のない扉を装備する。側窓は初期車グループ同様二段上昇窓ながら、窓枠がアルミサッシ化されたほか、上下段の窓開口部比率が1:1に改められ、戸袋窓もHゴム固定の一枚窓となった。窓配置はモハが20m級車体となったことに伴いd1D5D5D2(d:乗務員扉, D:客用扉)と変化し、サハは初期車グループと同様である。また、連結面貫通路が1,200mm幅の広幅貫通路となり、貫通扉は廃止された。_NEWLINE_車内は床がグレーのロンリューム貼りとなり、壁面は初期車グループ同様ピンク系塗装塗り潰しながら、壁材が鋼板に変更されている。その他、シートモケット色や手すり・網棚形状等は初期車グループの仕様を踏襲している。
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主要機器
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当時の流行や最先端の技術を惜しみなく投入した車体周りとは対照的に、主要機器は国鉄からの払い下げ品で占められた。もっとも、それら払い下げ品や自社ストック品の中でも比較的高級品を選別して搭載しており、新型車両としての体裁は一応整えられている。_NEWLINE_主電動機は鉄道省制式のMT30を搭載する。これは当時西武が保有した主電動機では最も高出力のものであり、本系列の新製に際しては自社ストック品のほか、モハ311形に搭載されていたものを転用するなどして所要数を確保している。_NEWLINE_制御器はこちらも国鉄制式の電空カム軸式CS5を搭載し、界磁接触器CS9との組み合わせで弱め界磁制御を行う。弱め界磁制御を取り入れたのは西武では本系列が初のことであり、MT30主電動機の高出力と相まって、最晩年まで本系列が後継のカルダン駆動車各系列に伍して第一線で運用され続けた要因ともなった。_NEWLINE_制動装置はA弁を使用したAMA/ATA自動空気ブレーキで、車体側に1両あたり1基搭載されたブレーキシリンダーを介して前後台車の計4軸の制動を動作させる、古典的なブレーキワークが採用された。後年長大編成化に対応して電磁弁を追加し、AMAE/ATAE電磁自動空気ブレーキに改良された。_NEWLINE_台車はモハ501 - 510(初代)がモハ251形(初代)より転用した梅鉢車輛(後の帝國車輛工業)製ペンシルバニア形ペデスタル式台車TR25A、モハ511 - 516(初代)が鉄道省制式TR25(DT12)、モハ517 - 520(初代)が鉄道省制式釣り合い梁式台車TR22(DT11)をそれぞれ装備する。サハは全車TR11系台車を装備した。一部台車はコロ軸受(ローラーベアリング)仕様であったものの、大半は平軸受(プレーンベアリング)仕様のままとされたが、後年の改造によって全台車コロ軸受化されている。_NEWLINE_なお、初期車グループでは電動空気圧縮機 (CP)および電動発電機 (MG)といった補機類もモハへ集中搭載したため、電気的にはモハのみの単独走行も可能な仕様となっていた。_NEWLINE_後期車グループも主要機器の仕様は同一であったが、モハの台車が全車TR22(DT11)で統一された点が異なる。サハは初期車グループ同様、全車TR11系を装備した。また、CPおよびMGがサハへ搭載されて自重の均等化を図ったため、初期車グループとは異なりモハ単独での走行は不可能となった。
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20m車へ統一、形式再編
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前述のように501 - 519編成はモハが17m級車体であったことから、これを521編成以降と同様20m級車体のモハを新製して置き換えることとなり、1958年(昭和33年)8月よりモハ501 - 520(2代)が順次新製されて編成替えが行われた。_NEWLINE_代替新製された20両の電動車は後期車であるモハ521 - 530とほぼ同一仕様とされたが、屋根がビニール張りから塗装仕上げに変更されて外観に差異が生じたほか、主要機器を初代から流用した関係で一部の車両は台車が異なる。_NEWLINE_また、これら代替新製された電動車に組み込まれることとなったサハ1501 - 1520は半鋼製車であり、床面高さが全鋼製車と異なっていたことから、編成替えに際して連結面貫通路の広幅化のほか、貫通路高さの調整を施工している。加えて、サハ1521 - 1530同様にCPおよびMGが新たに搭載され、仕様の統一が図られた。_NEWLINE_こうして本系列は20m車で統一されたが、初期車と後期車では車体断面形状や床面高さ・側面窓形状等に差異を有することから、混結編成の501 - 520編成と後期車のみで編成された521 - 530編成を比較すると、編成美という観点では前者は一段見劣りするものであった。また、冒頭で述べた通り20m車で統一されて以降の本系列は501系(2代)とも称される。_NEWLINE_なお、連結相手のサハと主要機器・車番をモハ501 - 520(2代)に提供したモハ501 - 520(初代)は、モハ311形等から捻出したMT15系主電動機およびCS5制御器を搭載してモハ411形(初代)411 - 420と改称・改番された。_NEWLINE_モハ411形(初代)と改称・改番されて以降のモハ501 - 520(初代)の動向については西武351系電車項目を参照されたい。
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伝説の2M4T編成
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1960年代は高度経済成長に伴うラッシュ時の爆発的な利用客増加対策に鉄道会社各社は追われていたが、西武もまたその例外ではなかった。前述のように本系列が他系列と比較して高速性能に余裕を有していたことに着目した西武は、性能的余裕を活用する形で本系列に新たにサハ2両を組み込み、より安価に輸送力増強を図ることを計画した。こうして1962年(昭和37年)に新製されたのがサハ1551形1563 - 1572であり、これらを521 - 530編成に各2両ずつ組み込んで、後の趣味誌等において「伝説」と称された2M4T編成が5編成誕生した。都市部の高密度ダイヤで運行される高速鉄道におけるMT比1:2の編成は当時としては非常に特異な例であった。_NEWLINE_しかし、実際に運用を開始すると編成出力が著しく低下したことによる加速性能、特に起動加速の劣化が到底看過し得ない程度のものであるということが明らかとなった。肝心のラッシュ時の運用においては遅延の要因となって乗務員から不評を買う結果となり、結局1968年(昭和43年)に編成を解消し、521 - 530編成は本系列のみの4連に戻されている。_NEWLINE_なお、編成を解除された後のサハ1563 - 1572は半数が電動車化され、新たに551系の中間車として転用された。
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晩年
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前述のように各部に手を入れられつつ、本系列は第一線で運用され続けた。主電動機出力の余裕を生かし、西武秩父線開業以後は休日のハイキング急行(現在の快速急行の前身)運用にも数多く充当された実績を持つ。しかし、101系の大量増備に伴って従来車の代替が進行すると、比較的車齢の高い本系列も修繕工事施工から日が浅かったにも関わらず同系列による代替対象となった。311系および371系の淘汰が完了した後、かつて同一形式であった351系(元モハ501 - 520初代)と同時進行で淘汰が開始された。_NEWLINE_伊豆箱根鉄道へ貸与されるため1975年(昭和50年)2月に529編成が運用離脱したことを皮切りに順次廃車が進行し、1980年(昭和55年)3月限りで全車運用を離脱、形式消滅した。
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譲渡車両
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廃車後、本系列60両中計31両が地方私鉄へ譲渡された。編成単位で譲渡されたものはいずれも3両編成に短縮した上で譲渡されており、譲渡に際して中間サハの差し替えを行った編成も存在する。しかし、車齢が35年を経過した1980年代後半以降は譲渡先でも代替廃車が相次ぎ、2010年(平成22年)9月時点で現存する車両は大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ譲渡され、客車化改造を施工された初期車グループのサハ2両のみであり、先頭車および後期車グループのサハについては既に全車廃車解体されて現存するものはない。_NEWLINE_なお、本系列の解体発生品である空気バネ台車およびMT30主電動機は、本系列のTR22台車を装備した車両の譲渡に際して振り替えに用いられたほか、451系の上信電鉄向け譲渡車両にも転用された。
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総武流山電鉄
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1979年(昭和54年)から1981年(昭和56年)にかけて、総武流山電鉄(現・流鉄)へ509・511・515・523の各編成が順次譲渡された。509・511編成は偶数サハを、523編成は奇数サハをそれぞれ編成より外し、515編成は西武在籍当時に編成を組んだサハ2両が後述のように他社へ譲渡されたため527編成からサハ1527を組み込む形で、3両編成化された上で譲渡されている。また、クモハ523・524は譲渡に際して台車を空気バネ台車に交換している。_NEWLINE_譲渡された4編成は1編成ごとに異なる塗装と愛称を与えられ、同社総武流山線の主力車両として運用されたが、老朽化に伴って1995年(平成7年)から1999年(平成11年)にかけて全車廃車となった。
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伊豆箱根鉄道
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伊豆箱根鉄道への入線は前述1975年(昭和50年)2月の529編成が最初であるが、これは事故に伴う車両不足解消名目の貸与であった。その後1977年(昭和52年)に521編成、1979年(昭和54年)に527編成がそれぞれ譲渡され、1975年(昭和50年)10月に正式譲渡された529編成と合わせて3編成が同社駿豆線へ入線した。導入に際しては521・529編成は4両編成のまま入線してサハ1522・1530を編成から外し、527編成は先頭車のみが譲渡されてサハ1522を組み込む形で、それぞれ3両編成化されている。_NEWLINE_入線後は台車の交換(DT17もしくはDT20)・空気ブレーキの電気指令化(HRD-1化)など手を加えられつつ運用されたが、非冷房車であることがネックとなり、1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて全車廃車となった。なお、サハ1530は同社従来車モハ52・53の中間車として運用された後、編成相手の廃車に伴って1982年(昭和57年)9月に廃車解体されている。
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大井川鉄道
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1979年(昭和53年)にサハ1515・1516の2両が大井川鉄道へ譲渡された。同2両は客車へ改造され、サハ1516はお座敷客車(ナロ80形)へ、サハ1515は展望客車(スイテ82形)へそれぞれ大改造を受けて竣功した。_NEWLINE_2010年(平成22年)9月現在、本系列で唯一車籍を有する現役車両であるものの、前述のように大改造が施工されているため原形はほとんど残っていない。
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三岐鉄道
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三岐鉄道には505編成が1977年(昭和52年)に譲渡された。譲渡に際してはサハ1506を編成から外して3両編成化されたほか、主電動機をMT15系に、電動車の台車をTR14Aにそれぞれ交換した上で入線している。その後、サハ1505が木部の著しい老朽化が原因で1980年(昭和55年)3月に廃車となったため、サハ1523を譲渡しサハ1505(2代)とした。_NEWLINE_1980年(昭和55年)8月には525編成がサハ1526を外した3両編成で譲渡された。主電動機および台車の交換が施工されたのは505編成と同様であるが、こちらは譲渡時に前照灯のシールドビーム2灯化が施工された点が異なる。_NEWLINE_その後、冷房車の増備に伴って1990年(平成2年)に505編成が、1995年(平成7年)8月には525編成がそれぞれ廃車となり、形式消滅した。 | 10507364251525882979 |
Q18234290 |
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西源四郎
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西 源四郎(にし げんしろう、文久2年10月25日(1862年12月16日) - 昭和3年(1928年)1月10日)は、日本の外交官。
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経歴
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西房至の次男として長門国豊浦郡長府で誕生、上京して高谷竜洲の塾で漢学を学ぶ(同門に二葉亭四迷など)。明治16年(1883年)8月に外務省の清国派遣留学生に選ばれ渡海、明治18年(1885年)11月にベルギーへ転じて大学に入り、明治24年(1891年)に卒業、行政博士号を取得し帰国後の明治26年(1893年)6月に外務省試補、11月に参事官となり、翌27年(1894年)12月に法典調査会委員に就任。_NEWLINE_明治30年(1897年)4月にドイツ公使館三等書記官となってからは法典調査会を離れ外国勤務となり、翌31年(1898年)12月に二等書記官に昇格、明治32年(1899年)3月にオランダ公使館へ転勤、明治36年(1903年)3月にオーストリア公使館へ異動、12月に一等書記官となった。明治45年(1912年)4月に大使館参事官、大正4年(1915年)4月にシャム特命全権公使に任命されタイへ赴任、大正11年(1922年)3月にルーマニア特命全権公使に異動して翌12年(1923年)まで活動した。_NEWLINE_帰国後の大正13年(1924年)4月に辞任、故郷の長府へ戻り病気療養に努め、昭和3年(1928年)に脳溢血で死去。享年65。 | 244605204651192434 |
Q11629620 |
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西部薬品
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西部薬品株式会社(せいぶやくひん)は、佐賀県佐賀市本庄町大字本庄1269番地1に本社を置く、主に医薬品・医療機器の卸売りを扱う企業であった。現在は、メディセオ・パルタックホールディングスグループの一社「アトル」である。 | 9401404478855216503 |
Q4701167 |
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西野陽
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来歴
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大阪府出身。大阪府立布施高等学校、関西大学法学部卒業。_NEWLINE_1975年、大阪府議会議員選挙に自由民主党公認で東大阪市選挙区から出馬し、初当選。5期連続で当選し、大阪府議会議長も務めた。1993年、5期目の任期途中で府議を辞職し、第40回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬したが、落選した。のちに自民党を離党し、新進党に入党。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、大阪13区で11期目の当選をめざす自由民主党総務会長の塩川正十郎を破り、当選した(塩川は重複立候補を辞退していたため落選)。_NEWLINE_1998年、新進党解党に伴い自由党結党に参加。2000年の自由党分裂の際は自自公連立政権への残留を主張し、保守党結成に参加。熊谷弘らの合流に伴う保守新党結党には参加せず、自民党に復党した。2000年の第42回衆議院議員総選挙では、大阪13区から塩川が出馬し、西野は比例近畿ブロック単独で再選。2001年、第1次小泉内閣で環境大臣政務官に任命された。_NEWLINE_2003年の第43回衆議院議員総選挙では、塩川が政界引退を表明したため、西野が大阪13区から出馬し、3選。2005年の第44回衆議院議員総選挙では、大阪13区で民主党の富家孝を8万票を上回る大差で破り、4選。同年、第3次小泉改造内閣で経済産業副大臣に就任。_NEWLINE_2009年の第45回衆議院議員総選挙では、大阪13区で国民新党の白石純子の猛追を受けるが、1万7,000票差で白石を破り、5選。大阪の19の小選挙区のうち、自民党所属の当選者は西野のみであった。_NEWLINE_2012年12月、第46回衆議院議員総選挙では公示日直前に公認を辞退し、政界を引退する意向を表明。長男の弘一が日本維新の会公認で大阪13区から立候補し、当選した。この結果を受け、「党の規律を乱す行為」として自民党を除名された。 | 7863615658400174231 |
Q11629858 |
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西鉄バス北九州・八幡自動車営業所
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管轄路線
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2009年7月21日と2010年4月1日に大規模な路線整理実施。 | 15740953954931650098 |
Q11630863 |
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角谷優
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角谷 優(かくたに まさる、1938年 - )は、日本の映画プロデューサー。
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経歴
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高校生から大学までを、池袋の名画座・人世坐系の文芸地下で働く。_NEWLINE_1961年4月、早稲田大学卒業後、フジテレビジョンにアナウンサーとして入社。報道担当アナウンサーとして「FNNテレビ朝刊」などを担当。映画好きを活かして自ら志願して、1941年10月から映画劇場の「テレビ名画座」で同僚の辻川一徳アナウンサーとともに資料集めと原稿執筆、選曲をしてテレビ初の映画解説者を行った。他に「話題の映画」という映画情報番組も制作。_NEWLINE_しかしフジテレビに誕生した労働組合に参加。闘争委員に選ばれると、アナウンサーが闘争委員であることが問題視され、組合脱退を要求されるも組合をやめずにアナウンサーを退いて1967年新設の事業局への異動を志願。_NEWLINE_事業局では、フジテレビ友の会の前身になる東京ハイセンスクラブを手伝い、外国課に所属して、映画事業も担当した。1969年からフジテレビが出資して、社員の五社英雄が監督する『御用金』『人斬り』などフジテレビの映画事業を担当。五社協定に縛られない東京映画や勝プロダクションとの共同製作として、東宝の藤本真澄や大映の永田雅一と交渉。海外セールスも行った。_NEWLINE_1970年にスカウトされて編成局へ異動して、1971年開始「ゴールデン洋画劇場」の担当となり、作品を買い付けて行い、映画部長となった。企画の仕事もしており、開局15周年となる1974年にその記念番組として映画『人斬り』で仕事をした勝新太郎を口説き連続テレビ映画『座頭市物語』を実現した。_NEWLINE_蔵原惟繕が監督した『キタキツネ物語』を放送して視聴率44.7%を獲得し、これが縁で弟の蔵原惟二プロデューサーから持ち込まれた企画を蔵原惟繕監督として『南極物語』として映画化。1200万人を動員して最終的に配給収入61億円を挙げ、14年間破られない記録となる大ヒット作品となった。続けてプロデュースした『ビルマの竪琴』は配給収入29億円、『子猫物語』は55億円と当時の日本映画の配給収入記録トップ3を独占。1987年に映画プロデューサーに贈られる藤本賞を受賞した。_NEWLINE_日本映画製作以外にもフジテレビで1985年から『ファンダンゴ』、『サルバドル』、『ディス・イズ・マイライフ』など外国映画の日本での全権利の買い付けも行った。_NEWLINE_1987年から、フジテレビのロサンゼルス支社長・フジサンケイ・コミュニケーションズ・インターナショナル副社長としてアメリカ赴任。在米日本人のための日本語放送普及とニュース取材などを担当。サンダンス・インスティテュートの評議員に就任し、サンダンス映画祭に参加。1994年にロサンゼルスに設立した映画事業のためのフジサンケイ・カリフォルニア・エンタテインメント社長として、映画の企画開発も行ってハリウッドへ売り込み、3本のうち1本の企画をユニバーサルとの契約に成功するが、映画化が実現しないまま帰国辞令により日本へ帰国。_NEWLINE_1996年の帰国後は、1998年に『ズッコケ三人組』、1999年に『梟の城』、2003年に『13階段』を製作してフジテレビを定年退職。フジテレビを退職後、2006年にディズニーがリメイクした映画『南極物語』でエグゼクティブ・プロデューサーを務めた。早稲田大学エクステンションセンター講師、武蔵大学客員教授等を歴任。 | 3628799876504994291 |
Q205084 |
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計算複雑性理論
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計算複雑性理論(けいさんふくざつせいりろん、computational complexity theory)とは、計算機科学における計算理論の一分野であり、アルゴリズムのスケーラビリティや、特定の計算問題の解法の複雑性(計算問題の困難さ)などを数学的に扱う。計算量理論、計算の複雑さの理論、計算複雑度の理論ともいう。_NEWLINE_「計算量」と「計算複雑性」はともに computational complexity に対応する語であるが、個々のアルゴリズムの効率に着目する文脈では「計算量」が広く用いられるのに対し、問題に内在する本質的困難さを表す意識からは「複雑性」「複雑さ」が好まれる傾向がある。
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概要
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計算複雑性理論は計算可能関数の計算の複雑さを扱う。計算理論のもう一つの重要な分野である計算可能性理論では問題の解法があるかどうかだけを扱い、その複雑さや必要とする計算資源量は問わない点が異なる。_NEWLINE_具体的には、計算複雑性理論は「あるアルゴリズムへの入力データの長さを増やしたとき、実行時間や必要な記憶量はどのように増えるか?」という問いに答える。これは、計算機の実際的な限界を与えるものであり、この理論は産業や社会にとって重要な意味を持つ。なぜならば、計算機の性能は向上しているが、解析すべき情報も増加しているため、アルゴリズムが入力データ長の増大にうまく対応できるか否かで、計算機が現実的な問題を解決するのに役に立つか否かが決まるからである。_NEWLINE_計算複雑性理論では、計算問題やそれを解くアルゴリズムを、NPやPといった複雑性クラスに分類する。個々の計算問題を少ない計算資源で解くアルゴリズムを発見することはもちろん計算機科学の重要な課題だが、複雑性理論ではこれにとどまらず、計算問題が何らかの複雑性クラスに属すること、あるいは属しないことを証明したり、クラス間の階層構造を解明することも目標とする。_NEWLINE_計算量 tC をもつ複雑性クラス C に 或る計算問題 X が属する とは、あるアルゴリズム A が存在して、問題 X が A により tC以下で解決されることを意味し、問題 X の複雑性の上界を与える。そして、よりよい上界を求めることは、問題 X をより少ない計算資源で解くアルゴリズムを発見する(あるいはその存在を示す)ことに他ならず、産業界において有意義である。また、ある計算問題 X が、ある複雑性クラス C に属しないとは、問題 X は、いかなるアルゴリズムをもってしても、計算量 tC 以下では解決できないことを意味し、問題 X の複雑性の下界を与える。計算問題の下界を示すことは、理論的意義を有するだけではなくて、暗号理論においては、ある暗号方式が計算量的に解読不能であることを示すことを意味し、実際的な価値がある。_NEWLINE_現在の計算複雑性理論の最も重要な課題は、P≠NP予想の証明である。この予想は提起された当初それほど重要とは見なされなかったが、産業において重要なオペレーションズリサーチの問題の多くがNPの部分クラスに属するNP完全問題であることが明らかになるにつれて重要性を増してきた。NP完全問題は、解が正しいかどうかは簡単に確かめられるが、正確な解を探す方法はスケーラブルではない問題である。NPクラスがPクラスより範囲が広いことが確定すると、それらの問題にはスケーラブルな解が存在しないことが確定する。このため、P≠NP予想の証明は重要とされているのである。
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決定問題
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計算複雑性理論で扱う計算問題の多くは決定問題である。決定問題とは、答えが「はい」か「いいえ」になる問題を指す。_NEWLINE_決定問題を主に扱うのは、任意の計算問題を何らかの決定問題に還元することが常に可能だからである。例えば、HAS-FACTOR を与えられた整数 n と k(どちらも二進数で与えるとする)について、n が k より小さい素因数をもつかどうかに答える決定問題とする。すると、計算問題 FACTORIZE(素因数分解)の解法は、HAS-FACTOR を使って実現でき、その際に追加の資源はそれほど要しない。具体的には k について二分探索を行い、n の最小素因数を探索し、その値で n を割る。そして、商について再び同じ作業を繰り返していけばよい。このことは、HAS-FACTOR の解法をある計算資源量で実現できるか否かが分れば、FACTORIZE の解法についても分るということを意味する。_NEWLINE_計算複雑性理論では、答えが「はい」かどうかを確認する問題と、答えが「いいえ」かどうかを確認する問題を区別する。「はい」と「いいえ」を逆転させた問題は、元の問題の補問題と呼ばれる。_NEWLINE_例えば、決定問題 IS-PRIME(素数判定問題)は、入力が素数の場合に「はい」、そうでなければ「いいえ」を返す。一方、問題 IS-COMPOSITE は与えられた整数が素数でない(すなわち合成数である)ことを決定する。IS-PRIME が「はい」を返すなら、IS-COMPOSITE は「いいえ」を返す。逆も成り立つ。したがって IS-COMPOSITE は IS-PRIME の補問題であり、同様に IS-PRIME は IS-COMPOSITE の補問題である。_NEWLINE_ある問題の解を求める計算量とその補問題の解を求める計算量は同じであるが、問題のあるインスタンスについて「はい」となる証拠を与えられて、その証拠が正しいかを判定する計算量は同じとは限らない。例えば、IS-COMPOSITE問題で、ある整数について、証拠として素因子を一つ与えられれば、除算を行うことで検算することができる。しかし、IS-PRIME問題では、どのような証拠を与えればよいかは、しばらくの間、自明ではなかった。補問題を区別することは、後述する複雑性クラスNPとco-NPなどで重要となる。_NEWLINE_計算複雑性理論の重要な成果の1つとして、ある難しい問題があったとき(それがいかに大量の時間資源や空間資源を要したとしても)、それよりさらに難しい問題が必ず存在するという事実がある。時間計算量については時間階層定理によってこれが証明されている。同様に領域階層定理も導かれる。
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計算資源
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計算複雑性理論は計算問題の難しさを様々な計算資源の観点で分析する。時間、空間、無作為性、反復性、その他のより直観的でない尺度などで必要とする計算資源量によって、同じ問題を説明する。複雑性クラスはある特定の計算資源をある特定の量つかって解くことができる全計算問題の集合である。_NEWLINE_最も研究が進んでいる計算資源は決定性時間(DTIME) と決定性空間(DSPACE) である。これらの資源はそれぞれ、決定性のある計算機(例えば実在する普通の計算機)で問題を解くのに必要な「計算時間(演算回数)」と「記憶装置」の量に対応している。これらの資源の使用量を求めることは実用的な意味もあり、研究が進んでいるのである。_NEWLINE_いくつかの計算問題は非現実的な量の資源を想定すれば、より容易に解析可能である。例えば、非決定性チューリング機械は、分岐して様々な可能性を同時にチェックできるという計算モデルである。したがって、非決定性チューリング機械はアルゴリズムを使って具体的に計算する作業とは全く関係ないが、その分岐によって分析したい計算モデルの大部分を捉える。このため非決定性時間は計算問題を分析するにあたって非常に重要な資源である。_NEWLINE_計算複雑性理論では他にもいろいろな計算資源を考慮する。技術的には、複雑性尺度として計算資源量が扱われ、これに関してはブラムの公理で非常に一般的な定義が与えられている。
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P = NP 問題
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NPがPと同じかどうかという疑問(換言すれば、非決定的な多項式時間で解くことのできる問題は決定的な多項式時間でも解くことができるか)は、理論計算機科学における最重要問題の1つであり、その解決が様々な意味を持っている。同じであった場合に都合が悪い影響として、暗号理論の多くがNPの困難さに依存しているため、Pと同じであることが判明すると使い物にならなくなるのである。しかし、よい影響も多々あり、様々な重要な問題に効率的な解法があることが明らかとなることが重要である。例えば、オペレーションズリサーチにおける整数計画問題、物流合理化、生物学におけるタンパク質構造予測、純粋数学の定理を計算機で効率的に形式的に証明する可能性などがある。クレイ数学研究所は2000年に、この問題を最初に解いた人に100万ドルを支払うと発表した。_NEWLINE_この問題を考えるにあたって重要となるのは、NP完全の概念である。NP完全な問題はNPの中では最もPから遠い問題ということになる。P = NPが証明されていないため、ある問題をNP完全と判明している問題に還元できるということは、その問題の多項式時間の解法が未知であることを示している。逆に、すべての NP問題はNP完全問題に還元できるため、NP完全問題の多項式時間の解法を発見すれば、P = NPが証明される。(一方、たとえP = NPが成立しても、NP困難な問題は多項式時間で解けるとは限らない。理由はNP困難のページを参照のこと)
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NPにおける不完全問題
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上の問題に関連して、NPクラスに属する問題でPクラスには属しないがNP完全でもない問題は存在するか、という問題もある。つまり、非決定的な多項式時間の解法はあるが、NP完全問題から多項式時間で還元できない問題ということである。このような問題のクラスをNP-intermediateと呼び、候補としてグラフ同型問題や整数の因数分解、離散対数問題などがある。もしP ≠ NPが真ならば、そのような問題が存在することが証明されている。
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NP = co-NP
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co-NPクラスはNP問題の補問題の集合である(すなわち、「はい」と「いいえ」が逆転している問題)。両者は等しくないと考えられているが証明されていない。2つの複雑性クラスが等しくないことが判明すると、NP完全問題は co-NP には含まれず、co-NP完全問題は NP には含まれないことが明らかになる。
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イントラクタブル
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理論上計算可能な問題であっても、実際に解くことができない問題をイントラクタブル (英: intractable, 手に負えない、処理しにくい) であるという。「実際に」解けるとはどういうことかという問題もあるが、多項式時間の解法がある問題が一般に(小さな入力だけでなく)解けるとされている。イントラクタブルな問題として知られているものとしては、EXPTIME完全な問題がある。NP が P と同じでなかった場合、NP完全な問題もイントラクタブルだということになる。_NEWLINE_指数関数時間の解法がなぜ実際には使えないかを考えるため、2ⁿ 回の操作を必要とする問題を考える(n は入力のサイズである)。比較的小さな入力数 n = 100 のときについて、1秒間に 10¹⁰(10 ギガ)回命令を実行できる計算機を想定すると、その問題を解くには約 4 × 10¹² 年かかる。これは現在の宇宙の年齢よりも長い。 | 11586675349235006156 |
Q17230993 |
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説教師
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概要
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ことばに抑揚をつけて行う説教(説経)は6世紀の仏教伝来以来古くから行われていたとされ、特に平安時代末期から鎌倉時代にかけてあらわれた安居院流(あぐいりゅう)と寛元年間(1243年-1247年)に園城寺の定円がおこしたといわれる三井寺流が節付説教(唱導)の二大流派として成立した。_NEWLINE_「説経」が、伴奏楽器を鳴らし、あるいは踊りをともなったりして説経節や説経浄瑠璃などとして芸能化していくのに対し、「唱導」の方は必ずしもただちに芸能化せず、説教(法話)のかたちでのこったと考えられる。しかし、この説教と説経節・ちょんがれとが結びついて中世の「節付説教」、さらに近世の「節談説教」へと発展していった。節談説教は、江戸時代において民衆の娯楽となったいっぽう、浪曲・講談・落語など近世成立の諸芸能の母体となったが、これももともと唱導が音韻抑揚の節をもっていたことに由来すると考えられる。_NEWLINE_明治期まで説教師の役割は持続し、全国各地の説教所を巡業する人気の説教師もいた。節談説教は、上述の話芸全般の母体となったが、同時にその分化が進む過程で、布教純化の点から主流派から疎まれる存在となり、昭和以降は衰亡が目立った。昭和期の名人上手に祖父江省念師がいる。 | 7776339541181815811 |
Q970339 |
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調布飛行場
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開設
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1941年(昭和16年)4月30日、竣工式が行われ、東京府によって現在の位置に公共用飛行場として開設された。そのときの名称は「東京調布飛行場」で、これが現在の「東京都調布飛行場」の前身である。開設当初は現在の滑走路とほぼ同じ位置のメイン滑走路(全長1000 m・幅80 m)とメイン滑走路の南端近くで交わる東西方向の横風用滑走路(全長675 m・幅80 m)との合計2本のコンクリート舗装滑走路が存在した。
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大戦中
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太平洋戦争中は、もっぱら日本陸軍が使用した。特に1942年(昭和17年)のドーリットル空襲以降は帝都防空拠点として重要視されるようになり、南は現在の味の素スタジアムのあたり、西は現在の警視庁警察学校のあたりまでそれぞれ拡張され、未舗装の滑走地帯となった。_NEWLINE_第二次世界大戦末期には、首都圏に飛来するボーイングB-29爆撃機などを撃退するために戦闘機隊が配備された。中でも有名なのは三式戦闘機を装備した飛行第244戦隊で、京浜地区の空襲のたびに出動しB-29に体当たりするなどして戦果を挙げているが、沖縄戦が始まると同戦隊は特攻作戦支援のために九州へ移動したため、調布飛行場には偵察機だけが残された。
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アメリカ軍による占領
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第二次世界大戦敗戦後の1945年(昭和20年)9月、調布飛行場は日本を占領下に置いた連合国軍の主力であるアメリカ軍によって接収された。舗装滑走路はアメリカ軍の飛行場として使用され、戦時中に拡張された未舗装の西側地区は当初、アメリカ軍の水耕農場(人糞堆肥を用いない衛生的野菜の生産場)とされた。また、これら物資輸送のため、西武多摩川線から専用線が引かれていた。なおその後、その専用線は廃線となる。_NEWLINE_1952年(昭和27年)になると、対日講和条約と日米安保条約が発効し、それに伴って日米安保条約付随の日米行政協定により、飛行場とともに「調布水耕農園(施設番号 FAC 3702)」の名称で、接収財産から在日米軍の提供施設区域に切り替えられた。その後、東京都渋谷区にあったアメリカ軍兵舎・住宅施設「ワシントンハイツ」が、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催にあわせて日本に返還されることになったことから、代替住宅施設が建設され、「関東村住宅地区及び補助飛行場」と名称変更された。
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旅客ターミナル
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2013年(平成25年)4月2日に新しい旅客ターミナルビルが完成し、供用が始まった。旅客ターミナル内には新中央航空のチェックインカウンター、待合室、自動販売機、トイレなどが設置されており、また、旅客ターミナル前にバス停とタクシー乗り場、車寄せ、駐車場がある。_NEWLINE_ボーディングブリッジ、レンタカー会社、ATM、外貨両替所、レストランなどはないが、10分ほど離れたターミナル外の空港敷地内にレストラン「プロペラカフェ」がある(パイパー PA-46墜落事故の影響で一時営業休止していたが現在は再開。運営会社の日本エアロテックの社員食堂でもある)。
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所在地
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〒182-0032 東京都調布市西町290番3号(東京都調布飛行場管理事務所)
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イベント
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1995年(平成7年)から毎年10月頃に「調布飛行場まつり」が開催されていたが、後述のPA-46墜落事故に伴い、2015年度より開催を見合わせている。
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旧飛行場時代の面影
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2本の滑走路のうち東西方向の横風用滑走路はアメリカ軍占領時代以降使用されなくなっていたが、1990年代前半まではどちらも航空写真などで旧日本軍時代の舗装跡をはっきり確認することができた。_NEWLINE_しかし、「関東村」の跡地が日本国政府から払い下げられて飛行場の開発が始まると、旧滑走路や駐機場の舗装跡などは撤去された。_NEWLINE_撤去後に改めて現在の滑走路、駐機場及びその他の付属施設を新設したため、旧飛行場の面影は現在ほとんど残っていない(詳細に探せば、ごく一部に見つけることが可能ではある)。_NEWLINE_現在、移築保存された旧飛行場の門柱と飛行場北側に残された戦闘機用コンクリート掩体壕三つが公開されている(他にも掩体壕、対空砲砲座跡などがいくつか残っているが、個人の敷地内なので公開されていない)。 | 3080050312577592611 |
Q17228807 |
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諸象戯図式
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諸象戯図式(しょしょうぎずしき、「諸象戯圖式」とも)は、江戸時代の元禄7年(1694年)に発行された将棋の解説書である。_NEWLINE_元禄9年刊行の再版本が国立公文書館内閣文庫に残されている。内閣文庫に残されているものは西沢貞陣著とされる4巻本で、1巻は各種将棋の解説、2巻以降は詰将棋集(伊藤宗看作の中将棋のものと、作者不明の現代将棋のもの)となっている。 | 3441471013698555839 |
Q38255010 |
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謝恩碑 (甲府市)
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諸元
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敷地は東西24.5メートル、南北33.6メートル。コンクリートによって敷き固められた基礎地盤の上に、花崗岩を48段、約16.4メートルの高さに積み上げてこれを碑身の中心地業石とし、その上に高さ60尺(約18.18メートル)の碑身が据えられている。碑身は、下部は7尺の(約2.1メートル)、上部6尺の、合計11個の花崗岩を積み重ねたものである。中心地業石と碑身の中央部には3尺(約90センチメートル)の穴が開けられ、中に鉄筋が挿入されている。_NEWLINE_中心地業石を取り囲むように、台座と碑台が設けられている。台座の大きさは53尺(約16.1メートル)角、高さ3尺5寸(約1.1メートル)で、地上から12尺(約3.64メートル)の高さにある。台座には階段が設けられて昇降可能となっており、周囲は展望台となっている。台座の中央にある碑台は31尺(約9.1メートル)角、高さ24尺5寸(約7.4メートル)のパイロン型である。碑の建設で使われた石材の総重量は41万4490貫(約1554トン)になる。_NEWLINE_碑の正面に彫られた揮毫は山縣有朋の筆による。また、裏面には山梨県知事の山脇春樹の撰文による碑文がある。
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御料林の下賜の経緯
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山梨県の明治時代は、頻発する水害との戦いの連続であった。_NEWLINE_お雇い外国人として1879年(明治12年)に来日し、河川などの治水工事の指導に携わったローウェンホルスト・ムルデルは、1882年(明治15年)に発生した塩川・釜無川流域などの山梨県内の水害の原因について、「凡テ河ノ禍ノ主因ハ第一上流及其支流ノ山ニアリ」と指摘している。_NEWLINE_ムルデルによる指摘のとおり、水害が頻発した背景には、開墾や工業化による山林の破壊、燃料とするための山林の乱伐の進行があった。これは幕藩体制の崩壊と明治新政府への政権交代の結果、治山がおろそかになって山林の荒廃が進んだことも大きく影響していた。_NEWLINE_明治40年代には1907年(明治40年)、1910年(明治43年)の2つの大水害が記録されているが、そのうち前者の水害(明治40年の大水害)はとりわけ被害が大きいものであった。明治天皇はこの災害を憂慮し、侍従日野西資博を山梨県に派遣して実態を視察させた。_NEWLINE_明治天皇は救済として内帑金5,000円を下賜したため山梨県民はこの措置に深く感謝し、県議会も上奏文を決議して感謝の意を伝えた。当時の山梨県知事武田千代三郎は災害の善後策に尽力したが、在任の期間が短かったため成果を上げることができずに転任した。その後任として1908年(明治41年)6月に熊谷喜一郎が着任し、山梨県内の被害状況を視察した。熊谷は「水を治めるためには先ず山を治めること」が重要として、治山に優れた人材の確保を考えた。ただし、水害の直後で県の財政は窮乏の時期であったため、内務大臣にその窮状を訴え、山林技師の年俸1,000円の交付を申請して採択された。当時岡山県で技師を務めていた中村三郎を1909年(明治42年)7月に山梨県の技師として採用し、技術林務課長の職を与えて治山の指揮を執らせた。_NEWLINE_1909年(明治42年)7月から翌1910年(明治43年)にわたって、山梨県下の河川主要流域ごとに林野・河川・及び耕地等の現況調査が実施された。調査の結果、県内の林野のうち9万ヘクタール余りの荒廃した林地が存在していることが判明し、主要河川の水源地付近の林地に崩壊地が5,000ヘクタール余りに及んでいて、ここから一雨降るごとに多量の土砂が押し流されることがわかった。その中でも入会御料地の荒廃がもっとも甚だしかった。この整備については、入会御料地を主管する宮内省と住民の理解と協調、そして草木の払い下げ問題が永年の懸案として残っていた上に内務省や農商務省とも関わってくるので、これらの諸官庁と協調して林野調査を行い、実情の認識と将来の方針を定めることが最適とされた。1910年(明治43年)5月、内務省技師近藤仙太郎、農商務省技師松波秀実、帝室林野管理局技師江崎政忠が顧問として委嘱された。3名は同年6月28日から7月1日にかけて北巨摩郡韮崎町と北巨摩郡旭村(現韮崎市)、中巨摩郡源村と中巨摩郡明穂村および中巨摩郡榊村(現南アルプス市)、南巨摩郡増穂町と南巨摩郡鰍沢町および南巨摩郡五開村(現南巨摩郡富士川町)、東八代郡黒駒村(現笛吹市)、東山梨郡神金村(現甲州市)の調査を行った。この調査の結果によって直ちに臨時林野調査顧問会が開催され、今後の方針として協定事項が定められた。しかし同年8月、山梨県はまたも大水害に襲われたため、御料地払い受けの計画なども実行しがたい状況に陥った。_NEWLINE_1911年(明治44年)3月11日、明治天皇は度重なる山梨県の水害を憂い、県内にある入会御料地を全て県有財産として下賜した。このとき下賜された入会御料地は台帳面積298,203町7反7畝15歩、見込面積が約16万4000ヘクタールであり、山梨県の林野面積34万ヘクタールの約半分であった。_NEWLINE_熊谷山梨県知事は同年3月25日に臨時県議会を招集して「恩賜県有財産管理仮規則及び恩賜県有財産」に関する予算を提案した。県議会の議員一同は明治天皇の計らいに深く感謝し、議案を満場一致で可決した。次いで明治天皇への「天恩に奉答」するための上表文が議員から提議され、こちらも満場一致で可決された。_NEWLINE_山梨県内の入会御料地が下賜されたことに対して、県民の感謝の念は大きかった。山梨県はこれを末永く記念するために1912年(明治45年)3月、下賜の沙汰があった3月11日を「恩賜林記念日」と定めて毎年記念式典を行うこととした。特に県内にある小・中学校には、記念日当日の明治天皇の御沙汰書の奉読とこの趣旨の訓話を行うように通達した。
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謝恩碑建設
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御下賜に対する謝意を表す方法について、当時の山梨県知事武田千代三郎、熊谷喜一郎らを中心に検討を重ねた結果、大水害の歴史と御下賜の恩を後世に伝えるためには、県民の衆目を集める場所である県都甲府の中心に位置する甲府城跡に謝恩碑を建設するのが最適と考え、1917年(大正6年)3月、庁議での決定を経て選ばれた官民68名で構成される「謝恩碑建設委員会」を発足させ、建設予算、碑の構造、碑文などの計画案を審議し決定した。_NEWLINE_同年の4月、山梨県議会は建設予定地(現建立地)である甲府城址内の陸軍所有地を購入し、同7月に総額45,991円の建設予算案が承認され、同12月に地鎮祭が行われ県の直営事業として建設に着手した。建設地点は甲府城跡旧本丸広場南西に定めた。設計については、まず県の当局者により遠望の可否などに配慮の上で作成したものを、明治神宮造営局参与工学博士である伊東忠太および同局技師である大江新太郎に検討を依頼した結果、下部7尺(約2.1メートル)角、高さ60尺(約18.2メートル)のオベリスク型に決定された。謝恩碑位置選定の経緯に関して『建碑の地盤選定に関しては大江技師最細心の注意を以て調査をし本丸広場南西隅に当たれる郭壁に直角を為せる一隅とし』と1922年(大正11年)発行の『山梨県林政誌』に書かれている。_NEWLINE_謝恩碑に使用する石材は、恩下賜に深い所縁のある東山梨郡神金村萩原(現甲州市塩山)の恩賜林内にある花崗岩が選ばれたが、この巨大な花崗岩をどのようにして塩山から甲府まで運搬するのかが問題となり、中部鉄道管理局からの助言もあり、巨大な原石を輸送可能な11個に分けて採石して、これを現場で積み重ねる方法が採られた。_NEWLINE_碑は耐震対策を重視し、1891年(明治24年)に発生した濃尾地震から大森房吉が導き出した大森公式を元に設計した。そのため、碑の中心に穴をあけた鉄筋コンクリート造りとなっている。1923年(大正12年)に発生した関東大震災において、甲府市は震度6の揺れが発生し、甲府城も城壁の一部が崩れるといった被害を受けたが、謝恩碑には全く被害が無く、碑身が揺らぐこともなかったという。_NEWLINE_1919年(大正9年)3月、花崗岩で出来た11個の碑身が13日間で組み立てられ、台座周りの石組等、同年12月までに完成した。この謝恩碑全体で使用された石材は69平方メートル、最終的な工事費は99,528円であった。竣工記念式典は1922年(大正11年)9月27日、元知事である熊谷喜一郎、上山満之進山林局長ら御下賜関係者参列のもと挙行された。
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第1回全国植樹祭
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1950年(昭和25年)4月4日に行われた第1回全国植樹祭は山梨県で開催された。昭和天皇・皇后臨席のもと約2,000人が参加した式典は甲府市山宮町の恩賜県有林で行われ、ヒノキの苗木1万本が植樹された。植樹祭終了後、甲府城跡を訪れた昭和天皇・皇后は謝恩碑のある旧天守高台へ登り、吉江勝保山梨県知事による恩賜林の現況説明、また城跡の一角では招待された複数の年配者に言葉を掛けるなど甲府市民の歓迎を受けた。_NEWLINE_1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)にかけて、甲府城跡総合学術調査団によって甲府城総合調査が実施された。調査団は報告書において、将来的に甲府城跡を史跡または公園として整備するにあたっては、各所にある記念碑などについて吟味を加える必要があると論じた。そして謝恩碑については、周辺の岩石は節理面が発達しており、「ことに謝恩塔のように荷重の加わっている部分では、ヒビ割れ等もみられるので急速に補強工事を施すか塔を撤去して危険を除去することが望ましい」と提言した 。_NEWLINE_その後1987年(昭和62年)、山梨県は舞鶴城公園(甲府城跡)整備計画を策定することになり、なるべく築城当時の姿に復元するという基本方針をたてた。そのため築城後に建てられた石碑等は移設が決まったが、謝恩碑については「県民の理解が得られない」という理由で残されることになった。謝恩碑は大水害の教訓や森を守る決意の象徴として山梨県の県有林のシンボルであり続けている。 | 5165438101936317549 |
Q11632713 |
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谷口智
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人物
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1976年(昭和51年)、現在の埼玉県さいたま市に生まれる。_NEWLINE_石井克人の初監督映画 『8月の約束』(1995年公開)への出演で芸能界デビューした。1998年(平成10年)、テレビのバラエティー番組 『ワンダフル』の「ワンギャル」(2期生)となり、同番組にレギュラー出演した。DDTプロレスリングの初代イメージガールも務めた。 | 5117646731050375881 |
Q4533984 |
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豊原駅 (樺太)
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概要
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1906年にコルサコフ(楠渓町)から敷設された軍用軽便鉄道の終着駅ウラジミロフカ駅を前身とする。翌1907年(明治40年)の樺太庁鉄道移管後、一般運輸を開始。1911年(明治44年)7月には豊原─小沼間延伸開業により中間駅となり、1925年(大正14年)には豊真線豊原─鈴谷間開業に伴い分岐駅となった。1943年(昭和18年)4月に鉄道省に編入され、同省樺太鉄道局の所在駅となった。_NEWLINE_戦後の1946年2月、豊原に設置されたソ連運輸通信省南サハリン鉄道局に編入され、同年6月に豊原がユジノサハリンスクに改称されたことに伴い、駅名をユジノサハリンスクに改称した。_NEWLINE_現在もサハリン島内最大の鉄道拠点駅で、貨客駅である。現駅本屋は1980年代に建設されたもので、2013年に大規模な改修工事が行われた。構内側線は9線で2面のホームを持ち、構内にはユジノサハリンスク機関区が設置されている。貨物は重量30トンまでの発送・受け取りを取り扱っており、旅客はコルサコフ、ノグリキ(支線直通を含む)、ホルムスク方面および旧豊真線のノヴォデレヴェンスカヤ方面の長距離および近郊列車が発着。駅本屋では発券業務も行っている。 | 4068179539780883089 |
Q11633356 |
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豊四季台団地
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豊四季台団地(とよしきだいだんち)は、千葉県柏市にある旧・日本住宅公団造成の住宅団地。1964年入居開始。約4850世帯、約1万人が入居。
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概要
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古くは明治2年に明治新政府の方針で始められた開墾地で、下総台地の一部を土地を開拓する時に開拓した順番に数字を振り、そこに縁起の良い文字をつけたことに由来する。順に初富(鎌ケ谷市)、二和、三咲(以上、船橋市)、豊四季、五香、六実(以上、松戸市)、七栄(富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市および多古町)と続く。_NEWLINE_かつて柏競馬場(1952年廃止)があった場所に造成された。同じ柏市にある光ヶ丘団地と並んで、日本住宅公団による大規模団地造成であった。団地は豊四季台1丁目 - 4丁目に区分されている。ほとんどが中層住宅だが、2棟だけ後期(1987年)に建設された高層住宅(豊四季台第二団地、105,106号棟)がある。2004年以降の建て替え事業による「コンフォール柏豊四季台」では、高層棟が大幅に増加している。_NEWLINE_都市再生機構(UR)による建て替え事業の対象となっており、2004年から事業に着手している。2008年11月から、第1次建て替え分が完成し、再入居が始まっている。なお、この建て替えられた住宅には「コンフォール柏豊四季台」という新しい名称が付けられた。また、第2次建て替え分以降は一部の土地が民間不動産会社に売却され、敷地はサービス付き高齢者向け住宅、分譲マンション、分譲戸建て住宅として利用されている。2018年現在、第5次建て替え工事が行われている。_NEWLINE_中心部には団地1階に店舗が入居する「豊四季台商店街」があり、スーパーマーケット(ピーコックストア)と地元事業者による商店、郵便局がある。居住者の高齢化や生活スタイルの変化により近年は閉店する店もあるが、シャッターが目立つほどではない。この建物についても建て替え事業の対象となったが、建て替え前の店舗/住居の共同施設とはせず、店舗のみの区画へ建て替えられた。_NEWLINE_近年は高齢化が問題となっており、居住者の4人に1人が高齢者で、孤独死などの問題も多く、自治会が対策に追われている。 | 5064686051340146044 |
Q5370916 |
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貴田孫兵衛
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略歴
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俗に「加藤十六将」の一人とされる。九百余石を知行していたといい、文禄・慶長の役には鉄炮衆四十名を率いて従軍した。『清正記』は加藤軍のオランカイ(満州)攻めの際に討死したとしている。しかし、その後も清正の書状に貴田孫兵衛の名が出てくる為、その最期は不明であるが、孫兵衛の一族は、加藤家改易後細川藩士となっている。後述するように、孫兵衛は毛谷村六助の名で有名であるが、史実と伝説との区別が必要である。
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豪傑毛谷村六助と論介伝説
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江戸時代の軍記本『豊臣鎮西軍記』に、貴田孫兵衛統治は前名を毛谷村六助といい、女の仇討ちを助太刀したという物語が載せられ、これが天明年間に人形浄瑠璃『彦山権現誓助剣』として上演されて人気を博し、後には歌舞伎の演目にもなり、大正時代には映画化もされている。更に1960年代に韓国の民間伝承論介伝説と結び付けられ、晋州城で殺されたことにされたが、もちろん史実ではない。福岡県添田町、大分県中津市山国町毛谷村には木田孫兵衛(毛谷村六助)の墓なるものがあり地元ではこの地で62歳で亡くなったと伝えているが、歌舞伎等で有名になった後に作られたものである可能性もある。_NEWLINE_佐賀県唐津市名護屋には、六助社というお堂がある。朝鮮で討たれた貴田孫兵衛統治は、塩漬けにされて名護屋へ輸送された。そして名護屋に埋葬され、六助社が建ったと言われている。六助社では、足の神様として祀られている。_NEWLINE_また、名護屋の喜田神社でも、貴田孫兵衛統治は神として祀られている。 | 8378432846944732220 |
Q11634932 |
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賀茂 (能)
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作品構成
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播州室の神官が上洛し、賀茂社に参拝するところから能ははじまる。舞台には、白い壇に白羽の矢が立った作り物が後見の手ですえられる。 | 566883922115491643 |
Q6906917 |
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起立した野獣へのモニュメント
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起立した野獣へのモニュメント(Monument With Standing Beast)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴにあるジャン・デュビュッフェ作の彫像(パブリックアート)。シカゴダウンタウンのループ地域にあるジェームズ・R・トンプソン・センター(イリノイ州庁舎)正面に所在。高さ8.8m、重量約9トンの白いグラスファイバー製の作品。1984年11月28日公開。_NEWLINE_デュビュッフェの米国にある3つの巨大彫像のうちの一つ。グラフィティ(落書き芸術)、カリカチュア(戯画)、ストリート・ランゲージを交えたアーバンスタイルを使って、4つの要素、すなわち、立ち上がった動物、木、玄関、建築物を並置している。_NEWLINE_この彫像は、デュビュッフ自身が「ウルループ (l'Hourloupe, ルールループ)」と呼ぶ1960年代の絵画群をベースにしている。また、この彫像を含む一連の作品群は、デュビュッフの米国最初の作品であるニューヨークのワン・チェース・マンハッタン・プラザの巨大彫像における着想を反映している。_NEWLINE_ジェームズ・R・トンプソン・センターに置かれたイリノイ州建築芸術プログラム19作品の一つ。同プログラムはイリノイ州資本開発委員会(Illinois Capital Development Board)の委託事業である。 | 4045596291688079653 |
Q11636366 |
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越の犬
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越の犬(こしのいぬ)は、北陸地方原産の日本犬の一種。純血種はすでに絶滅している。犬種名は、旧「越国」に相当する越前・越中・越後が原産地であることにちなんで付けられた。
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歴史
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日本各地で地元に根付いた地犬のひとつで、古くから猟犬として使われてきた。仲間間での連絡が強く、猪や鹿など、日本に生息する大型獣なら、どんなものであっても仕留めることができたと伝わる。_NEWLINE_越の犬は、富山県のある地域では立山犬、石川県のある地域では能登犬、福井県のある地域では大野犬というように、地域ごとに別々の名前で呼ばれていた。しかし、その決定的な違いはほとんどなかったため、越の国の犬を一括で「越の犬」と呼ばれるようになった。元来これらは狩猟の能力を重視したブリーディングが行われていたため、サイズや容姿はあまり固定されていなかった。_NEWLINE_本種が日本全国に知られるようになったのは、1934年(昭和9年)12月28日に天然記念物として指定されたことがきっかけである。他の日本産地犬とわざわざ区別された上で指定されたことでわかるように、当地方に著名な犬種としての狩猟適性犬種がいたことは事実である。天然記念物に指定されている他の日本犬としては、北海道犬、秋田犬、柴犬、甲斐犬、四国犬、紀州犬と、現在著名な犬種が並ぶが、本種が存在したことはあまり知られていない。これは、本種がもとより希少種であり、保護活動も盛んではなく、純血種は後に絶滅したことが理由である。富山県では1963年(昭和38年)に県獣として指定され、保護活動の萌芽を感じることができる。_NEWLINE_本種は1971年(昭和46年)に最後の純血個体が死亡し、純血犬種は失われた。現在でも原産地域に本種の血を引く数十頭の犬が生存していることが確認されているが、保存活動はあまり活発に行われておらず、早晩完全に消滅してしまうことが危惧されている。
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特徴
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姿は典型的な日本犬で、耳は立ち耳、尾は巻き尾である。マズルは尖っていて、脚は長い。骨太で筋肉質の引き締まった体つきをしていて、顔立ちは精悍である。コートはショートコートで、毛色に制限はない。中型犬サイズで、性格は勇敢で忠実であり、警戒心が強い。パックとして認識した仲間と主人以外にはあまり感情表現を露にしないといわれている。 | 14736693638271797549 |
Q11636465 |
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越川一紀
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越川 一紀(こしかわ かずのり、1956年1月23日 - )は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者。元走高跳日本記録保持者、モントリオール五輪代表。現在、順天堂大学スポーツ健康科学部准教授を務める。順天堂大学卒業。
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経歴
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身長は172cmしかなかったが非凡なジャンプ力で高校時代から注目され、1976年、モントリオールオリンピック国内最終予選を標準突破で優勝しワンチャンスを生かして出場権をつかんだ。_NEWLINE_順大卒業後、初めての着任校である千葉県立君津高等学校に保健体育教諭・陸上競技部顧問として赴任し、当時は生徒を指導育成するのと並行し自身も現役選手として活躍した。その後千葉県立姉崎高等学校への赴任を経て、自身の母校である成田高等学校・付属中学校に教諭として赴任し、瀧田詔生後の陸上競技部監督に就任。名コーチとして評判をとる。主な指導選手には、澤野大地(棒高跳び日本記録保持者、富士通)、花岡麻帆(前走幅跳日本記録保持者、元Office24)、鈴木哲平(全国高等学校総合体育大会陸上競技大会で三冠王)、森拓朗(日本ジュニア選手権棒高跳優勝)、日色さおりらがいる。2001年エドモントン世界陸上競技選手権大会ハンマー投銀メダリストの室伏広治も越川の在職中に在学していたが、室伏の在学中は瀧田が存命中であったので、室伏の投てきに関しての指導はなかった。また、元砲丸投日本記録保持者の岡野雄司も在職していたため、もっぱら指導は跳躍、短距離に関するものであった。その後、指導力を買われて順大講師に転身した。現在、順天堂大学陸上競技部監督、跳躍コーチを務めている。_NEWLINE_2004年、アテネオリンピック陸上日本選手団コーチを務める。2006年、世界室内陸上競技選手権大会日本選手団コーチ、世界ジュニア選手権日本選手団跳躍コーチを務める。現在、日本陸上競技連盟強化委員会委員、ジュニア強化部副部長の要職にある。 | 14826834760338994133 |
Q48926538 |
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趙咨
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生涯
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博学多識で、いちいちの受け答えに秀でていた。_NEWLINE_孫権が呉王になると中大夫に抜擢され、魏と友好関係を築くために使いした。これより趙咨は毎年のように魏に赴くこととなる。_NEWLINE_趙咨は曹丕と会い、気に入られた。この時曹丕はからかってやろうと様々に質問して追い詰めようとしたが、趙咨はそれらにうまく受け答えた。魏の人々は趙咨を尊敬して高く評価した。孫権はこれを知って喜び、趙咨を騎都尉に任命した。_NEWLINE_また魏に使いした折、曹丕は孫権の主君としての資質を趙咨に問うた。趙咨はまたも見事な回答で孫権の威信を傷つけず、むしろ称揚した。_NEWLINE_また、帰国してから孫権に、魏が盟約を守らないだろうから独立して漢を継ぎ新たな元号を定めるよう進言した。
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三国志演義
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小説『三国志演義』では、大軍を率いて呉に侵攻してきた蜀を退けるために漢中攻撃を魏に要請することを進言、採用されて自らその使者になった。際して孫権に「私と呉の面目を失ってくれるなよ」と言われると、「当然です。失敗したら長江に身を投げてます。どうして生きて呉のお歴々に相まみえられましょう」と自信満々で応えた。_NEWLINE_が、その策は上奏文を奉った段階で曹丕に見抜かれてしまった。曹丕は趙咨を試して色々と質問した。趙咨は見事にそれに応えて曹丕を感嘆させ、孫権を呉王に封じさせることに成功した。_NEWLINE_吉川英治『三国志』では、鼻のひしゃげた小男として描かれる。同様に大胆な回答で曹丕の好意を引き出し、孫権を呉王にした。 | 12494258308327414291 |
Q18642273 |
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趙顕娥
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略歴
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1999年に韓進グループの航空ホテル免税事業部に入社。その後、アメリカの南カリフォルニア大学経営大学院にてMBAを取得。以後、大韓航空の機内食部門とホテル経営部門、客室事業部門の3つの事業を統括する。_NEWLINE_2013年3月、大韓航空の副社長に昇進したが後述する騒動を起こし2014年12月に辞任した。この事件で財閥支配の強い韓国で国民の非難を浴び、趙は「ナッツ姫」と呼ばれるようになっただけでなく、2014年12月30日に航空機安全阻害暴行罪と航空保安法違反などの罪で逮捕された。以後国内外で批判を浴び、2015年末には航空機での業務妨害などに対する処罰を大幅に強化したナッツリターン防止法が成立するに至った。_NEWLINE_2018年1月13日、平昌オリンピック聖火ランナーの伴走をしていたことが報道された。_NEWLINE_2018年3月29日、韓進グループの系列会社KALホテルは定期株主総会を開き、登記理事に選任する案件を議決。韓進グループの経営陣に復帰し、KALホテルネットワークの社長となることが決定した。_NEWLINE_2018年4月22日、趙顕娥の妹の不祥事などを受け、趙亮鎬会長は趙顕娥についてもグループ企業の役職から外すことを表明した。前日の21日には、家族が海外で購入した私物を国内に持ち込む際に関税を支払っていなかった容疑で、韓国関税庁が自宅などの家宅捜索を行っている。
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人物
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コーネル大学のホテル経営学部時代の元同級生は、彼女について、目的意識が明確でリーダーシップがあり、自分の意見をはっきり言える人間だったと述べている。_NEWLINE_同大学は富裕層が多く、親に一軒家を買ってもらったり、家賃が月2000ドルの部屋に住む学生がいる中、平均的な家賃のアパートを3人でシェア、目立ったブランド品も買うことなく堅実な生活ぶりだったという。また彼女は、裕福だからといって自分より下の人を見下す人ではなく、プライドを持って仕事をしており、後述の事件について彼女を怒らせるよほどのことがあったのではないかと述べている。_NEWLINE_一方で裁判には100万円を超えるような高級ブランド製コートを着用して臨んだり、会社関係者に意味不明の謝罪文を作成させたり、裁判中に嗚咽し続けたり泣き崩れたりするなど、奔放な行動も報じられていたが、実刑判決が下された。 | 3999703017996867948 |
Q11636794 |
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足利満貞
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概要
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陸奥国岩瀬郡稲村(現、福島県須賀川市)に派遣、下向し、稲村公方と呼ばれる。_NEWLINE_なお、『喜連川判鑑』および『古河公方系図』では満貞を「篠川殿」、兄の満直を「稲村殿」としているが、『喜連川判鑑』の永享10年11月の項目では「稲村満貞」と呼称されている他、異説として『古河公方系図』に満直を「篠川殿」、満貞を「稲村殿」とする説も併記されており、兄と混同する資料が見られる。_NEWLINE_学術的にも、稲村・篠川公方の比定を巡って揺れがあり、鎌倉府研究の先駆者である渡辺世祐の『関東中心足利時代之研究』(1926年)は、『喜連川判鑑』などの記述に従って、満貞を篠川公方、満直を稲村公方と比定したが、その後の記録・文献の研究などによって、1960年代には満貞と満直の位置づけが反対であることが確定された。
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経歴
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奥州管領の衰退や小山氏の乱に対応するため、元中8年(1391年)に陸奥国・出羽国が鎌倉府の管轄となった。だが、奥羽両国には有力な武士が存在しており、鎌倉府の統治も順調ではなかった。応永5年(1398年)の足利氏満の急死をきっかけに鎌倉府の奥州統治体制の再編成を迫られ、翌応永6年(1399年)に新しい鎌倉公方となった長兄満兼の命により陸奥国岩瀬郡稲村(現福島県須賀川市稲御所舘 付近)に下向する。_NEWLINE_満貞は氏満死去の前の段階では元服前であった(『奥州余目記録』)が、翌年の下向時には直ちに御判御教書を発給しているため、この前後に元服したと推定される。鎌倉公方家など当時の武家の元服が15歳前後に行われていたため、満貞は至徳2年/元中2年(1385年)ごろの誕生であると推測されている。ただし、満貞発給文書に関しては、応永2年(1395年)に発生した田村庄司の乱に関連した可能性もある年次不明の文書の存在も指摘されており、満貞の下向またはその構想が氏満時代にさかのぼる可能性もある。_NEWLINE_また同時に次兄満直も稲村から北の陸奥安積郡篠川(現福島県郡山市)に下向し、篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。両御所は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった反鎌倉府勢力に対抗するのが主要任務だったと考えられる(満貞と満直の関係については異説もある)。満貞の執事には後世の深谷上杉家の先祖にあたる庁鼻和上杉家が務めていたと考えられている。岩瀬郡は二階堂氏の勢力圏で、満貞は二階堂氏や安積郡の伊東氏、白河郡の白河結城氏(結城満朝・氏朝父子)などと連携してたびたび反抗した伊達氏(伊達政宗・持宗)と衝突している。_NEWLINE_ところが、応永9年(1402年)に関東管領上杉朝宗(犬懸上杉家)が伊達政宗の乱に介入するために息子の上杉氏憲(後の禅秀)率いる遠征軍を派遣すると、稲村公方対反鎌倉府勢力の構造が崩れ、犬懸上杉家の勢力が直接奥州に浸透した影響で満貞の立場は弱体化することになる。_NEWLINE_鎌倉公方が甥の持氏に代替わりすると、まず鎌倉で持氏を補佐していた三兄の満隆が応永23年(1416年)に上杉禅秀と結んで謀反を起こし、翌24年(1417年)に禅秀と共に敗死したことで犬懸上杉家の奥州進出は幕を閉じる(上杉禅秀の乱)が、一度失われた満貞の権威は回復することはなかった。続いて満直と持氏の関係が悪化し、満直は幕府と結びつき鎌倉公方の地位への野望を持ち、加えて持氏も満直らに対抗するために奥州の直接統治(「関東御成敗」)を目指すようになり、満貞の立場はますます弱体化して稲村公方は鎌倉府と奥州諸将の間の取次機関に過ぎなくなった。それに伴い応永31年(1424年)11月に満貞は鎌倉に入り、持氏は公方家伝来の宝物を譲るなど満貞を歓待した。_NEWLINE_この時をもって、満貞が稲村から鎌倉へと退去して稲村公方は事実上終焉したとする説が通説であるが、満貞の奥州諸将に対する命令文書の下限は正長2年(1429年)であり、応永31年以後に奥州に戻りこの時期まで活動していた可能性もある。とは言え、同年以後の満貞の奥州での活動は確認できず、正長年間以後は鎌倉に滞在して関東管領上杉憲実に対抗する形で持氏を補佐したとみられている。なお、この時期に「満家」と改名した可能性もある。_NEWLINE_永享10年(1438年)に発生した永享の乱では持氏に与力し、翌11年(1439年)2月10日に鎌倉の永安寺で持氏と共に自害している。ちなみに「続群書類従」の『喜連川判鑑』では永享10年11月1日に持氏嫡男の足利義久とともに報国寺で自害したとする。その後、満貞の家系は満房(みつふさ)、満秀(みつひで)と続いたとされる。 | 17303078494193048602 |
Q17226477 |
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軽井沢夫人
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『軽井沢夫人』(かるいざわふじん)は、宇能鴻一郎が嵯峨島昭名義で1979年に刊行した推理小説。光文社のカッパ・ノベルスより発売された。1982年には日活ロマンポルノの1作として映画化された。
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ストーリー
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貧乏学生・紫藤純一(五代高之)は、軽井沢の金持ちが別荘で開くパーティーに給仕として雇われた。_NEWLINE_その席上、紫藤は料理を引っ繰り返してしまい、主人・中川玄一郎(土屋嘉男)や料理長から大目玉を食らってしまう。_NEWLINE_それを不憫に思った中川の妻・中川佳子(高田美和)は、1人紫藤に慰めの言葉を掛けた。後日、紫藤はカフェで偶然佳子夫人と再会した。そして、誘われるまま中川夫妻の息子の家庭教師として雇われるのだった。_NEWLINE_そんな中、佳子夫人は次第に紫藤に心惹かれるようになってゆき、とうとう一線を越える日がやって来た。_NEWLINE_それを契機に、紫藤と佳子夫人の運命は大きく変わってゆくのだった。 | 14430082021732958762 |
Q17220901 |
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近江 (新潟市)
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概要
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1889年(明治22年)から現在までの大字。及び1989年(平成元年)から現在までの町名。信濃川下流右岸の内陸部に位置する。もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった近江新田の区域の一部で、昭和20年代末から急速に発展。特に1958年(昭和33年)に新潟駅が現在地に移転すると、住宅地・商業地域として急速に発展した。
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歴史
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1645年(正保元年)に開発。 | 14474379373519876390 |
Q11638860 |
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近藤潤子
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近藤 潤子(こんどう じゅんこ、1931年7月14日 - )は、日本の助産師、看護師、保健師、看護学者。学位は看護学修士。天使大学大学院助産研究科特任教授、聖路加国際大学名誉教授、札幌医科大学名誉教授。_NEWLINE_聖路加看護大学看護学部教授、札幌医科大学保健医療学部教授、札幌医科大学保健医療学部学部長(初代)。天使女子短期大学衛生看護学科教授、天使女子短期大学学長、天使大学学長(初代)、天使大学大学院助産研究科研究科長(初代)、学校法人天使学園理事長などを歴任した。 | 4427038491794774987 |
Q11638890 |
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近藤等
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略歴
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京都生まれ。暁星中学校在学中よりフランス語と登山に親しむ。早大仏文科卒。在学中は山岳部に所属し、朝鮮冠帽峰に遠征。卒業後、同部監督、部長もつとめた。。_NEWLINE_早稲田高等学院講師、早大商学部助教授をへて、1955年から教授。フランス文学者としてフランスの山岳文献を多数紹介した。1992年に定年退任、名誉教授。_NEWLINE_1962年、パリ大学研究員としてフランスに滞在。この機会にフランス国立登山スキー学校の研修会に参加。以後18回の登山シーズンをアルプスで過ごし、150回ほどの山行で120余峰に登る。ピッツバリュー北壁などを日本人として初登頂した。_NEWLINE_1971年にフランス・シャモニー名誉市民、1972年にフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章。1997年、勲三等瑞宝章。1998年、日本山岳会名誉会員。 _NEWLINE_2015年11月29日、老衰のため死去。 | 732138517332822861 |
Q3142966 |
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連星パルサー
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連星パルサー(Binary pulsar)は、白色矮星や中性子星等の伴星との連星系からなるパルサーである(二重パルサーPSR J0737-3039の場合は、伴星の中性子星もパルサーである)。連星パルサーは強い重力場を形成するため、一般相対性理論の検証の場となっている。パルサーの伴星は、観測が非常に難しいが、パルサーのパルスのタイミングは、電波望遠鏡によって非常に良い精度で測定することができる。_NEWLINE_1974年、ジョゼフ・テイラーとラッセル・ハルスは、アレシボ天文台で初めての連星パルサーPSR B1913+16を発見し、この業績により1993年にノーベル物理学賞を受賞した。ハルスがPSR B1913+16を観測していると、彼はパルスの速さが規則的に変化していることに気づいた。その後、パルサーは別の星の非常に近くを高速で公転しており、ドップラーシフトのためにパルスの周期が変わっていたと結論づけられた。パルサーが地球に向かう方向に動くとパルスはより頻繁になり、逆に地球から遠ざかる方向に動くとパルスの頻度は少なくなる。ハルスとテイラーは、パルスの変動の観測から、2つの恒星はほぼ同じ質量であると推定し、もう1つの恒星は中性子星であるとの確信に至った。この系からのパルスは、現在も15マイクロ秒以内の精度で観測されている。_NEWLINE_さらに、PSR B1913+16の研究によって、相対論的効果によって中性子星の質量を初めて正確に決定することができた。2つの恒星が近接していると、重力場がより強くなり、時の経過が遅くなるため、パルスの間隔が長くなる。この相対論的時間の遅れは、観測者がパルサーは一定の距離を一定の速度で公転していると期待する時の観測結果と実際の観測結果との差となって現れる。_NEWLINE_連星パルサーは、LIGOによる重力波の直接検出がなされるまで、唯一の重力波検出のツールであった。アインシュタインの一般相対性理論では、2つの中性子星が共通重心の周りを公転する時に重力波を放出し、重力波は軌道エネルギーを運び去って、2つの恒星はより接近し、軌道周期はより短くなると予測する。連星パルサーのタイミングのモデル化には、10個のパラメータのモデルで十分である。_NEWLINE_PSR B1913+16の観測結果は、アインシュタインの方程式とほぼ完全に合致する。相対性理論は、時間が経つと、連星系の軌道エネルギーは重力放射に変換されると予測する。テイラーとJoel M. Weisbergらが集めたPSR B1913+16の軌道周期のデータは、この相対性理論の予測を支持した。彼らは1982年及びその後、観測される2つのパルサーの間の最小距離が、公転距離が一定と仮定した場合と比べて差が出ることを発表した。その後、この系の軌道周期は年に約100万分の76秒ずつ短くなっていることが発見された。その後の観測でも、この減少が示されている。_NEWLINE_時々、連星系パルサーの伴星は、パルサーに外層を転移するまで膨張することがある。この相互作用は2つの天体の間を転移するガスを加熱し、パルス状に見えるX線を放出し、X線連星と呼ばれる段階になる。一方の天体からもう一方への物質の流れにより、降着円盤が形成されることもある。_NEWLINE_パルサーは、相対論的な速さで粒子を周りに吹き飛ばす「風」を吹かせることもあるが、連星パルサーの場合は、伴星の磁気圏も吹き飛ばし、パルス放出に劇的な影響を与える。 | 7776855953333514719 |
Q17218297 |
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遂翁元盧
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生涯
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遂翁についてまとまって記された史料は『荊棘叢談』が唯一である。白隠下四世妙喜宗績が天保14年(1843年)刊行した白隠門人等についての逸話集で、後世の遂翁に関する記述は専らこれに基づく。いわゆる『白隠年譜』『東嶺年譜』にも断片的に遂翁に関する記事があり、信頼性ではこちらが勝る。
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慧牧時代
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享保2年(1717年)下野国に生まれた。白隠門下に入るまでの経歴は全く不明である。大名庶子のため身元を隠していたという説もあるが、特に根拠が示されているわけではない。延享3年(1746年)、駿河国原宿(沼津市原)の松蔭寺を訪れ、白隠慧鶴の門下に入った。当初は慧牧と号した。_NEWLINE_白隠に20年間師事する間、松蔭寺から30里余り離れた葦原西青島(藤枝市上青島か)に庵を構えた。『荊棘叢談』では、禅室には深夜にのみ訪れて人前には姿を見せず、また松蔭寺には講会の日に現れて直帰するのみで、白隠が侍者を以って呼び止めても応じなかったという。_NEWLINE_一方『白隠年譜』草稿によれば、宝暦5年(1755年)、東嶺が龍津寺で維摩経を説いた際、慧牧が知客を務め、石見浜田藩主・松平康福を応接している。また、宝暦8年(1758年)春にも、愚堂東寔百年忌に当たり白隠が美濃国神戸村(岐阜県安八郡神戸町神戸)瑠璃光寺に招かれた際、門人が反対したため、貫宗慧林の提案で遂翁が取り仕切っている。一行は美濃、伊勢、尾張の各所の寺を回って帰国した。『荊棘叢談』では、桑名宿天祥寺(現在埼玉県行田市に移転)での説法からの帰途、七里の渡しの舟が逆風を受けて転覆し、遂翁含め全乗客が海に沈んだが、遂翁は手で抱えられるが如く浮上し、釣り舟に救けられたという逸話を載せる。_NEWLINE_白隠の老衰に伴い、白隠とその門下の間では早くから後継者問題が立ち上がっていた。筆頭弟子の東嶺円慈が有力であったものの、反対派の存在により紛糾し、長らく後継が決まらない状態にあった。明和元年(1764年)白隠が傘寿を迎えるにあたり、東嶺が信頼の置け、後継者争いの埒外にあった遂翁を推挙する形で決着し、2月15日の大応録会において正式に決定された。
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遂翁時代
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同年4月に京妙心寺に登板し、遂翁元盧と号した。初めは酔翁と号したが、妙心寺塔頭養源院院主の意見で遂翁と改めたという。転版式の後大坂に遊び、12月に帰国した。一旦は松蔭寺に住んだが、白隠との同居を厭い、翌年には庵原観音院に退居した。_NEWLINE_同年白隠の江戸行の際、遂翁も東嶺、霊源と共に大磯宿まで見送りに出、鎌倉を経て江戸至道庵に寓居した。白隠の病の知らせを受けると、遂翁単独で見舞いに参じている。明和6年(1769年)、遂に白隠が病死すると、遂翁はこれを看取って松蔭寺に身を落ち着けた。しかし、教えを請う人がいると東嶺を訪ねるよう勧め、東嶺、大休、霊源等が人と会うよう説得を行った。_NEWLINE_安永3年(1774年)8月、白隠の七回忌に当たって参詳語要を説き、ようやく初めての説法を行った。以降勢力的に活動し、天明4年(1784年)の十七回忌では松源録を説き、その他浜松新橋村(浜松市南区新橋町)大通院で人天眼目、興津宿(静岡市清水区興津)清見寺で碧巌録を説いている。_NEWLINE_この期の遂翁には弟子も大勢集った。『荊棘叢談』には琉球から来た僧との逸話が記される。遂翁は僧に隻手の声を示したが、3年後帰国の期日に及んでも悟りに至らなかった。7日座禅せよというが悟らない。また7日与えるも変わらない。「古人、得道を三七日の内においてす」として更に7日与えても悟らなかった。更に5日与えたが悟らない。ついに「三日の後いまだ徹了せずんば、即ち死し去れ」と言い放ち、僧は身命を放って座禅し、3日後大悟に至ったという。_NEWLINE_沼津宿(沼津市幸町)永明寺で五祖録を説いた後病を発した。寛政元年(1789年)夏、峨山慈棹が江戸湯島(東京都文京区湯島)麟祥院で碧巌録を提唱するに応じ、周囲の反対を押し切り病を押して出向いた。帰途暑さに倒れ、7月に松蔭寺に戻ってからは病床に臥し、12月20日(1790年2月3日)側臥位のまま死去した。遺偈は「仏祖を欺瞞すること七十三歳、末後の一句、什麼(なん)ぞ什麼(なん)ぞ。喝。」_NEWLINE_松蔭寺は豊後国出身の門弟春叢紹珠が継いだ。
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著作
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遂翁の書画は静岡県下をはじめ各地の寺院、図書館に豊富に残されているが、著書は乏しい。_NEWLINE_『宝蔵万蔵塒』は寛政元年(1789年)に行われた最期の仮名法語の草稿である。松蔭寺に自筆本が残り、『白隠和尚全集』第8巻に翻刻された。_NEWLINE_『白隠和尚行状』は白隠の略記を漢文体で綴った短い文章である。天保13年(1842年)刊『駿河雑誌』43巻に採録された。昭和37年(1962年)陸川堆雲が『駿河雑誌』より書き抜いた写本が駒澤大学図書館に残る。_NEWLINE_国立国会図書館には松蔭舎遂翁編『詞枝折』なるものの写本がある。_NEWLINE_著書に『浮島老師熊野夜話』が挙げられることもあるが、詳細不明。明治18年(1885年)長野県北佐久郡小諸町土屋善兵衛より『遂翁和尚説法』が刊行されている。内容は仮名法語である。 | 17441349751406846948 |
Q858329 |
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運動エネルギー弾
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運動エネルギー弾(うんどうエネルギーだん、英語:Kinetic energy penetrator、KEP)とは、炸薬ではなく質量、弾頭硬度、速度といったミサイル・砲弾自身が持つ運動エネルギーによって対象を破壊する機構を持つ弾丸兵器のこと。砲弾とミサイルの違いはあるが運動エネルギーミサイルも本項で説明する。_NEWLINE_運動エネルギーによって対象を破壊する機構を持つ兵器の総称を運動エネルギー利用兵器(英語ではKEW、Kinetic energy weapon)という。指向性エネルギー兵器(DEW)に対して、従来型兵器をいう。
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概要
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基本的には成形炸薬弾(HEAT)や粘着榴弾(HESH)と言った爆発・炸裂弾(化学エネルギー弾)に対し、LOSATやCKEMといった運動エネルギーミサイルや、APFSDSのような運動エネルギー徹甲弾、また近年開発されるタングステン弾、劣化ウラン弾などを指す際に用いられる。運動エネルギーを利用した弾丸という広義では、通常の徹甲弾や銃弾などもこれに分類できる。_NEWLINE_中空装甲によりHEATが、 飛散防止内張によりHESHが対応された結果、APFSDSやCKEMのように、弾体自体の速度によってユゴニオ弾性限界を超え、中空装甲と飛散防止内張を突破する弾薬が生み出された。_NEWLINE_ただし、ユゴニオ弾性限界を超えることによって装甲を突破する弾薬への対策として設計されたセラミック複合装甲が十分な厚みを持っていた場合は通用しない。
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原理
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対戦車兵器としての運動エネルギー弾頭には数キログラムから数十キログラムのタングステンや劣化ウランが硬度・比重の都合から最も好まれる。_NEWLINE_代表的な運動エネルギー砲弾APFSDSの場合、貫徹力を上げるため従来の徹甲弾とは大きく異なるダーツ矢のような形状をしており、砲弾自身の質量は数kg程度しかない。しかし、1,500m/s前後という極めて速い飛翔速度により運動エネルギーの総量を高めているため3MJ前後に達し、エネルギーが1点に集中することにより殆ど全ての戦車装甲をいとも簡単に貫徹することができる。(詳細はAPFSDSを参照)_NEWLINE_また、代表的な対戦車用途の運動エネルギーミサイルとしてLOSATやCKEMといった地対地ミサイルがあり、これは誘導ミサイルとしての特性からAPFSDSの最大射程2km前後を大幅に上回る射程距離を持ち(4km~10km)、一方的に撃破することが可能であるが、デメリットとして1発ごとのコストが跳ね上がることは避けられない。 | 8108322629837989557 |
Q11640428 |
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運命にKISS
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内容
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日本テレビ系「ニチレイ・レディース'95」テーマ・ソング及び2枚目のアルバム「a girl as a boy」先行シングルとなった本作はオリコンチャート100位以内にランクインした最後の作品となってしまった。 | 12333213826021161618 |
Q11640557 |
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過所
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過所(かしょ)とは、中国の漢代より唐代の頃に用いられた通行許可証。律令制の日本でも同様のものが用いられた。 | 5271089709951324812 |
Q11643421 |
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郷津駅
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駅跡地
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当駅から旧郷津トンネルを経て直江津付近の新線との合流部分までの路線跡は、国道8号直江津バイパスとして再利用された。旧郷津トンネルも国道用として拡幅改修されて現在も利用されている。駅跡は、国道の再整備により海よりの半分以上が国道敷地となり、残った部分は駐車場となっている。 | 4654461648575298886 |
Q499548 |
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配位結合
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プロトン化における配位結合
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例えばアンモニアの窒素は五つの価電子をもち、三つの水素原子と共有結合を形成して閉殻状態(8電子)になっている。そして、アンモニア窒素には水素との共有結合に参加していない二つの電子(1つの非共有電子対)が存在し、電子対を供与することが可能なルイス塩基でもある。プロトンがルイス塩基と配位結合すると、窒素の原子が+電荷を持ったオニウムイオン(アンモニウムイオン)となる。
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配位結合と共有結合との違い
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配位結合と共有結合も同じく分子軌道により形成されるので本質的には違いが無いが、その分子軌道の構造やそのエネルギー準位により結合自身の性質が決定される。前述のアンモニウムイオン(NH₄⁺)の場合は共有結合も配位結合も窒素のsp³軌道と水素の1s軌道から生成する等価な分子軌道であり、四本の結合に違いは無い。一方、π供与性の配位結合やsp³d混成軌道から生成する配位結合は、もとの電子軌道が等価では無い為に性質に違いが現れる。 | 6977092650219826539 |
Q11644346 |
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酒田地区広域行政組合
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概要
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2008年4月1日付けで、酒田地区消防組合と酒田地区クリーン組合は統合され、酒田地区広域行政組合が設立された。この統合により、重複する総務部門をひとつにして行政組織の簡素化をはかり、効率的・効果的な運営が期待される一方、市議会では「仕事の内容が違うクリーン組合(ごみの清掃処理担当)を、消防組合に編入統合することには無理がある。」「職員の削減が負担増につながるのではと危惧する。」「公の仕事に何でも効率というのは馴染まない」という意見も出された。
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統合後の行政サービス
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編入統合後もこれまでどおり、消防署の消防・救急体制や家庭ごみ・廃棄物処理等の受付について変更はない。
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概要
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それまで消防本部と消防署が所在していた酒田市千石町1丁目の庁舎は1974年(昭和49年)に完成したものであり、老朽化が進行していた。それに加え、119番通報を受ける通信指令台が古い型のものであり更新が望まれていた。_NEWLINE_そこで2009年4月より、酒田地区の消防本部機能を酒田市平田総合支所内に移転したものである。なお、実際に通報に応じる出動隊は現庁舎に残るため、消防活動に変更はない。_NEWLINE_しかし2014年5月29日、酒田市側は消防署庁舎の耐震性が低いことと、津波浸水想定区域にあることを理由に庁舎を移転し、本部機能も新庁舎に再移設する方針を酒田市議会で報告した。
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事業費
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移転に関する事業費であるが、新庁舎を移転改築した場合30~35億円ほどの経費が必要になるという。今回の移転計画では、平田総合支所内の改修、最新式の高機能消防指令センター設備の導入および平田分署の車庫を平田総合支所庁舎に増築する内容で、事業費は約6億円となっている。新築で対応した場合と比べ大幅な事業費の圧縮が図られている。 | 6694709156577940008 |
Q11645198 |
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野口直人
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来歴
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セレッソ大阪U-18から2011年、セレッソ大阪へ加入。2012年、大分トリニータへ期限付き移籍。2013年はJFLのMIOびわこ滋賀に期限付き移籍。2014年1月、契約満了によりC大阪・滋賀両方から退団が発表された。現在はセレッソ大阪サッカースクールコーチに就任。 | 686303449671066484 |
Q11646168 |
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野長瀬正夫
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来歴・人物
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奈良県十津川村生まれ。十津川中学文武館(現・奈良県立十津川高等学校)卒業。在学中より詩作を開始。小学校教員、金の星社の編集者などをしながら、昭和初年、プロレタリア文学運動に関わって詩や少年小説を書き、戦後一時期少女小説を書く。1971年『あの日の空は青かった』でサンケイ児童出版文化賞受賞。1976年、詩集『小さなぼくの家』で野間児童文芸賞、赤い鳥文学賞を受賞。1979年、詩集『小さな愛のうた』で第4回日本児童文芸家協会賞を受賞。金の星社顧問も務めた。 | 316516880483348055 |
Q12588970 |
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金哲 (北朝鮮の政治家)
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経歴
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2007年1月、両江道人民委員会委員長に就任。2010年9月、朝鮮労働党中央検査委員会の委員に選出。
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最高人民会議
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2009年4月、最高人民会議第12期代議員に選出された。
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その他
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2011年、金正日の死に際し、国家葬儀委員会の委員を務めた。 | 13546735250726877229 |
Q484095 |
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金基洙 (ボクサー)
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アマチュア時代
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1939年に生まれ、アマチュア時代はウェルター級で活躍した。1960年にはウェルター級韓国代表としてローマオリンピックに出場する。しかし、2回戦でイタリアのニノ・ベンベヌチと当たり、敗れる。
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プロ時代
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五輪出場後、1961年8月1日、ミドル級でプロデビューしその後、韓国ミドル級タイトルを獲得した。_NEWLINE_1965年1月10日、東洋太平洋ボクシング連盟 (OPBF)ミドル級タイトルを獲得。同タイトルを3度防衛した後、階級をスーパーウェルター級に落とした。_NEWLINE_1966年6月25日、ソウルでWBA・WBC世界スーパーウェルター級王者ニノ・ベンベヌチと対戦し15回判定勝ちを収め韓国初の世界王者となった。_NEWLINE_1967年10月3日、フレディ・リトルを15回判定勝ちを収め2度目の防衛に成功した。_NEWLINE_1968年5月26日、敵地イタリアでサンドロ・マジンギと対戦し、15回判定負けを喫し2度目の防衛に失敗し王座から陥落した。_NEWLINE_1997年6月10日、肝癌の為死去。57歳没。 | 3082741708410820978 |
Q11647590 |
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金湊仁三郎
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金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18日 - 1979年11月23日)は、昭和初期の大相撲力士である。現在の千葉県船橋市金杉出身。本名は、石井仁三郎。身長164cm、体重86kg。湊川部屋所属。最高位は東前頭5枚目。1940年1月場所のみ金湊利三郎を名乗った。
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経歴
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1927年1月場所に初土俵を踏む。1931年5月、双葉山定次とともに新十両を果たし、2場所連続して双葉山を破る。春秋園事件で一度は脱退するが、1933年1月に十両格別席で復帰、1934年5月場所に新入幕を果たした。_NEWLINE_小兵ながら動きの早い相撲で、若手をいじめることが多く、「追いはぎ」とあだ名されている。大きな出羽ヶ嶽文治郎に初顔から連勝したり、新入幕の羽黒山政司に初日に土をつけたり、1939年1月には双葉山の連勝を止めた安藝ノ海節男を終盤に破って負け越しを味わわせたりと、大物食いで名をはせた。_NEWLINE_1943年1月、幕下に落ちたところで引退、年寄二十山を襲名したが、1968年に廃業した。年寄在任中は一時期時津風部屋付きであった。_NEWLINE_幕内通算成績は11場所 61勝84敗。 | 9167276573047292462 |
Q40042658 |
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金澤克史
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経歴
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武蔵野音楽大学卒業。1984年武蔵野音楽大学大学院修了。_NEWLINE_タワーレコードオンラインよりCD発売・_NEWLINE_ナクソスミュージックライブラリーより音源配信。_NEWLINE_ウィハン弦楽四重奏団との共演は2014年現在で7回。_NEWLINE_国際芸術連盟専門家会員(ピアノ)。 | 17563484608628862021 |
Q18545805 |
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金田陽介
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来歴
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2010年、読み切り『氷山』で第84回週刊少年マガジン新人漫画賞佳作を受賞。同作が『マガジンSPECIAL』2010年8月号に掲載、デビューする。_NEWLINE_渡辺静のアシスタントを経て、2012年から2014年まで『星天高校アイドル部!』を連載。2015年から2019年にかけては『寄宿学校のジュリエット』を連載した。 | 16522376788836698775 |
Q11648011 |
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金魚の幽霊
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金魚の幽霊(きんぎょのゆうれい)は江戸時代の戯作者・山東京伝による小説『梅花氷裂』にある妖怪、幽霊。名称は妖怪漫画家・水木しげるの著書によるもので、原典では「藻之花の怨魂、金魚に着す」とある(画像参照)。_NEWLINE_その昔、信濃国(現・長野県)でのこと。藻之花という女性が、ある家に妾に迎え入れられたが、その家の正妻が隣人にそそのかされ、藻之花の飼っていた金魚の鉢に頭を突っ込んで殺してしまった。その金魚鉢にいた金魚に藻之花の怨念が憑いて怨みを晴らし、正妻もまた怨念によって金魚のような姿に成り果てたという。『梅花氷裂』によれば、怨念が憑いて異形となった金魚がランチュウの始まりとされている。 | 15834751137588979254 |
Q4185898 |
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釣りバカ日誌6
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あらすじ
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出世には全く関心が無く仕事なんかそっちのけで妻子と釣りをこよなく愛する万年ヒラ社員の伝助。一方の釣り友達である鈴木建設社長のスーさんは世の中の不況の影響もあって日々諸問題に振り回され釣りを楽しむ暇もなく、おまけに家庭では妻の長期間の海外旅行で家に帰っても誰も話し相手がいなく孤独な日々を過ごす毎日。そんな中、アイナメ釣りの仕掛けを手に入れた伝助は、スーさんの慰労を兼ねて翌々日の週末に岩手県釜石市へアイナメ釣りへ行こうと誘う。だが、スーさんはちょうど週末には講演会の予定が入っていて無理だと断るが、その講演先が偶然にも釜石市だった事を知ると一転して大喜びし、前日の夜、伝助と共に東京から車で一路釜石市へ向かう。ところが伝助は運転免許を持っていないため、スーさんが終始車を運転する羽目となってしまうが、そのお陰で日中のアイナメ釣りを終えて旅館に到着するや否や、講演会を主催する市の幹部たちは後部座席で寝ていた伝助を「鈴木建設社長」、運転していたスーさんを「運転手」と勘違いしてしまう。結局2人は勘違いされたまま、伝助は夜の宴会の席で大いにハメを外し、スーさんは旅館の仲居・澄子と恋に落ちた挙句、翌朝スーさんと澄子は遠野市へ観光に出かけてしまい、旅館に一人残された伝助は「鈴木建設社長」として大ホール満員の釜石市民の前で講演しなければならなくなってしまう。_NEWLINE_やがて東京に戻った2人であったが、今回の出来事に伝助の妻・みち子は「人を騙すなんて許せない!」と大激怒。伝助は疲れているスーさんを泊めてあげようとするも、みち子は「今日は帰って!!」とスーさんを追い返してしまう。後日、東京へやって来た澄子。娘の結婚式を間近に控えているが、新郎の側には大物政治家や有名ピアニストなども含め百人を超える招待客を確保しているのに対し、新婦の側には親戚や知人などどんなに寄せ集めても20人にも満たないという。何とかして欲しいと澄子に頼まれたスーさんは伝助にもう一度「社長」として出席してくれないかと頼み、伝助は仕方なく再度「社長」を引き受けるとともに、以前は反対していたみち子も「社長夫人」として、さらには伝助の親友・八郎をはじめ多くの釣り仲間たちを「鈴木建設役員」に仕立て上げ、大勢で結婚式に出席する事になるが… 。 | 7299241354123268014 |
Q11648395 |
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鈴彦
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株式会社鈴彦(すずひこ)は、かつて存在した医薬品・医療機器・一般用医薬品の卸売を中心とする日本の企業であった。現在はバイタルネットである。医薬品の卸売手。地盤の東北地区では有力卸の一社であった。
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概要
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第二次世界大戦後の仙台市内は空襲により焼け野原となった。それまで老舗として仙台市内で高いシェアもっていた薬種商の御三家「小谷」「桜井(後・小田島薬店と合併)」」「池田」は本拠を失った(御三家の1社「桜井伊之助薬輔」以外は1954年(昭和29年)設立の宮城県医薬品卸組合に入会していない)。登米郡登米町に店舗を構えていた「鈴彦商店」は、無傷であった。鈴木彦治は、米、豆、味噌などの食料品を背負い込んで満員列車に乗り込み、関東・関西のメーカー、問屋を精力的に駆けずり回ってクスリをあつめ、県内に販売ルートを拡げていった。_NEWLINE_昭和30年代後半からメーカー側はそれまでの卸の取引実績・販売力・小売店に対する力の強弱などを勘案して「どこの小売店に対してこれだけのうちの再販品を取ってほしい」と要求するようになり、そのリストにしたがって卸と小売りの間での再販契約が取り交わされるようになった。このタイアッブ制を足がかりに、各メーカーが組織化に積極的に乗り出すようになり、メーカー・卸・小売りの系列化が次第にかたちづけられるようになっていった。鈴彦商店は、武田薬品工業系列に傾いていった。_NEWLINE_1959年(昭和34年)に兼業していた味噌・醤油醸造部門を別会社として医薬品卸専業になり、1961年(昭和36年)、「国民皆保険」が実現し、医療用医薬品の需要拡大を見越して、本社を仙台市に移転新築。さらに、県外卸の営業圏を譲り受けるなどして営業エリアを拡大。また、モータリゼーションに備え仙台市の近郊に駐車場を持つ配送センターを建設、コンピューターの導入、各営業拠点間のオンライン化を実施する。石油危機による直接の影響はなかったものの、1981年(昭和56年)の大幅薬価引き下げの影響は大きく、また、昭和57年に開通した東北新幹線など高速交通網の整備は、中央資本の東北進出を予想させた為、大型合併(サンエスを参考)に踏み切った。 | 13546967638109411255 |
Q11648583 |
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鈴木健一 (アナウンサー)
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人物
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茨城県立土浦第一高等学校を経て法政大学経営学部卒業後、1995年入局。 | 10931375334090230070 |
Q27150944 |
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鈴木秀
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概要
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主に広告記事等に利用される広告モデルとして活動しており、定められた利用範囲内で自由に使用できるフリー素材モデルしての活動が知られている。
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人物
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最終学歴は山梨大学の大学院修士課程。学生時代から起業していた。過去に動画投稿で様々な媒体で 活動していた。 | 2751018228083421944 |
Q11649272 |
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鈴木誠也
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プロ入り前
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小学2年生の時に荒川リトルで野球を始める。中学校時代には荒川シニアに所属していた。_NEWLINE_二松學舍大学附属高校へ進学してからは、投手として、1年時の秋からエースの座を確保。2年時には、4月下旬に右太ももの肉離れを発症した。夏の選手権東東京大会では、本調子から程遠い状態でありながら、チームの準決勝進出に貢献。関東第一高校との準決勝では、5回に満塁本塁打を浴びるなど不調で、チームも0-7で8回コールド負けを喫した。3年夏の東東京大会では、準決勝で谷岡竜平擁する成立学園高校と対戦したが、2回途中3失点で降板。8回に再び登板したものの、4点を追加された末に、チームも6-8で敗れた。なお、この大会では成立学園が優勝している。_NEWLINE_高校在学中には、前述したように、春夏とも甲子園球場の全国大会へ出場できなかった。しかし、投手として、ストレートで最速148km/hを記録。打者としても対外試合で通算43本塁打を放ったほか、一塁手として対外試合に出場することもあった。_NEWLINE_野手としてのプレー経験がある広島東洋カープの尾形佳紀スカウトが打力と走力を高く評価したことを受けて、2012年のプロ野球ドラフト会議では、広島から内野手として2巡目で指名。契約金6,000万円、年俸600万円(金額は推定)という条件で入団すると、投手から内野手へ転向した。背番号については、自身にとって「小さい頃からの憧れ」であり、また同姓のイチローと同じ「51」に決定した。
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広島時代
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2013年、春季キャンプの序盤でインフルエンザを発症したフレッド・ルイスに代わって、2月2日に一軍キャンプへ合流。1日限定の参加だったにもかかわらず、オリックス・ブルーウェーブ時代のイチローを指導していた一軍打撃コーチの新井宏昌や、一軍監督の野村謙二郎から高い評価を受けた。公式戦の開幕後は、野手転向1年目ながら二軍のレギュラーに定着すると、ウエスタン・リーグの公式戦で打率.281を記録した。9月14日にプロ入り後初めての出場選手登録を果たすと、読売ジャイアンツ(巨人)とのカード初戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)7回裏に代打で一軍デビュー。広島の高卒新人野手で一軍昇格を果たしたのは、1999年の東出輝裕以来であった。9月16日の同カード第3戦4回裏の適時打で、一軍初安打・初打点を記録した。一軍公式戦への出場は11試合にとどまったが、かつて自身と同じく背番号51を着用していた前田智徳の引退試合(10月3日)には、「1番・右翼手」としてスタメンに起用された。_NEWLINE_2014年、7月17日のフレッシュオールスターゲーム(長崎ビッグNスタジアム)で、ウエスタン・リーグ選抜の「2番・遊撃手」としてスタメン出場を果たした。一軍公式戦では、9月25日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)に「1番・右翼手」としてスタメンに起用されると、1回表の第1打席に先頭打者として一軍初本塁打。その後の打席でも3安打を放ったことで、初めて猛打賞を達成した。一軍公式戦全体では、36試合の出場ながら、.344という高打率をマーク。シーズン終了後に出場した第1回21U野球ワールドカップでは、日本代表のクリーンナップとして打率.423で大会の首位打者を獲得するとともに、外野手として大会のベストナインに選ばれた。_NEWLINE_2015年、公式戦の開幕前にポジション登録を内野手から外野手へ変更すると、ヤクルトとの開幕戦(3月27日・マツダスタジアム)で「1番・右翼手」としてスタメン出場。一軍公式戦通算では、97試合の出場で、打率.275、本塁打5、打点25、出塁率.335、OPS.746という成績を残した。一軍では内野の守備へ一切就かず、レギュラーポジションの確保や規定打席の到達までには至らなかったが、得点圏打率.358を記録。9月中旬の公式戦では、3試合連続で適時打を放った。_NEWLINE_2016年春季キャンプ終盤の練習試合中に右足ハムストリングの筋挫傷を発症した影響で、一軍復帰は公式戦開幕直後の4月5日にまで持ち越された。4月26日の対ヤクルト戦(神宮)で「6番・右翼手」としてスタメンに起用されると、2回表に一軍でのシーズン1号本塁打を記録。5番打者のブラッド・エルドレッド、7番打者・堂林翔太も鈴木の前後に本塁打を放ったことから、一軍公式戦におけるチーム11年振りの3者連続本塁打を達成した。_NEWLINE_セ・パ交流戦期間中にマツダスタジアムで催されたオリックス・バファローズとの3連戦では、第1戦(6月17日)と第2戦(6月18日)でサヨナラ本塁打、第3戦(6月19日)で決勝本塁打を放った。NPBの一軍公式戦における同一打者の2試合連続サヨナラ本塁打は史上10人目で、21歳での達成は史上最年少であった。広島では長嶋清幸(1984年)以来2人目の快挙で、広島の選手による一軍公式戦での3試合連続決勝本塁打は、1996年の江藤智以来の事例であった。また、交流戦期間中には、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の規定打席到達選手で最高の打率(.344)をマーク。レギュラー右翼手としてチームのセ・リーグ最高順位(3位)到達にも貢献したことから、大谷翔平(北海道日本ハムファイターズ)と並んで優秀選手(日本生命賞)に選ばれた。_NEWLINE_セ・リーグの監督推薦選手として初めて出場したオールスターゲームでは、途中から出場した7月15日の第1戦(福岡ヤフオク!ドーム)で内野へのポテンヒットながら初打席初安打を記録、「8番・右翼手」としてスタメンに起用された7月16日の第2戦(横浜スタジアム)では、2安打1打点という活躍で敢闘選手賞を受賞した。_NEWLINE_レギュラーシーズンでは、主に6番打者として5月以降3割以上の打率を維持。一軍公式戦20試合に出場した8月には、打率.359、7本塁打という好成績を残すとともに、終盤から5番打者に定着した。9月10日の対巨人戦(東京ドーム)では、4回表の第2打席から2打席連続本塁打を放って、広島の逆転勝利と25年振りのセ・リーグ優勝決定に貢献した。レギュラーシーズン全体では、一軍公式戦129試合に出場するとともに、プロ入り後初めてリーグの最終規定打席に到達。打率(.335)でセ・リーグ2位、本塁打(29本)でチームトップの成績を残したほか、95打点、16盗塁、長打率.612を記録した。横浜DeNAベイスターズとのクライマックスシリーズ ファイナルステージでも、マツダスタジアムでの全4試合に「5番・右翼手」としてスタメンに起用されたが、通算打率.083(12打数1安打)、1打点、1盗塁殺と振るわなかった。_NEWLINE_チームのクライマックスシリーズ突破を経て臨んだ日本ハムとの日本シリーズでは、第2戦(10月23日・マツダ)の2回裏に、1死1・3塁という局面から三塁走者として本盗を成功させた。打者・石原慶幸による空振り三振の間に一塁走者・安部友裕と重盗を仕掛けたことによるもので、日本シリーズにおける本盗の成功は、1969年の土井正三(巨人)以来47年振り5度目(いずれも一塁走者との重盗)。_NEWLINE_日本シリーズの終了後には、ゴールデングラブ賞とベストナイン(いずれもセ・リーグ外野手部門)を初めて受賞。また、10月18日に「侍ジャパン 野球オランダ代表 野球メキシコ代表 強化試合」の日本代表に選出された。11月13日の最終戦(対オランダ戦)延長10回表には、タイブレークからの勝ち越し満塁本塁打でチームを勝利に導いた。_NEWLINE_2017年、NPBのオープン戦期間中に催された第4回ワールド・ベースボール・クラシックに、日本代表の一員として参加。チームが敗退した準決勝までの5試合に出場したが、打率は.214(14打数3安打)で、本塁打も打点も記録できなかった。NPBのレギュラーシーズンでは、開幕直後から打撃が好調なことを背景に4月11日の対巨人戦(東京ドーム)でプロ初のスタメン4番に座り、同25日の対巨人戦(東京ドーム)からは後述の離脱まで全試合4番打者を務めた。セ・パ交流戦期間中の6月14日の対オリックス戦(マツダ)では、延長12回に2年連続のサヨナラ本塁打を放った。さらにオールスターゲームのファン投票では、同部門の得票数1位で2年連続の出場に至った。しかし、8月22日の対DeNA戦(横浜)での右翼守備中に、右中間のフェンス際の飛球にジャンピングキャッチを試みた際に右足首を負傷。横浜市内の病院で検査を受けた結果、右脛骨内果の剥離骨折と診断されたことから、翌日に出場選手登録を抹消された。同29日に骨接合術と靱帯修復術を受け、全治3ヶ月と診断された。シーズン中の復帰は叶わなかったものの故障の時点で規定打席には到達しており、打率.300、26本塁打、90打点、OPSはリーグトップの.936を記録し、2年連続のベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。_NEWLINE_2018年、中日ドラゴンズとの開幕戦(3月30日・マツダスタジアム)で自身初の開幕4番として219日ぶりに公式戦に復帰した。4月4日に下半身の張りで登録を抹消されたが、4月18日に1軍に復帰。セ・リーグ外野手部門のファン投票で選出され、3年連続の選出となったオールスターゲームでは7月13日の第1戦に「5番・右翼」で先発し、初本塁打を放った。8月には月間打率.414、12本塁打を記録、9月20日には自身初の30本塁打の大台に到達するなど4番打者としてチームを引っ張り、球団史上初のリーグ3連覇に大きく貢献した。巨人とのクライマックスシリーズファイナルステージでは第1戦でシリーズ初本塁打を放った。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズではチームは1勝4敗1分で敗れたものの、第3戦(10月30日・福岡ヤフオク!ドーム)で安部友裕とともに自身のシリーズ初本塁打を含む2本塁打を記録。1試合で同一チームの2選手が2本塁打を放つのは日本シリーズ史上初の快挙だった。第4戦(10月31日・福岡ヤフオク!ドーム)でも本塁打を放ちシリーズ球団タイ記録の3本塁打、打率.455の活躍で敢闘賞を受賞した。オフには3年連続のベストナインを受賞。11月19日には球団広報から、2019年シーズンより背番号が前田智徳が現役を引退した2014年以降空き番号となっていた1に変更されることが発表された。
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選手としての特徴
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50メートル走で最速5秒8を記録したほどの俊足や、投手として最速148km/hの強肩が武器。打撃では、右手でバットを押し込む力が強いため、右打席から逆方向に長打を放つことができる。_NEWLINE_広島への入団当初は、球団の育成方針の下で、内野手として経験を積んでいた。2015年からは、「それまで本格的に教わったことがなかった」という外野の守備に取り組んでいる。また、2016年の序盤に打撃フォームを根底から見直したところ、「トスバッティングの延長」でトップの位置を深く決めることだけを重視。打撃開眼につなげた。_NEWLINE_2018年シーズンは見逃し三振が目立ち、12球団で1位となる42を記録。
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人物
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漫画『巨人の星』で「(鈴木の出身地である)荒川区町屋の長屋に(主人公の)星一徹・飛雄馬父子が暮らしている」との設定が為されたことから、「町屋」を取り上げた『出没アド街ック天国』(テレビ東京)2006年3月18日放送分では、当時小学5年生だった鈴木と実父を「平成の星親子」として紹介。実父が自宅内に造った練習場で、鈴木がトスバッティングに取り組んでいる映像も流された。鈴木が広島へ入団した後も、同番組で町屋を特集する場合(2014年10月18日放送分:「京成 町屋」、2016年11月12日放送分:「ディープな下町」)には、前述した小学生時代の映像を改めて放送。さらに、広島でのプレー映像や番組独自のインタビュー映像などを交えながら鈴木の近況を紹介している。_NEWLINE_父方の祖父は、1966年に全日本ボウリング協会で初のパーフェクトゲームを達成した。_NEWLINE_小学生時代から前述したような野球漬けの環境で育ったことを背景に、広島の首脳陣からは、練習量の多さや練習への意識の高さを高く評価されている。鈴木自身も、「集中力が増す」という理由から、深夜に若手合宿所・大野寮の室内練習場で照明を付けずに素振りへ勤しむことがあるという。_NEWLINE_勝利後のヒーローインタビューの時に、たまにではあるが、インタビュー終了後にインタビューを受けた選手に祝い水をかけたりしている。しかし、2015年の8月23日にヒーローインタビューを終えた黒田に祝い水をかけようしたが、黒田に怒られて、鈴木自ら水をかぶった。また、2017年では、でたらめなインタビューをして、エルドレッドに突っ込みを喰らったうえに、クリス・ジョンソンに水をかけられた。_NEWLINE_2017年シーズンには、「せいや」繋がりで、『聖闘士星矢』とのコラボレーショングッズを広島球団から発売した。
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エピソード
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2016年にオリックスとの交流戦で2試合連続サヨナラ本塁打を放った直後には、監督の緒方孝市が「神がかっていますね。今時の言葉で言うなら『神(かみ)ってる』よな」とのコメントを残した。このコメントが報じられたことをきっかけに、インターネット上で既に広まっていたとされる「神ってる」という言葉が、「好調な鈴木やチームを象徴する表現」とのニュアンスでメディアやファンに多用。広島球団も、鈴木が絶叫する表情を前面、「神ってる」という文字を背面にプリントで入れたTシャツを、2試合連続サヨナラ本塁打記念公式グッズとして発売した。 同年のシーズン終了後には、2016年新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれた(受賞者は緖方と鈴木)。野球関連の言葉から唯一「ノミネート語」(全30語)に選ばれたことによるもので、野球関連の言葉としては、前年(2015年)の「トリプルスリー」に続く受賞であった。なお、東京都内で発表・授賞式が開かれた12月1日には、緖方を初めとする広島の一軍関係者がセ・リーグ優勝記念旅行先のハワイに向けて出発。鈴木は、旅行への出発を1日遅らせたうえで、スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞の表彰式と新語・流行語大賞の発表・授賞式に単独で出席した。新語・流行語大賞の発表後には、「僕自身が言ったわけではないが、(大賞の受賞を)嬉しく思う。この言葉で僕のことを知ってくれた人も多いので、ありがたい」と感謝しながらも、「『神ってる』と言われるのは『まぐれ』と言われているようで、少し嫌だった。来季(2017年)には、『神ってる』ではなく『実力だ』と思われるように頑張りたい」という表現で決意を新たにしていた。もう1人の受賞者である緖方は、鈴木が2017年6月14日のオリックス戦で2年連続のサヨナラ本塁打を放った直後に、延長12回までマツダスタジアムで声援を送ったファンに向けて「今年は(レギュラーに定着した鈴木というより)ファンが神っていた」というメッセージを出している。 | 13185848155483711798 |
Q11649566 |
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鉄板
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概要
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鉄鋼製品の材料として加工される用途の他、板の形状を生かして単独でも様々な工業用途に用いられる。特に、工事で掘削によってできる土壁が崩れないように押えるために用いられる場合は矢板と呼ばれる(形鋼も参照)。_NEWLINE_製鉄会社から出荷される鋼板は大口顧客向けにはコイルのまま出荷されるが、小口の顧客向けには卸売業者にてコイルを巻き戻し、専用の切断機(シャーリング・マシンなど)で切断したものが届けられる。一般の鉄工所ではあらかじめ卸売業者の規格切断品を購入して製品を製作する。この切断された鋼板がいわゆる『鉄板』である。鉄板はその品質(成分組成や引張強度、溶接性、表面処理など)からJIS規格品・製鉄会社規格品がありアルファベット記号と数字との組み合わせで記される。板厚は0.5 mmから25 mm程度が市場で流通している。高価なステンレス鋼の板はさらに薄い0.3 mmのものもある。圧延の都合で鉄板の厚みは飛び飛びの値を取る。0.5 mm程度の白色に塗装されたものは、プレス機で縁を加工して看板などに使われる。0.2 mm程度の青色に塗装されたものやガルバリウムめっきの施されたものは、波付け機で波板状に加工され、いわゆるトタン屋根などに使われる。_NEWLINE_なお造船所向けの鋼板など、厚板に分類される鋼板は顧客の注文に応じて一枚一枚、製鉄所から鋼塊から圧延加工しカットされた特大の『鉄板』の状態で出荷される。このため万が一、造船所の注文で製造するはずの厚板が製造されていないと、船体の、その注文された鋼板のサイズのぶんだけ、文字通り穴が開くことになる。このため高炉・転炉の操業率を上げつつ所定の厚みとサイズを持つ圧延厚板の納期を守る管理には高度な工程管理が重要である。工程管理の円滑化とコストダウンのためにコンピュータ導入が早くから進んだ産業のひとつが製鉄業である。このエピソードはNHK新・電子立国第8回 『コンピュータ製鉄~驚異の巨大システム~』で、1996年5月26日に放送された 。
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調理器具として
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高い温度まで加熱できるので、頻繁に調理に用いられる。日本には、下部に炎をあてて熱した鉄板で食材を調理する鉄板焼きという料理法がある。類似する調理用具としてはフライパンなどがある。ホットプレートも参照。
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敷鉄板
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敷鉄板は、工事現場の作業床や地盤の保護などを目的に敷設(仮設)される鉄板。重機の走行や重量資材の仮置きに耐えうるよう、19mm、25mm厚などの規格が利用される。まとまった数が利用されるため窃盗の目標にされることも多い。 | 14533266864672684326 |
Q11649738 |
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鉄道旅行検定試験
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試験地
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札幌・盛岡・仙台・さいたま・東京・千葉・新潟・金沢・静岡・浜松・名古屋・京都・大阪・神戸・岡山・広島・松山・福岡・鹿児島・那覇で実施されていた。
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備考
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一般的な職業にはほとんど意味はないが、履歴書にも書くことができる。 | 10772632743566834019 |
Q11650206 |
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銘顕文化事業
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概要
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社員数20名弱(2012年現在)の小規模総合出版社だが、独自の編集部を持ち、台湾の同人コスプレ総合情報誌『DREAM創夢』、ライトノベルなどを刊行。また、台湾・香港の創作系同人作家やイラストレーターの発掘・デビュー支援・オンライン小説投稿サイト、ネット販売サイトの運営なども行っている。_NEWLINE_日本の出版物を中国語繁体字に翻訳して台湾にて出版(販売地域は台湾と香港)。ライトノベル(なごみ文庫、MF文庫Jの作品など)、ムック、雑学本、コンピュータゲームの攻略本やを刊行している他「もえたん」シリーズを始めとする萌え本も多数刊行している。 | 14708507312856167856 |
Q11650281 |
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銭洗弁天
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銭洗弁天(ぜにあらいべんてん)は、そこで銭貨を洗うと何倍にもなって返ってくるという信仰がある弁才天社。鎌倉の銭洗弁財天宇賀福神社は著名で、境内社として銭洗弁天がある寺社も多い。 | 17518676193390500895 |
Q11650931 |
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鎌倉氏
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鎌倉権五郎景正と大庭御厨の成立
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村岡忠通の子、章名は景通、景村、景成の3人の子を儲けたが、この内、景成の息子の権五郎景正の代に鎌倉氏は大きく発展を遂げることとなる。_NEWLINE_すなわち、景正は源義家に従軍して後三年の役において勇名をとどろかせ、戦後には多数の浮浪人を集めて相模国高座郡南部の一帯を開墾して大庭御厨を成立させたのである。
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鎌倉党の形成
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景正の死後の鎌倉党の系図は諸説あるが、一説としては次の通りである。(『系図纂要』および『桓武平氏諸流系図』を主とする)_NEWLINE_景正の嫡子の鎌倉景継が跡を継ぎ、さらにその息子の義景が三浦郡長江村にて長江氏を称し、義景の弟である重時は板倉重家の跡を継いで板倉氏を称した。景正の息子景門は安積氏を称し、その末裔は只野氏(多田野氏)を称した。また、景正の子景秀の孫の家政は高座郡香川郷にて香川氏を称し、景経の息子の景縄は古屋氏(降矢氏)を称した。_NEWLINE_景正の叔父の系統では、景通の息子の景久が鎌倉郡梶原郷にて梶原氏を称した。もう一人の叔父である景村の系統では、孫の景宗が大庭御厨に因んで大庭氏を称し、景弘は鎌倉郡長尾郷にて長尾氏を称した。また金井氏が鎌倉郡金井(横浜市栄区金井)にいた。_NEWLINE_このようにして鎌倉郡周辺に盤踞する武士団鎌倉党が形成されたのである。_NEWLINE_なお、鎌倉党の一族は名前におおむね「景」の字が用いられている。
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鎌倉党の落日
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本来は景正ののち大庭御厨の下司職を継承した景継の子である長江義景が嫡流であったと思われるが、庶流の大庭景宗にその地位を奪われ、その景宗も天養元年(1144年)に起こった源義朝の大庭御厨濫行事件を契機に義朝への服属を余儀なくされた。_NEWLINE_治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、一族は源平双方に二分され、その結果、平家に味方した大庭景親・俣野景久は没落した。他方、平家に属した梶原・長尾氏も御家人として存続することを許されたが、組織としての鎌倉党は解消していった。_NEWLINE_ただし、『吾妻鏡』では、和田合戦に参加した梶原・大庭等の諸氏を「鎌倉党の人々」として記載している。
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系図
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(鎌倉氏の系図は諸説ある)_NEWLINE_ 村岡良文_NEWLINE_ ┃_NEWLINE_ 忠光_NEWLINE_ ┃_NEWLINE_ 貞通_NEWLINE_ ┃_NEWLINE_ 忠通_NEWLINE_ ┣━━━━━━┓_NEWLINE_ 鎌倉章名 三浦為通_NEWLINE_ ┣━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━┓_NEWLINE_ 景成 景村 景通 良名_NEWLINE_ ┃ ┃ ┃_NEWLINE_ ┃ 景明 梶原景久_NEWLINE_ ┃ ┣━━━━━━━━━━┓ ┃_NEWLINE_ ┃ 大庭景宗 長尾景弘 梶原景長_NEWLINE_ ┃ ┣━━━━━┓ ┣━━━━┓ ┃_NEWLINE_ ┃ 懐島景義 大庭景親 長尾為宗 長尾定景 梶原景時_NEWLINE_ 景政(景正)_NEWLINE_ ┣━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━┓_NEWLINE_ 大庭景継 景秀 景経 安積景門_NEWLINE_ ┃ ┃ ┃_NEWLINE_ ┃ 高政 古屋景縄_NEWLINE_ ┃ ┃_NEWLINE_ ┃ 香川家政_NEWLINE_ ┃ ┃_NEWLINE_ ┃ 香川経高_NEWLINE_ ┣━━━━━━┳━━━━━┓_NEWLINE_ 長江義景 板倉重時 長尾景行_NEWLINE_ ┃_NEWLINE_ 桑良景行_NEWLINE_※『尊卑分脈』では、高望王 - 良茂 - 良正 - 致成 - 景成 あるいは 高望王 - 良兼 - 公雅 - 致成 - 景成 としている。 | 3154848862773139928 |
Q11651014 |
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鎌状赤血球試験
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鎌状赤血球試験(かまじょうせっけっきゅうしけん)とは、鎌状赤血球ヘモグロビン (HbS) の検出試験の一つ。メタバイスルファイト試験、鎌状赤血球形成試験、異性重亜硫酸試験とも呼ばれる。異性重亜硫酸ナトリウムによって、HbSの脱酸素化が強調され、スライド上で鎌状赤血球が検出される。 | 12834945428439968382 |
Q151508 |
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長原駅 (大阪府)
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駅構造
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島式1面2線ホームの地下駅。改札口は1ヶ所のみ。出入り口は中央環状線西側に2ヶ所、東側にも2ヶ所ある。エレベーターは、地上へは中央環状線の真ん中へつながっており、エレベーターを使用するには、「長吉第3住宅西」もしくは「長吉第3住宅東」交差点を横断する必要がある。同交差点は近畿自動車道長原ICから中央環状線に合流する乗用車で混雑することが多く、死亡交通事故多発地点である。_NEWLINE_隣の八尾南駅の配線の関係上、平日のラッシュ時に八尾車庫からの送り出しを兼ねたこの駅始発の都島行き列車が設定されている(朝4本、夕方5本)。逆に当駅終着の列車はない。但し、この駅に非常渡り線がある関係上、長原の行先幕は用意されている。_NEWLINE_当駅は、平野管区駅に所属しており、八尾南駅の管轄となっている。
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駅周辺
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建設中の当地付近からは古墳時代の遺構が発掘され、長原古墳群と名付けられた。線路・駅施設は遺構を避けるように建設された。 | 1645836728383928601 |
Q16262292 |
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長恨夢
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『長恨夢』(ちょうごんむ、チャンハンモン、장한몽)は、日本統治時代の朝鮮において趙重桓が著した翻案小説。_NEWLINE_1913年に『毎日申報』に連載され、同年に革新團によって舞台公演が行われて絶賛された。この作品は日本の作家である尾崎紅葉の『金色夜叉』を原作に、趙重桓が朝鮮に舞台を移して翻案したものである。『金色夜叉』は、1898年に日本の新派によって上演され、新派ベスト10の第1位に入った作品であり、大韓帝国で公演された時も最高の人気を呼んだ。主人公の男女、李守一(イ・スイル、이수일)と沈順愛(シム・スネ、심순애)の名は、「대동강변 부벽루에 산보하는 ...(大同江の岸、浮碧樓の下を散歩する ...)」という歌詞で始まる主題歌とともに、今日でも多くの人々に広く知られている。『長恨夢』はこれまでに、近年のものも含め数十回も演劇として上演され、また、映画の脚本の原案となってきた。
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あらすじ
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李守一は、かつて両親と死別し、父の友人である沈沢の家に引き取られ、その家の娘、沈順愛とともに成長する。 そして(李守一にとっては養父母である)両親の意向で、二人は婚約する。_NEWLINE_ある日、ふたりは、ソウルの喫茶店「ゴール」へ、富豪の金(キム)一家に招待されて出かけ、そこで東京に留学中であるその家の息子、金重培と知り合うが、沈順愛は、金重培の宝石に誘惑される。沈順愛の両親も、李守一との婚約を破棄して金重培と結婚させる。失恋した李守一は家を出て、やがて金力への怨恨から高利貸しとなる。沈順愛の結婚生活も、李守一に対する罪悪感と愛情のために不幸になるが、李守一は冷淡に振る舞う。_NEWLINE_沈順愛は悩んだ末に、悲観から大同江に投身自殺を企てるが、偶然にも李守一の友人である白楽観(ペク・ナククァン、백낙관)によって救出される。 白楽観は李守一に(沈順愛との)再会を薦めるが、李守一は金銭にだけ没頭するのみで、受け入れない。そのような李守一も、神経衰弱で休養のため清涼岩に留まっていた際に、自殺しようとするある男女を救出してから心境が変わる。一方、沈順愛は実家に戻って李守一に対する恋慕の情が行き過ぎて狂気を発する。白楽観の仲裁により、李守一と沈順愛は結局互いに過去を悔いて再会を果たす。
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モデルについての噂
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『長恨夢』は新聞連載が完結する前から、舞台化されて評判を呼ぶなど、当時の朝鮮において大いに注目されたが、その中で、『長恨夢』ないし『金色夜叉』の主人公のモデルが巌谷小波であるという噂が出て、新聞にも報じられるほどになった。当時の巌谷は、京城日報の主催により朝鮮各地を巡回して童話口演を行っていた。 | 11114376903997851149 |
Q11653145 |
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長江裕明
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経歴
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青山学院大学文学部英米学科卒業。卒業後国家公務員として外務省に入省、4年半勤務した。_NEWLINE_退職後は自力でコンクリート製外洋ヨットを建造、娘の名をとり「エリカ号」と名づける。1981年(昭和56年)7月13日、世界一周へ向けて親子3人に愛知県常滑港を出港、世界25ヶ国、100数港に立ち寄り、約60,000kmの航海を経て1986年(昭和61年)4月13日に蒲郡港に帰港した。冒険の途中での交流が縁で、イギリス、アメリカの幾つかの市で名誉市民賞を受けている。チャーチル皇太子とも面識があり、プライベートで招かれたことがあるという。1987年(昭和62年)ベスト・ファーザー イエローリボン賞を受賞した。_NEWLINE_1989年(平成元年)から1992年(平成3年)には四輪駆動車にキャンピングトレーラーを牽引してアラスカを基点として、カナダ、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなどを周った。走行距離は200,000km以上という。_NEWLINE_帰国後、名古屋市に「キャプテンズダイナー/地球冒険塾事務局」を開設する。名古屋工業大学大学院非常勤講師、テレビ、ラジオ、雑誌などのカメラマンやレポーターを務めた。_NEWLINE_2000年(平成12年)に心臓弁膜症を発病、生体弁を移植することで復帰し2005年(平成17年)には新たなヨット(エリカ2号)ミクロネシアを航海した。その後、再びヨットでの冒険を計画していたものの2009年(平成21年)2月6日に拡張性心筋症のため死去。 | 5445736826474129181 |
Q11653340 |
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長渕剛のオールナイトニッポンフライデースペシャル・今夜もバリサン
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長渕剛のオールナイトニッポンフライデースペシャル・今夜もバリサンは、ニッポン放送ほかで、2003年4月から9月にかけて、金曜日の22:00 - 24:00の時間帯において放送していたラジオ番組の名前。いわゆる「オールナイトニッポンいいネ!」の金曜版扱いだった。 | 7120447173704449240 |
Q11654069 |
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長谷高成泰
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来歴・人物
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大阪府出身。野球留学で明徳義塾高に進学し、1年夏に甲子園出場。その後専大に進み、ここでも大学選手権に出場する。その時は主将も務めた。東都大学リーグ通算89試合出場、331打数81安打、打率.245、7本塁打、25打点。_NEWLINE_長打もあるが基本的にはスプレーヒッタータイプで、好調なときの打率は極めて高い数字を残した。専大卒業後の1991年にいすゞ自動車に入社。大学時代の好調を維持した長谷高は、自チームでの都市対抗出場を逃すが、その年(第62回大会)の東芝の補強選手に選ばれる。その後自チームでの同大会出場や他チームの補強選手として1998年の第69回大会まで8年連続本大会出場を果たす。この間、第64回大会(1993年)、第66回大会(1995年)ではチームの上位進出に貢献し、大会優秀選手に選出された(第66回大会は日本石油の補強として)。このうち、東芝での第62回大会、日本石油での第66回大会では優勝チームの一員に名を連ねた。_NEWLINE_その後2001年シーズンからはコーチ兼任となり、ベテランとして若手に指導する立場も兼ね備えるようになったが、2002年シーズンが始まって間もなく、衝撃的なニュースがチームを襲う。同シーズン終了をもってチーム休部の知らせであった。チームに動揺が走ったが、長谷高はコーチとして、年長選手として、休部するまでできることを精一杯やろうとチームを引っ張り、チームはその年の都市対抗野球大会神奈川予選、第2代表決定戦で日石三菱を延長15回の末サヨナラで破り、本戦出場を決めた。_NEWLINE_本戦ではチームは西郷泰之(三菱ふそう川崎)、須田喜照(東芝)、銭場一浩(東芝)らを補強に迎え、快進撃を続けた。長谷高は持ち味の広角打法が甦りヒットを量産。また守備でも再三にわたり好手を見せた。決勝戦(対ホンダ熊本戦)では相手のファウルフライをダイビングキャッチするなど、ベテラン選手とは思えぬハッスルプレーでチームを鼓舞した。そしてチームは優勝。社会人王国・神奈川から6チーム目のチャンピオンとなり、最初で最後の黒獅子旗を手にした。長谷高は高打率(14打数7安打、.500)で首位打者賞に輝くだけでなく、MVPに当たる橋戸賞を手にした。また、長谷高はこの年の社会人ベストナインを受賞している。_NEWLINE_2002年限りでチームは休部に入り、長谷高は引退。1年だけ社業に就いたが、母校・専大からの依頼に応え、2004年シーズンから専大の監督に就任した。また同時にGMも兼任した。昨今ではそれほど珍しくないGM制度だが、大学野球界では長谷高が初のGMとなった(なお、GMは2005年シーズン限りで辞任し、以降は監督に専念している)。_NEWLINE__NEWLINE_2004年春季シーズン、専大は2部で優勝したが、入替戦で駒大の前に屈する。その後同年秋季リーグでは東洋大の前に屈し、2005年シーズンは2部でも優勝できない苦しい時期を過ごしたが、2006年秋季シーズンで2部優勝、入替戦で日大に2勝し、チームを9季ぶりに1部昇格させた。2007年春季シーズンでは1部最下位に沈み、入替戦でも立正大の前に敗れ、1部はわずか1季のみであった。2008年末に監督を退任。2014年から同大学のコーチとして再任している。_NEWLINE_なお、元メジャーリーガーの長谷川滋利とは義兄弟の関係である(長谷高の妹が長谷川の夫人)。_NEWLINE_専大・いすゞの2年先輩にバスケットボール部監督の中原雄がおり、中原の監督就任も2004年だった。1年後輩にWリーグ・新潟アルビレックスBBラビッツヘッドコーチの小川忠晴がいる。 | 13624572414563495783 |
Q11654071 |
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長豊橋
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長豊橋(ながとよばし)は、国道408号の利根川に架かる橋である。_NEWLINE_歩行者が歩ける設計ではなく、また車道の路肩も極めて狭い。
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概要
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茨城県河内町田川と千葉県成田市竜台とを結ぶ橋として1968年(昭和43年)2月15日に開通した。全長509.6m、幅員7.0m。千葉県側827m、茨城県側284mの取り付け道路は両県が受け持ち、主要地方道路成田江戸崎線(現・国道408号)がそれにより貫通した。施工は汽車製造。_NEWLINE_かつてから、周辺住民達は利根川架橋の必要性を唱え、特に茨城県旧長竿村の村長を中心に運動を展開。茨城県側からは長竿村(現・河内町)、金江津村(現・河内町)、千葉県側からは、豊住村(現・成田市)、滑河町(現・成田市)が運動を展開し、架橋建設の気運が高まり、両県に跨ることから予算調整等の困難を乗り越え、建設へと漕ぎ着ける事になる。また、長豊橋の名前の由来は、長竿村の「長」と豊住村の「豊」に由来する。_NEWLINE_現在、成田とつくば方面とを結ぶ基幹道路となっているが、片側1車線通行であり、千葉県側の国道356号と交わる長豊橋交差点では、右折車による慢性的な交通渋滞が発生している。渋滞を打開するため、上流側の千葉県栄町に若草大橋有料道路が2006年(平成18年)4月18日に開通した。しかし、それでも朝夕の通勤時や休日などには交通渋滞が起こり抜本的な解決にはなっていなかったが、平成13年度から茨城県竜ヶ崎土木事務所により長豊橋の右折車線を増設する交差点改良工事が行われ、2007年(平成19年)7月に完成。渋滞が緩和されている。 | 9165747660330437699 |
Q11654617 |
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長野県道372号三才大豆島中御所線
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長野県道372号三才大豆島中御所線(ながのけんどう372ごう さんさいまめじまなかごしょせん)は、長野県長野市内を走る一般県道。
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概要
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長野市中部の東側を半円を描くように結ぶ路線で、一部が長野環状道路と重なる。_NEWLINE_三才駅付近で長野県道399号長野豊野線から分かれ、1.5車線の狭隘路で古里地区・朝陽地区の田園・住宅地の中を進む。_NEWLINE_北長池付近の交差点で右に折れ、長野オリンピックに伴い整備された2車線の直線道路を進む。この区間(長野市北長池 - 五輪大橋北交差点 - 大塚南交差点)は長野環状道路の一部を成す、東外環状線(長野東バイパス)にあたる。_NEWLINE_五輪大橋北交差点からは大塚南交差点方面に向けて長野東バイパスにあたる支線が分岐する。この支線は五輪大橋有料道路区間を除き4車線の広い道路となっているが、分岐後の本線は大豆島・松岡集落内の狭隘路を抜ける。_NEWLINE_上千田交差点より先は国道18号長野バイパスの旧道であり、4車線道路となってビッグハットや長野赤十字病院の前を通り、川中島方面からの国道18号旧道である国道117号と重なる荒木交差点で終点となる。 | 10352174890998436694 |
Q38348 |
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門 (分類学)
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位置
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門はリンネが『自然の体系』で用いた分類階級ではなく、19世紀以降に綱をさらにグループ化する階級として導入された。必要に応じて(界)・亜界・下界・上枝・枝・亜枝・下枝・上門・(門・亜門)・下門・上綱・(綱)などを適宜使う。_NEWLINE_後生動物では慣例的に、基本的な体制が共通しているタクソンが門とされ、約30の門に分類されている。たとえば、ヒトは脊索動物門に属する。後生動物の門の完全なリストは動物#動物の分類を参照。
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呼称
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従来、英語などでは門を、動物学ではphylumと呼び、植物学では国際植物命名規約(現在の国際藻類・菌類・植物命名規約)に基づきdivisionと呼んだ。東京規約(国際植物命名規約の1994年の版)から、植物学でもphylumと呼ぶことが認められたが、現在でもdivisionと呼ぶことが多い。_NEWLINE_phylumの語源はギリシア語のphylaiで、原義は古代ギリシアの都市国家において血縁に基づき決められた投票グループのことである。ヘッケルがGenerelle Morphologie der Organismen (1866) で導入した語であるが、概念としてはキュヴィエが用いたembranchement(「分岐」)と同義である。divisionの原義は「分ける」である。
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真核生物ドメイン
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真核生物ドメイン(Domain Eukarya)の門(phylum)一覧。 | 12684551982979911946 |
Q11655678 |
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関和典
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来歴・人物
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1967年、世界遺産・白神山地で有名な西目屋村にて出生。東奥義塾高等学校卒業後青山学院大学進学。同大学卒業後、1989年STT開発入社。ワンマン社長で知られる中沢勤社長の勧めで、福田赳夫元総理の女婿衆議院議員越智通雄(東京都世田谷区)秘書となる。1994年自らの志を期し、地元での政治修行のため木村守男門下生となり、衆議院議員木村守男公設秘書、知事転出後は子息、衆議院議員木村太郎地元秘書を経験し、1998年、西目屋村社会福祉協議会事務局長、1999年西目屋村議会議員および副議長を務め、一貫して「一隅を照らす人となれ」を信条に小さくともキラリと輝く村づくりの実践に努力する。_NEWLINE_2006年に「若さ、情熱、改革」を旗印に38歳で村長選へ立候補し当選。当時村としては、日本一若い村長となる。公約の「子供とお年寄りにやさしい村づくり」を実践し、福祉施設の充実や介護予防にも力を入れ、若者定住促進や18歳以下までの医療費無料化策などは評価が高い。特に麻生内閣での定額給付金支給で魅せた自治体としての政治パフォーマンスは今でも語り草となっている。任期満了に伴い、2期目(2010年)の挑戦では、村民が故郷に対する自信と誇りを持つことをテーマに「好きです!西目屋」を掲げ無投票で再選を果たす。政争の激しい村にも、和をもって対話する村づくりの思いが着実に根付き、俗にいう「津軽選挙」が残る政治風土を改革し、村民融和を提唱しながら村を一つにまとめていくことを信念としており、魅力ある地域づくりを目指している。_NEWLINE_2010年に支援者・友人の縁で日本のふるさとを愛し、日本人の心を歌い上げる「吉幾三」さんが西目屋村のふるさと親善大使に就任。「白神が故郷」という西目屋村応援歌を作って村のイメージアップに大きく貢献しながら今後の展開が望まれている。中でも北海道羅臼町と長崎県島原市との吉さんを介しての自治体交流が有名で、さまざまな分野での提携協力が期待される。吉さん本人からも西目屋村への移住の話があり本格的な親善大使としての活動が見込まれうれしい話題となっている。_NEWLINE_2012年に青森県町村会副会長に就任してからは、町村会の中に新たにエネルギー政策特別委員会を設置するなど、電力業界や町村会内部の調整に汗をかき活躍の場を拡げ、併せて、東北地方の治水・ダム関係の団体である東北ダム事業促進連絡協議会の幹事長として長年手腕を発揮しており、津軽ダム(津軽白神湖)建設にも発言力を増している。_NEWLINE_2013年には、60年前から村に続く政争の源流となった2人の元村長が同年に亡くなったことを受け、村主催で両元村長の「しのぶ会」(追悼会)を開催した。過去4回も激しい選挙を繰り広げた政敵同士の両遺族同席による追悼は、長年に亘る政争の残滓となっていた村内の蟠り解消に大きな役割を果たした。_NEWLINE_2014年1月の村長選も2期8年間の村政運営が評価され、連続無投票再選となり3期目をむかえた。2014年4月には全国初の保育料全額無料化をスタートさせ、手厚い子育て政策の拡充で「子育て日本一の村づくり」に邁進している。_NEWLINE_さらには同年、少子化対応の模範例として評価された2015年4月からの弘前市東目屋中学校との事実上の統合である西目屋中学校の教育事務委託の調印式を行い、周囲から不可能と言われた県内初の教育政策を見事に成功させた。弘前市を中心とした定住自立圏構想の推進論者としても、新しい時代へ向け、自治体のあり方をしっかりと見据えながら行動している。_NEWLINE_2016年に28年の歳月をかけ建設された津軽ダム(津軽白神湖)が完成。建設最盛期及び完成時の村長として大役を果たし、盛大な竣工式も執り行われた。(吉幾三さん直筆の定礎石と並び岩木川から上げた石に津軽白神湖の湖碑名を自ら刻んだ。)_NEWLINE_2017年東西中学校の統合による空き校舎に弘前の伝統技能工芸リーディングカンパニーであるブナコの招致に成功。ブナコ西目屋工場として内外から注目を集め村民雇用も含めた新しい産業経済対策に邁進している。また、矢澤一輝選手(リオオリンピックカヌー競技で活躍。2020年東京オリンピックでメダル獲得が期待)を村内に移住させ、オリンピアンが定住する村とし、地域振興策の新モデルとして期待されている。また、ダムツーリズムを推進する村として津軽白神湖に水陸両用バスを運行させ、インフラツーリズムが国土強靭化と合わせ大きく注目される中、ダムそのものを観光資源として活用することでも話題を集めている。2017年6月には青森県町村会長に就任し、同じく全国町村会副会長も任命される。_NEWLINE_2018年村の産直施設ビーチにしめやを道の駅津軽白神に昇格させ、弘前の洋風文化発信の先駆け成田専蔵コーヒー店を招致し白神焙煎コーヒーを全国へ向け展開予定。さらに、白神山地世界遺産25周年を記念しモンベル社との地域包括連携協定を結び新たな自然との共生モデルの象徴になるための歩みを進めていく予定。2018年1月には「融和と協調の実績」を掲げ3期連続の無投票で4期目の当選を果たした。_NEWLINE_連日のテレビ・新聞等で報道される先進的な政策の取り組みが「寒く貧しく政争の激しい村」のイメージを変えてしまったと言っていいほど、村民からの一致結束した支持につながっている。これからも「信頼と安心の政治」を実践しながら、「世界遺産と水源の里」を全国発信するため、青森県内で将来の有望株として期待されており、若い首長から中堅政治家になるための、管理運営能力と政治手腕に注目を集めている。 | 5865102440220440123 |
Q30926623 |
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関東三大イルミネーション
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関東三大イルミネーション(かんとうさんだいいるみねーしょん)とは一般社団法人夜景観光コンベンション・ビューローが「夜景サミット2012 in 長崎」において認定した関東地方の冬期の3つのイルミネーションを指す。
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選定方法
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施設内のLED照明が効果的に活用されていること、照明演出にエンターテインメント性とオリジナリティがあること、レストラン、売店、土産物などが充実していることといった7つの条件を満たしていると認定されたイルミネーションに認定書が授与されている。 | 13426627037356235557 |
Q11655876 |
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関東上流江戸桜
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概要
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この大学群は『螢雪時代』の編集長である代田恭之が作成したとされており、当時は桜美林大学が“大東亜拓桜帝国”として含まれるなど一部で異なるところがあった。_NEWLINE_現在では、大東亜帝国の大学群より偏差値が下位にある大学群として認識されているともいうが、「ほとんど使われない」とする見方もある。_NEWLINE_近畿大学が2017年に出した「早慶近」と題された新聞広告では、大学群のくくりについて述べるコピーの中で「ちょいと粋なところで "関東上流江戸桜" なのてのもあります。」という言及がなされた。 | 868740872840633638 |
Q11656027 |
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関東鉄道江戸崎車庫
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関東鉄道江戸崎車庫(かんとうてつどうえどさきしゃこ)は、茨城県稲敷市高田に所在する、関東鉄道のバス車庫である。_NEWLINE_江戸崎営業所が格下げされたもので、車庫略記はEDosakiのED。正式名称は関東鉄道竜ヶ崎営業所江戸崎車庫。
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現行路線
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稲敷市江戸崎地区と龍ケ崎市を結ぶ路線を運行するほか、運用の間合いで一部の竜ヶ崎ニュータウン線も担当する。
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車両
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一般路線車は、江戸崎営業所時代には10両程度在籍していたが、江戸崎車庫への格下げに伴い、多数の車両が竜ヶ崎営業所へ転出した。2016年(平成28年)現在は、ツーステップの中型車が数両在籍し、ノンステップ、ワンステップ車両は導入されていない。_NEWLINE_高速路線車は、減便の影響で一部の車両が水戸営業所へ転出したため、2010年(平成22年)2月現在、いすゞスーパークルーザー1両と三菱ふそうエアロバス2両の計3両が在籍する。_NEWLINE_特定車は、聖徳学園や東洋大学附属牛久高等学校等のスクールバスを担当しているため、5両程度在籍する。また、竜ヶ崎営業所所属の特定車も当車庫に常駐されている。 | 18212572370452488235 |
Q21700166 |
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関真由美
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来歴
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学習院大学文学部卒業後の2008年4月に、アナウンサーとして山口朝日放送に入社(同期は八木ひとみ、現キャスト・プラス所属)。_NEWLINE_2013年3月で山口朝日放送を退社し、関西地方を拠点にフリーアナウンサーとしての活動を開始。同年9月より松竹芸能に所属。_NEWLINE_2014年に結婚し、2017年4月より産休に入る。2017年5月1日、長男出産。2017年5月31日、松竹芸能退社。 | 12885875256927889791 |
Q11656436 |
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関越自動車道高速バス居眠り運転事故
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事故概要
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事故に遭ったツアーバスは、大阪府豊中市の旅行会社「株式会社ハーヴェストホールディングス」が主催する都市間ツアーバス「ハーヴェストライナー」で、千葉県印西市の貸切バス会社「有限会社陸援隊」 が運行していた。このツアーバスの金沢・富山 - 関東間の片道「旅行代金」は3,000円台で、同区間の高速路線バスの運賃の半分以下と格安であった。_NEWLINE_当該便は2012年(平成24年)4月28日22時過ぎにJR金沢駅前を出発し、途中、富山県高岡市で乗客を乗せた。この時点でバスには新宿駅あるいは東京駅までの38人、東京ディズニーランドまでの7人、計45人の乗客と運転手1人のあわせて46人が乗っていた。そして翌4月29日4時40分頃、群馬県藤岡市岡之郷の関越自動車道上り線藤岡ジャンクション付近で防音壁に衝突。バスは大破して、7人が死亡、2人が重体、12人が重傷、25人が軽傷を負うなど、乗員乗客46人全員が死傷する事故となった。_NEWLINE_本件事故現場は片側3車線の緩やかな左カーブで、バスは道路左側のガードレールに接触し、そのまま高さ約3m、厚さ12cmの金属製の防音壁 端面に車体正面から衝突した。全長12メートルのバスに防音壁が、あたかも突き刺さったかのような形で約10.5メートルめりこんだ。防音壁と直前区間にあるガードレールには10cmの隙間があり、このことが被害が拡大化した可能性があると指摘されている。犠牲者の7人は全て進行方向に向かって左側の席に座っていた乗客で、うち6人は前から5列目までの乗客であり、軽傷者のほとんどは右側の乗客だった。犠牲者の死因は大半が圧死でリクライニングシートを傾けて寝ていたと見られている。現場にブレーキ痕やスリップ痕は見つかっておらず、運転手は群馬県警に「居眠りしていた」と説明した。バスの速度計は92km/hを示した状態で止まっており、90 – 100 km/h程度で衝突したと推定される。_NEWLINE_事故発生後、4時51分に高崎市等広域消防局が事故発生を覚知した。これにより午前5時に、関越自動車道上りの高崎ICから本庄児玉ICの間と、北関東自動車道西行きの前橋南ICから高崎JCTの間が通行止めとなった。現場に到着した高崎市等消防局の高度救助隊や救急隊により救助活動・救急活動を実施し多野藤岡広域市町村圏振興整備組合消防本部の救助隊・救急隊も出場したほか前橋市消防本部、渋川広域消防本部、利根沼田広域消防本部、伊勢崎市消防本部の救急部隊にも増強要請が入る。5時10分に災害派遣医療チーム「群馬DMAT」や災害拠点病院である前橋赤十字病院に第一報が入った。群馬県医務課と消防の間にホットラインがなかったことから死傷者が多数出ていることが確認されたのが5時40分、初動救護班が到達した7時15分にはトリアージが終わり、重傷者はすでに搬送された後であった。この通行止めが解除されたのは正午頃である。
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運転手
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運転手の男性(事故当時43歳)は、1993年(平成5年)に来日した中国残留孤児の子弟で、翌年に日本国籍を取得したが、日本語が不自由であり、簡単な会話しか理解できないため、逮捕後も通訳を必要としたほどだった。_NEWLINE_大型二種免許は、2009年(平成21年)7月に取得、バス運転手としての経歴は約2年であった。陸援隊には人手不足の時に単発で短期雇用され、主に中国人を相手にした 短距離便の乗務がメインで、金沢便の乗務は初めてであった。_NEWLINE_4月28日8時に、石川県白山市のホテルにチェックイン。16時半頃にホテルをチェックアウトし、22時10分に金沢駅を出発した。出発後、頻繁に急ブレーキをかけたり、カーナビゲーションの画面をよく見ていた。また、事故直前の休憩中、ハンドルにうつぶせで休んでいたという乗客の証言もある。関越自動車道経由の運行ルートについては、「走りやすいから関越道を通った」としている。_NEWLINE_ハーヴェストホールディングスの運行指示書には上越ジャンクションから上信越自動車道を通るルート(更埴ジャンクション経由)が記載されていたが、約35キロ遠回りの関越自動車道のルート(長岡ジャンクション経由)を通行したことが分かっている。_NEWLINE_群馬県警察本部は、入院中の運転手の負傷回復を待ち、運転手に対して自動車運転過失致死傷容疑で5月1日に逮捕状を執行、退院後に逮捕した。22日に起訴された。_NEWLINE_また、この運転手は、自身が所有するバス4台の営業用ナンバープレートを陸援隊名義で取得し、独自の屋号で無許可営業し、中国人観光客向けバスツアーを主催してバスを運行していたことが発覚した。このため運転手は道路運送法違反(無許可営業、いわゆる「白バス」)で5月28日に再逮捕され、7月18日付けで国土交通省関東運輸局から道路運送法第81条第1項による自家用自動車の使用禁止処分が下された。_NEWLINE_2014年3月25日に前橋地裁は運転手に対し、自動車運転過失致死、道路運送法違反、電磁的公正証書原本不実記録供用の罪で懲役9年6ヶ月及び罰金200万円の有罪判決を言い渡した。
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バスの運行会社
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バスを運行した陸援隊は、事業用バスを19台保有し、外国人観光客を中心に観光バス業務を営業していた。しかし、2011年(平成23年)3月に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)と福島第一原子力発電所事故以降、外国人観光客が激減したため、夜行のツアーバス事業へ本格参入した。登記簿の記載によれば、同社は資本金1500万円で、1997年4月3日に有限会社針生エキスプレスとして設立され、2000年2月9日付で現商号に変更している。今回の事故では、ハーヴェストホールディングスと陸援隊の間に2業者が介在し、赤字にもなりかねない往復15万円で受注していた。社長は、事故を起こした運転手について、「休みを与えており、過労運転ではなかった」との認識を示した。_NEWLINE_事故を起こしたバスは、ゴールデンウィーク中の増発便であり、その影響で通常は発注していない陸援隊により運行されたものだった。_NEWLINE_また、先述のように陸援隊は事故を起こした運転手に名義を貸し、無許可営業をさせていたことが発覚したため、同社の男性社長(当時55歳)も運転手とともに5月28日に道路運送法違反(名義貸し)により逮捕された(同年6月22日に保釈)。_NEWLINE_同年12月10日、道路運送法違反に問われた裁判の判決が前橋地裁であった。社長への求刑は懲役4年、罰金200万円に対して懲役2年、執行猶予5年、罰金160万円。会社への求刑は罰金200万円に対し罰金160万円であった。_NEWLINE_事故から1ヵ月後の5月27日に金沢市内のホテルで被害者説明会を行った。説明会中はハーヴェストホールディングスの社長達が土下座したが、被害者の家族や一部の乗客から「謝って済むか!」「土下座ぐらいできるだろ!」などの激しい怒号が飛び交った。終了後も被害者からは「まったく納得できない。許せない。」など、会社側の説明に納得せず不満を露呈していた。_NEWLINE_事故後に国土交通省関東運輸局が陸援隊に対して実施した特別監査では、法令で禁じられている運転手の日雇い、出発前の運転手の健康チェック等の「点呼」を行っていなかったこと、シートベルトの整備不良、運行指示書を作成せずにバスを運行したことなど28項目の法令違反が発覚し、違反点数は242点に達した。事業許可取り消しとなる基準点の81点を3倍上回ったため、陸援隊は6月22日に貸切バス事業許可を取り消され、その後陸援隊は法的倒産手続きこそされていないものの事実上倒産した。尚、関連会社であった株式会社千葉北エンタープライズは事故後県内に本社を移転し存続している。
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ツアーバスを取り巻く状況
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都市間ツアーバスの利用者は、2005年(平成17年)には約21万人だったが、国の規制緩和により新規参入事業者が増え、2010年(平成22年)には約600万人が利用している。その反面、過当競争となり、「立場の強い旅行会社がコスト削減を強要し、安全対策がおろそかになっている」との指摘が、バス関係者から上がっていた。総務省でも、2010年に国土交通省に指導を徹底するよう勧告がなされていた。
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車両の見直し
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事故を受けて、2012年7月に椅子の背面を衝撃吸収出来る構造にすることを義務化され、これを受けて、日野・セレガ(2代目)と日野・メルファは2012年5月10日に、いすゞ・ガーラ(2代目)、いすゞ・ガーラミオ(2代目)、三菱ふそう・エアロクィーン/エアロエース(3代目)、三菱ふそう・エアロエース ショートタイプMMは同年7月2日にそれぞれマイナーチェンジで対応した。さらに「車線逸脱警報装置」など採用を検討した結果、2012年10月30日に国土交通省は「自動ブレーキ」の義務化を提案し、2013年1月27日に法改正され、新型車は2014年11月1日から、継続生産車は2017年9月1日から義務化され、現在に至る。義務化されたのは、新車でかつ高速道路を走る車両に限定し、路線バスなどは対象外。現在発売されている大型観光・高速バス車両は法改正以前に対応済みとなっており、日野・セレガ(2代目、ハイデッカショート含む)は2010年7月13日に、いすゞ・ガーラ(2代目、HD-9含む)は同年8月5日に、三菱ふそう・エアロクィーン/エアロエース(3代目、12m車のみ)は法改正直前の2013年1月15日にそれぞれマイナーチェンジで対応している。なお、2010年8月に生産が終了した日産ディーゼル・スペースアロー/スペースウィングは改修で対応する。
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群馬県の対応
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本事故発生を受けての群馬県庁側から救命医療チーム(群馬DMAT)への通報及び出動要請が2時間遅れとなったことに際し、大澤正明群馬県知事が「事故対応は一刻を争うもので、簡素に連携する態勢が取られないと意味が無い」として、大規模事故における連携体制の整備を今後の検討課題とすることを表明している。_NEWLINE_その後、群馬県側が緊急時の連絡体制などについて調査を行ったところ、群馬県救急医療情報共有システムから発信され、危機管理室に迅速に伝わっているべき情報が全く通じていなかったことも判明、また、救急医療情報共有システムそのものに県の危機管理室と消防保安課の責任職員の登録すらされていなかったことも発覚した。その為、群馬県では、関越道バス事故対応に関して、後日検証を行う方針を明らかにしている。
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バス業界の対応
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高速バスを運行している39社が参加する「高速ツアーバス連絡協議会」は、今回の事故を受け5月16日に自主的な安全規制をまとめた。具体的な内容として、運行距離が夜間450km以上の場合、予備の運転手を手配する(2人乗務)、ツアー販売時に走行距離や乗務人数の情報の提供。車両を自社所有する「高速乗り合いバス」への早期移行が盛り込まれた。_NEWLINE_バス営業を行う2,217社が加盟する「公益社団法人日本バス協会」は、5月17日に理事会において安全輸送緊急決議を全会一致で決議した。同決議では事故の背景となった高速ツアーバスの仕組みの廃止及び貸切バス事業の抜本的な適正化に向けて更なる努力を重ねる必要を前提としつつ、経営トップから現場まで一丸となった運輸安全マネジメント、運転者への指導監督・健康管理、確実な整備・点検の励行等が盛りこまれている。 | 9360582656296171828 |
Q11656884 |
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阪神501形電車
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阪神501形電車(はんしん501がたでんしゃ)は、かつて阪神電気鉄道が保有していた路面電車車両で、北大阪線開業に際して製造された、同社が所有した旅客車では唯一の四輪単車であった。
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概要
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阪神初の支線として1914年8月に野田 - 天神橋筋六丁目間で開業した北大阪線用の路面電車車両として、1913年暮れから1914年にかけて木造4輪単車の501形が18両製造された。製造は名古屋の築港車輌で、当初は24両の予定であったが、計画変更で製造両数が20両となり、そこからさらに縮小されて18両の製造となった。
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車体
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路面電車タイプの両運転台車で、車体は木製、全長約7.9m、屋根はモニタ屋根、客室とデッキの間には扉があるが、乗降口には扉がない。前面も当初はベスチビュール(前面窓)なしで計画されていたが、製造時には上半部に窓ガラスを取り付けられ、右窓内に方向幕を装備した。しかし、ポール操作の関係上3枚窓の中央は欠きとられており、窓の下半部は手ブレーキ操作のため四角の穴が開けられていた。
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主要機器
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台車及び電装品は、台車はブリル21-Eを履き、モーターは出力18.7kWのGE-54Aを2個搭載し、制御器は直接制御のGE製のB-18を装備し、ブレーキは電気ブレーキと手ブレーキを使用した。集電装置は、1形同様のダブルポールであったほか、全線併用軌道を走行する関係で前面に救助網を装備した。
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車両不足時の余剰車
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501形は、1914年8月19日の北大阪線開通に際して、野田駅構内に新設された野田車庫に18両が配属されて予定通り北大阪線運用に充当された。しかし、1916年に8両が廃車となり、他社へ譲渡された。1921年には本線で余剰となった51形が北大阪線に転属して501形と共通使用されるようになった。_NEWLINE_1916年9月14日付けで511~518の8両が廃車されたが、阪神の社史にも当初から10両製造とされており、8両に関する資料は残っていない。しかし、そのうちの1両が王子電気軌道に譲渡されて同社の7号になったという話が残っているほか、1926年設計認可で福博電車に1両が譲渡されて同社の169号になったという記録が残っている。_NEWLINE_この時期の阪神本線は乗客数が急上昇していたが、車両の増備も第一次世界大戦の影響で台車や電装品などの輸入が困難であり、501形は低速の四輪単車で本線の高速走行に全く不向きなことから、車両不足にもかかわらず501形を廃車せざるを得なかった。
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改良、そして置換
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1920年には、吹きさらしであった前面窓中央にも窓を取り付けたほか、窓下部の開口部にカバーを取り付けた。ただし、中央部分はポール操作のために開口部となっており、その左右に取り付けられたカバーはブレーキハンドル操作のために大きく張り出しており、高運転台風の前面窓と併せて一種異様な前面を形作ることとなった。その後、時期は不明であるが制御装置をGE-18Aに換装したほか、1929年には大阪駅貨客分離に伴う梅田貨物線開業のために立体交差を余儀なくされることから、鉄道省からの補助金でSM-3空気ブレーキを追設、同時にDH-10コンプレッサーを搭載した。_NEWLINE_こうして、改良を重ねながら北大阪線で使用されてきた501形であるが、時代が大正から昭和に変わるとともに沿線の開発も進み、四輪単車の501形では輸送力が不足するようになった。同じ1929年の31形の新造に伴い、第一線を退いて予備車となったが、再起することなく1933年3月全車廃車された。廃車翌年の1934年には6両が阪堺電気鉄道に譲渡され、同社の51形51~56となった。この他、502と510の2両が前面窓の撤去や抵抗器の増設などの改造を施されて、車庫内における入替車となった。 | 911876750321734571 |
Q57887761 |
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阿倍忠政
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生涯
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三河大久保氏の出身で、若いころより武芸を好み、特に弓術に定評があった。天文14年(1545年)清畷の合戦で初陣して織田信秀軍の侍大将を、翌年の渡の合戦では織田軍の先鋒を射殺する武功を立てた。天文16年(1547年)梅ヶ坪の合戦では敵数名を射倒して味方を撤退を援護し、敵からも称賛を受けた。同年、上野の合戦で阿部定次の嫡子次重が戦死すると、その婿として阿倍氏の養嗣子となった。_NEWLINE_天文17年(1548年)鴫原の退却戦、西野の合戦、山中城攻撃でも武功を立て、天文18年(1549年)でも第三次安城合戦を始め、梅ヶ坪、八草、鴫原などで活躍した。弘治元年(1555年)今川軍の蟹江城攻撃に従い、杉浦吉貞・杉浦勝吉・大久保忠勝・大久保忠員・大久保忠世・大久保忠佐とともに先鋒として勇戦し、後世に蟹江七本槍と賞された。弘治2年(1556年)福谷砦防衛線では敵将柴田勝家を射て撤退させる。永禄元年(1558年)石ヶ瀬の合戦で水野信元軍と戦い、永禄3年(1560年)十八町畷での再戦でも従軍した。永禄4年(1561年)東条城攻撃、永禄6年(1563年)三河一向一揆平定では大久保氏一党とともに上和田砦に入り、渡辺守綱に負傷させるなどの戦功があったが、自身も渡辺仲綱によって矢傷を負う。以降も三河平定に転戦し、永禄8年(1565年)酒井忠尚の上野城攻撃に従軍。また九鬼澄隆の援軍に遣わされ、志摩での戦いで活躍した。元亀元年(1570年)姉川の戦いでは敵兵2騎を射殺。元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いでは敵兵3人を射殺。天正3年(1575年)長篠の戦いでは酒井忠次隊に属して鳶ヶ巣山攻撃に参加。以後も駿河・遠江・信濃での戦いに転戦する。後年、大久保忠世とともに二俣城将に任じられるが、これを辞して嫡子忠宣共に伊勢へと去った。_NEWLINE_のち三河上和田に住み、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは家康より岡崎城守備を要請される。忠政は既に隠居のみであることを理由にこれを断ったが容れられず、その支度をしている最中に長久手で徳川軍が大勝したために結局岡崎に入る事はなかった。後年は大久保忠隣の世話になり、慶長5年(1600年)第二次上田合戦にも従軍するが、道中で病気になったために合戦には参加しなかった。慶長7年(1602年)徳川秀忠の要請でその軍法を語り聞かせている。 | 14859038460714848820 |
Q11657918 |
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阿部美哉
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阿部 美哉(あべ よしや、1937年 - 2003年12月1日)は、日本の宗教学者。元國學院大學学長。比較文化、宗教論専攻。大学論に関する業績もある。
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来歴
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大阪府出身。都立日比谷高校を経て、1959年に東京外国語大学卒業、東京大学文学部に学士入学、1961年同卒業。東京大学大学院人文社会系研究科宗教学専攻修士課程を修了後、1964年からフルブライト奨学生としてクレアモント大学大学院に留学し、博士課程を修了(Doctor of Philosophy)。1968年からウィスコンシン大学オークレア校助教授。日本学術振興会・文化庁・文部省放送教育開発センター教授・放送大学教授・愛知学院大学教授を経て、1994年から國學院大學文学部教授、1999年より國學院大學学長。2003年、肺炎のため66歳で逝去。_NEWLINE_IDE理事、大学評価・学位授与機構運営委員、日本高等教育学会理事等を歴任した。 | 14476331016114377023 |
Q20041432 |
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陳明裕
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経歴
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1959年2月25日大阪府にて生まれる。1984年昭和大学歯学部を卒業、その後大阪大学歯学部附属病院矯正歯科勤務を経て、1988年神戸大学大学院医学研究科に入学、1992年に修了。以後神戸大学医学部附属病院口腔外科医員、三菱重工業高砂製作所診療所医長を経て1994年に開業。2002年よりニューヨーク州立大学バッファロー校歯学部矯正科客員教授として、矯正科大学院生の最初の実習・講義を担当している。_NEWLINE_2005年吉本総合芸能学院大阪校28期生として入学。以後、パンヂー陳の芸名でお笑い芸人としても活動。 | 6242841198496965469 |
Q17063449 |
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陳須無
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陳 須無(ちん しゅぶ、生没年不詳)は、春秋時代の斉の大夫で、田氏の宗主。姓は媯、氏は陳、あるいは田、諱は須無、諡は文。陳文子あるいは田文子とも呼称される。_NEWLINE_陳湣の子として生まれ、斉の荘公に仕えた。紀元前551年、晋の大夫の欒盈が乱を起こして斉に亡命してくると、斉の荘公は欒盈を厚く遇した。晏嬰と陳須無はこのことを諫めたが、荘公は聞き入れなかった。_NEWLINE_紀元前550年、斉の荘公が衛を攻撃し、次いで晋を攻めようとした。晏嬰や崔杼は荘公を諫めたが、崔杼に暴言があり、陳須無は崔杼の死を予見した。_NEWLINE_紀元前548年、崔杼が棠姜を妻に迎えようとしたため、陳須無はこれに反対したが、崔杼は聞き入れなかった。荘公が棠姜と密通し、崔杼は激怒して、荘公を殺害した。_NEWLINE_紀元前546年、宋の向戌の呼びかけで諸侯間の戦争を停止する名目の会合が宋で開かれると、陳須無はこれに参加した。_NEWLINE_紀元前545年、陳須無は子雅・子尾・鮑国らとともに慶舎を討ち、慶封を追放した。_NEWLINE_子に陳無宇があった。 | 8657692275831503529 |
Q11658442 |
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陶山務
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陶山 務(すやま つとむ、1895年11月28日 - 1974年9月28日)は、日本の哲学研究者、東北学院大学名誉教授。 広島県生まれ。青山学院高等部卒。評論、翻訳で活動、1950年ころ東北学院大学教授、1966年、定年退職、名誉教授。 | 12394174688064800158 |
Q11658764 |
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陽動振り飛車
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概要
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相居飛車模様から、振り飛車に転ずることは相手の意表を突く意味が強いが、理論上にも有利な側面がある。相手が相居飛車であると想定した場合、相居飛車に適した囲いである矢倉囲いを志向するのが一般的である。しかし、矢倉は横からの攻めにはあまり強くなく、振り飛車に対してはあまり適さない。よって、相手が矢倉に囲ってくることを見届けてから、飛車を振るのは理に適った指し方といえる。_NEWLINE_しかし、あまりに早く飛車を振ると、相手にも自然に対振り飛車に適した備えを許すことになる。よって、飛車を振るのを極力後回しにし、相居飛車の含みを持たせ続けるのも肝要で、結局は右玉に合流することも多い。有力ながらも、飛車を振るタイミングや、相手の手を待つ手待ちの仕方も難しい為、現在ではあまり指されていない。_NEWLINE_しかし、佐藤康光が相居飛車の一手損角換わり模様から先手を持って向かい飛車に転ずる作戦を用いている。
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相矢倉模様からの陽動振り飛車
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5手目▲6六歩に対してのみ用いることが出来る。△6四歩から右四間飛車を見せ、先手に右四間に備えさせる(その布陣は右四間飛車を参照)。右四間対策の陣形は対振り飛車には適さないので、そこを突くのである(5手目▲7七銀には右四間飛車が通用せず、よって先手に右四間対策の陣形も強要出来ない)。また、対▲7七銀ではいつでも▲6八銀と急戦に用いられる筋が残る。 | 7269313207968366925 |
Q11658931 |
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階上町コミュニティバス
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階上町コミュニティバス(はしかみちょうコミュニティバス)は、青森県三戸郡階上町内を運行するコミュニティバス。 | 12666886076698460431 |
Q11658986 |
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障害者基本法
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障害者基本計画
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この法律の第9条の規定に基づき、政府、都道府県、市町村において障害者の状況を踏まえ基本的な計画(障害者基本計画)を策定しなければならない。 | 4402665992818759935 |
Q1197338 |
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隰県
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歴史
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前漢により設置された蒲子県を前身とする。南北朝時代になると北魏により廃止されたが、北周により長寿県として設置された。隋朝が成立すると開皇年間に隰川県と改称され隰州の州治とされた。1369年(洪武2年)、明朝は隰川県を廃止し、管轄区域を隰州直轄とした。1912年(民国元年)の州制廃止に伴い隰県と改称された。」_NEWLINE_1958年に大寧県と統合され隰寧県(同年呂梁県と改称)とされたが、1961年に分轄、隰県が再設置され現在に至る。 | 790359883858019250 |
Q17191841 |
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雨のなかの噴水
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発表経過
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1963年(昭和38年)、雑誌『新潮』8月号に掲載され、同年の週刊誌『女性自身』11月11日号に再掲載された。同年12月10日に講談社より刊行の『剣』に収録された。文庫版は1970年(昭和45年)7月15日に新潮文庫より刊行の『真夏の死――自選短編集』に収録された。_NEWLINE_翻訳版はジョン・ベスター訳(英題:Fountains in the Rain)でなされている。
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あらすじ
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少年(明男)は雨のなか、いつまでも泣きやまない少女を連れて歩くのに疲れていた。ついさっき明男は丸ビルの喫茶店で、この少女と別れ話をすませていた。それは明男にとって人生で最初の別れ話だった。「別れよう」という言葉が言いたくて、明男はこの少女を口説き、一緒に寝て…、十分の資格を以てから、王様のお布令のように、この一言を言ったのだ。_NEWLINE_でも、いざ言う時に何だか咽喉に痰がからまったみたいに不明瞭に言ってしまったが、少女(雅子)の反応から彼女はちゃんと聴きとったようで、雅子は大きすぎる目をいっそう見開き、そこから一せいに涙が噴出した。声も立てずに無表情に涙が噴き出した。雅子の涙が豊富で永く続くことに驚き、疲れた明男が勘定を済ませて店を出ていくと、雅子は黙ってついて来た。傘を持たない雅子を、明男は自分の傘に入れてやる他はなかった。_NEWLINE_6月の雨の中、明男はどこでこの泣き袋を放り出そうかと考えながら、公園の噴水(和田倉噴水公園)に向って歩き、噴水と雅子の涙と対抗させてやろうと冗談っぽく思った。公園に入り、葦簀をかけた屋根のベンチに傘をさしたまま腰を下ろしたが、雅子は噴水の方を見ようともせずに黙って泣きつづけていた。_NEWLINE_少年はいいしれぬ怒りにかられ、自分を取り巻く雨や涙、壁みたいな雨空に、「絶対の不如意」を感じ、それは幾重にも彼を押えつけ、彼の自由を濡れ雑巾のようにしてしまった。怒った少年は急に立ち上がると、3つの噴水が真横から眺められる位置まで駆けて行き、追ってきた少女に、「いくら泣いたって、こいつには敵わないから」と噴水を見させた。_NEWLINE_大噴柱のなかには、たえず下方から上方へ馳せ昇ってゆく透明な運動の霊が見え、その凄い速度の上昇は、結局天の高みで挫折するのだが、その絶え間ない挫折を支えている力の持続はすばらしく、少女に見せるつもりで連れてきた噴水に、明男の方がすっかり見入っていた。やがて彼の目線は、雨を降らせてくる高い空へ向った。_NEWLINE_瞼にかかる雨は、遠いビルの屋上にかかる雨と同質で、明男のまだ髭の薄いつややかな顔も、汚れたコンクリートの床も、同じ雨にさらされている「無抵抗な表面」にすぎず、雨に関するかぎり同等だった。明男はそう思うと、雨のなかの噴水が何だかつまらない無駄事を繰り返しのように見え、急速に心が空っぽになっていった。_NEWLINE_ぼんやりと歩き出す明男の後を、「どこへ行くの」と雅子がまだついて来た。明男は少女を追い払うため、さっき「別れよう」と言ったことを念押すが、少女は、その言葉を聞こえなかったと普通の声で答えた。少年は衝撃で倒れそうになり吃って、「じゃあ、なんで泣いたんだ」と聞き返すと、少女は、「何となく涙が出ちゃったの。理由なんてないわ」と言った。少年は怒って何か叫ぼうとしたが、大きな嚔になって、「このままでは風邪を引いてしまう」と思った。
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作品背景・主題
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『雨のなかの噴水』は、話の腹案が出来てから、皇居前広場の噴水のスケッチを採りに行った作品で、ごくふつうの少年少女の一挿話を描いているとして、作者の三島由紀夫は次のように述べている。_NEWLINE_私にはかういふ可愛らしく見えるコントに対する好みがあり、その可愛らしさには残酷さと俗悪さと詩がまじつてゐる必要があり、そしていつもこの種のものの私の理想は、リラダンのあの意地悪な『ヴィルジニーとポオル』なのだ。_NEWLINE_ — 三島由紀夫「解説」(『真夏の死―自選短編集』)
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作品評価・研究
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『雨のなかの噴水』は三島の作品の中では目立たないものではあるが、完成度の高い洒落た短編(コント)として多くのアンソロジーに採用されている作品である。_NEWLINE_佐渡谷重信は、巧みに描かれた少年の「一人よがりな心理的側面」や、少女の涙と噴水の対比、雨の中の風景が相まって「ロマンチックな味」が醸し出されていると評し、「最後に雅子の涙が英雄的別れ話と無関係であったというオチによって人生というものはこうしたコミュニケーションの欠落によって支えられていることを教えている」と解説している。_NEWLINE_佐藤秀明は、噴水が「皇太子ご成婚記念噴水塔」であることから、男女の別れ話と噴水の意味との皮肉の効果について言及している。また、明男の別れの言葉が聞えなかった雅子の態度を「意図的」なものとして捉え、彼女の可愛らしさに「したたかな奥行き」を看取し、「光彩している陸離たる人生を夢見た明男だったが、人は不如意を知ることで大人になるという主題がここにはある」と解説している。_NEWLINE_川村湊は『雨のなかの噴水』について、三島の『潮騒』のような「典型的な青春小説」や、『春の雪』のような古典的な恋愛小説の長編とは、また違った趣の、「しゃれた都会的なコントやスケッチのような青春や恋愛」を扱った短編の一つだとしている。そして、安岡章太郎の『ガラスの靴』や『ジングルベル』と同じように、「繊細で、脆いガラスの器のような青春の日々の一齣が映されている」作品だと評している。_NEWLINE_川本三郎は、現代作家の描く男の子や少年像は従来のものよりも、「複雑で屈折」し、子どもながらすでに「大人の社会の悲しみ」を知って、「心のなかに闇を抱えこんで」いるとし、その理由は、現代社会における子どもの生活環境が厳しくなったことや、子ども(少年)が「保護すべき対象」だというイメージが作家自身からなくなり多様化しているからだと前置きしつつ、子ども時代は、それがたとえ苦い思い出だったにせよ、「安定した距離」を持ちながら懐かしく、その時代が大人と連続性がありながらもその一方で、「子どもと大人は連続性を断ち切られている」という見方や、少年を他者、未知なるものとして捉える見方もあると論考し、『雨のなかの噴水』も、「〈子ども=未知なるもの〉というイメージの濃い作品」だと評している。_NEWLINE_そして川本は、作家にとって子ども(少年)は、「未熟的、未成形」ゆえに興味深く、また、「多様に変幻し、浮遊し、大人の常識の意表を突く」からこそ想像力を掻き立てられる存在だとし、『雨のなかの噴水』は、「そういう子どもに刺激された大人の想像の戯れから生まれた作品」だと解説しながら、三島が、冷静に子ども(少年)を「実験動物を眺めるように」観察し、「不可解な他者」として見つめ、そこでは「大人と子どもの連続性」は明確に断ち切られ、「大人は誰でもかつて子どもだった」ゆえに「大人は子どもの喜びや悲しみ」が理解出来るという「安易な連続性」が否定されていると考察している。_NEWLINE_『雨のなかの噴水』の中には、高みをめざす噴水の力の動きを詳細に描写している以下のような一節があるが、松本徹はその一節を、「三島の重要なモチーフ」とし、「噴水に喩えて、絶えざる挫折を描いている」としている。_NEWLINE_一見、大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまひを正して、静止してゐるかのやうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ昇つてゆく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で 順々に充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を支へてゐる力の持続は、すばらしい。_NEWLINE_ — 三島由紀夫「雨のなかの噴水」 | 18002741504844632930 |
Q11660294 |
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電子メイド手帖 恋のいろは
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概要
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2006年に『どきどき魔女裁判』・『キミの勇者』とともに発表。2007年の発売を予定していたが、中止となった。_NEWLINE_対戦格闘ゲーム『サムライスピリッツ 天下一剣客伝』の登場人物・いろはを教育する育成ゲームで、1日5分の「しつけタイム」で教えこんだ物事により、いろはの言葉使いや性格が決定される。電子手帳の機能も持ち、スケジュールをいろはが管理する。着せ替え要素もあり、衣装は部位ごとに合計100種類以上が用意されている。_NEWLINE_本作の新規キャラクターとしてつなみの存在が発表されている。しかし、発売されていない本作より先に携帯電話用アプリゲームの『Days of Memories』シリーズや『恋のいろは』シリーズに登場している。 | 14978219538419361043 |
Q11660861 |
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霧多布大橋
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概要
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北海道道1039号霧多布岬線の橋であり、暮帰別地区と霧多布半島を結んでいる。_NEWLINE_地震による津波被害を受け易い地域である。_NEWLINE_並行して町道の潮路橋が架けられている。
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周辺
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霧多布半島側は浜中町の市街地となっており、役場や郵便局、霧多布温泉などがある。また、厚岸道立自然公園になっており、霧多布岬(湯沸岬灯台)、アゼチ岬がある。_NEWLINE_湿原側では北海道道123号別海厚岸線と接続している。こちらも厚岸道立自然公園となっており、霧多布湿原が広がっている。_NEWLINE_霧多布港は港湾整備事業と海岸事業が連携した災害対策を進めている。 | 828517390592327192 |
Q1360781 |
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青州市
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歴史
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青州は、現在は地方都市にすぎないが、春秋戦国時代より斉国の地であり、五胡十六国の1つ南燕の首都であった。_NEWLINE_青州の歴史について詳細は「青州 (山東省)」を参照。_NEWLINE_2010年、東門街、東関街、昭徳街、北閣街、糧市街などからなる昭徳古街が第1回「中国歴史文化名街」の1つに選定される。_NEWLINE_2013年には青州市が国家歴史文化名城に選ばれた。 | 12225507500717024945 |
Q11661596 |
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青木のあ
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略歴
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2004年1月に『エスカレーション…抱かれて』でAVデビュー。_NEWLINE_現在は引退している。 | 2832098613434991791 |
Q4803495 |
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青森県営浅虫水族館
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概要
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東北地方第一の規模を誇る水族館。ショーやガイドが充実しており、特にイルカショーは2015年7月に仙台うみの杜水族館が開館するまでは東北地方で唯一開催していた。冷たい海から暖かい海まで、コーナー分けがされ、ラッコやアシカ、アザラシ、イルカなどの海獣や、ペンギンといった人気のある動物たちも一通りいる。イルカのショーや時間によってお食事タイムが行われている。_NEWLINE_年間の来館者数は約30万人。2014年(平成27年)8月15日に青森県の観光施設としては初めて通算入館者数が1000万人を突破した。
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沿革
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1922年(大正11年)、東北帝国大学理学部に生物学科が設置された。当時の理学部教授・畑井新喜司は青森県小湊村(現・平内町)の出身であり、1924年(大正13年)7月8日に理学部附属の臨海実験所が浅虫に設置された。設立当初より水族館が併設されており、一般公開が行われた。これが浅虫水族館の前身である。水族館は、アメリカから輸入した厚さ1インチ以上の磨面ガラス板を展示水槽に使用するなど、最新鋭の設備を誇っていた。_NEWLINE_1983年(昭和58年)に青森県営浅虫水族館が開館したため、臨海実験所の水族館は1984年(昭和59年)4月を以って閉館した。なお、臨海実験所は、現在も東北大学大学院生命科学研究科附属浅虫海洋生物学研究センターとして続いている。_NEWLINE_2016年(平成28年)8月2日、屋外飼育プールに展示されていたアオウミガメ1匹がいなくなっているのを、飼育員が発見し、青森警察署に被害届を提出した。_NEWLINE_2019年8月、国内の水族館初の試みとして、完全養殖のクロマグロの稚魚の飼育に挑戦。3000匹の稚魚が持ち込まれたが、8月11日の公開前にほとんどが死に、9月6日から1匹だけになっていたが、その1匹も9月26日に死んでいるのが発見された。 | 16049314198831512590 |
Q10565990 |
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青龍寺 (西安市)
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歴史
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創建は、隋の開皇2年(582年)であり、当初は霊感寺と呼ばれた。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となったが、龍朔2年(662年)に再建され、観音寺と改められた。_NEWLINE_青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711年)のことである。_NEWLINE_唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学んだ。_NEWLINE_会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀された。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、護国寺と改められている。ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまった。そのため、以後三たび姿を消すこととなった。
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復興
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1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめた。_NEWLINE_青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建つ。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた。 | 11712126395805088591 |
Q3277083 |
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韓国併合
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韓国併合(かんこくへいごう、英: Japanese annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合して支配下に置いた事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される。厳密には日本による朝鮮半島の統治は、大日本帝国がポツダム宣言による無条件降伏後も続いており、1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が降伏文書に調印するまで実質的には約35年間続いた。
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冊封体制下の秩序と開国
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当時の朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持していた。1869年に明治政府は王政復古を朝鮮に通告するが、「皇上」や「奉勅」など中国の皇帝が朝鮮に下す言葉が書かれていたことから、日本が朝鮮よりも上位になるとして受け取りを拒否した。1876年の江華島事件を経て、日本は朝鮮と日朝修好条規を締結して国交が結ばれたが、明治政府は条約締結の際に朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるために「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」表現したため、朝鮮を「属邦」とする清国と対立する下地が生まれた。その後、李氏朝鮮は米国との条約提携を清朝に依頼し、天津で交渉にあたった李鴻章は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」という条文を盛り込もりこむことを試みたが、アメリカ側が属国(属邦)と条約は結べないとして反対したため断念した。しかしながら、李氏朝鮮の高宗は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」とする照会を米国だけではなく、ドイツ・イギリスとの条約締結の交渉の際にも行った。
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開国後から日清戦争まで
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開国後の李氏朝鮮では、衛正斥邪(欧米諸国を夷狄視して排斥し、鎖国を維持する)を是とする高宗の実父興宣大院君、明治維新に倣って朝鮮の近代化を進めようとする朝鮮青年貴族(金玉均、洪英植、朴泳孝ら)たちの開化派、清国への臣属を主張する高宗の妃閔妃を擁する閔氏一族(閔泳翊ら)の事大党による政争が続いていた。_NEWLINE_1882年、興宣大院君は閔氏一族を排するためクーデターを起こすが、閔妃は清国の袁世凱と結んで反乱を鎮圧する。大院君は中国の天津に幽閉され、大院君派の官吏・儒学者は凌遅刑に処されて壊滅した(壬午軍乱)。1884年には開化派によるクーデターが起こったが、清国の軍事介入により鎮圧されて開化派も失脚した(甲申政変)。これらの政変は、朝鮮における清国の影響力を強くし、清国の後ろ盾を得た閔氏一族が政権を掌握した。これらの政変に干渉した日本と清国は天津条約を結び、朝鮮に出兵をする際は事前通告することを約定して、朝鮮半島から撤兵した。_NEWLINE_1885年、高宗が秘密裏にロシア帝国に支援を要請していることが露見する(露朝密約事件)と、清国は影響力を維持するため大院君を朝鮮に帰国させる。帰国した大院君は高宗を廃して嫡孫の永宣君を王位に擁立して自らは摂政に収まることを画策し、全琫準を通じて東学党との関係を深めていった。1894年6月、東学党が蜂起して全羅道を占領して閔妃政権の退陣を求める(甲午農民戦争)と、閔氏政権は自力での反乱鎮圧を諦めて清国に救援を依頼する。李鴻章は2,000名規模の陸軍を派兵したが、日本も天津条約の取り決めに従って邦人保護のために8,000名規模の混成旅団を派兵した。_NEWLINE_反乱の鎮圧後、朝鮮は両国に対して撤兵を要求するが双方から拒否された。日本は朝鮮に独立国かの再確認を行い、朝鮮側から「自主国である」との回答が受けたことから、自主国である朝鮮に清国軍が駐留することは清国が朝鮮を属国として扱おうとする不当な動きとして批判し、日清間の緊張は高まった。また、日本は朝鮮政府に内政改革案を提示したが、閔妃一族は改革案よりも撤兵を求め、朝鮮王朝による自主的な改革を実施すると返答しため、閔氏一族との対立も深まった。_NEWLINE_1894年7月25日、朝鮮の豊島沖で日清間の武力衝突(豊島沖海戦)を契機に日清戦争が勃発し、勝利した日本は清国と下関条約を締結し、朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮半島における清国の影響を排することに成功した。
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三国干渉後と大韓帝国の成立
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日清戦争直後の朝鮮半島は、清国と結んでいた閔氏一族が失脚し、復権した開化派は金弘集を総理大臣として甲午改革が推進した。しかし、1895年(明治28年)にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国による下関条約に関する干渉に日本が屈すると、高宗の妃閔妃はロシア帝国に接近して復権を果たすが、失脚した大院君が開化派の禹範善を介して日本と結んでクーデター(乙未事変)を起こされて殺害された。残された事大党(李範晋ら)は、妻を殺害された高宗を味方につけ、1895年にクーデターに失敗(春生門事件)するも、1896年にロシア軍の支援を受けて高宗をロシア公使館に移して復権を果たす。高宗により金弘集らの開化派の閣僚は処刑され、親露派内閣による執政が行われた(露館播遷)。朝鮮半島を巡って悪化した日露関係を改善するため、小村寿太郎駐朝鮮国公使とウェーバー駐朝鮮国ロシア公使との間に協定が結ばれ、高宗は1897年(明治30年)2月にロシア公使館から慶雲宮に帰還した。_NEWLINE_1897年(明治 30年)10月12日、高宗は自ら皇帝に即位して国号を「大韓」と改めた。高宗はロシアの力を借りて専制君主国家の成立に取り組み、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル(en:Alexey Shpeyer)の要請を受け、度支部(財務省)の顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフ(Kiril A. Alexeev)へと交代させ (度支顧問事件)、1898年2月には露韓銀行を設立させた。また、1898年1月には釜山の絶影島にロシアが太平洋艦隊の石炭庫基地を租借を要求する事件が起きた (絶影島貯炭庫設置問題)。開化派の運動組織独立協会は、中心人物の徐載弼が中枢院顧問から解任・国外追放され、1898年2月に、ロシア、日本などからの自立を求めた上疏が黙殺されるなど冷遇を受けた。また、大院君も高宗に諫言を行ったが、「倭奴(日本)の何か事場を醸すの処あっての事なるや」「露国は朕に親切にして、且つ後楯を為せり。」と一蹴された。独立協会を引き継いだ尹致昊は市民の街頭集会(万民共同会)を通じて議会設立を求める運動を推進したが、高宗も褓負商 (行商人) を動員して皇国協会を設立して対抗した。1899年1月、高宗が独立協会に解散命令を下すと会長の尹致昊は米国公使館に逃げ込み、開化派は壊滅した。1898年4月に日露間で西・ローゼン協定が結ばれ、両国は韓国の国内政治への干渉を差し控えることが定められ、高宗の専制体制が整った。
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光武改革
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1899年(明治 32)8 月、高宗は「大韓国国制」を発布し、皇帝は統帥権、法律の制定権、恩赦権、外交権など強大な権力を有することが定められ、皇帝専制による近代化政策(光武改革)が進められたが、韓国独自の貨幣発行は失敗して財政は悪化した(後述の「財政問題及び偽白銅貨の流通」を参照)。韓国政府により京城~木浦間に鉄道を敷設する計画も発表されたが、資金不足により実現に取り掛かることはできなかった。また、光武量田事業と呼ばれる土地調査を実施し、封建制度の基礎となる土地私有制を国家所有制に切り替え、近代的地税賦課による税収の増加を目論んだが、土地所有者たちへの説明が不明瞭なまま強引に推し進められたことや経費の不足から徹底することができないまま、日露戦争の勃発により事業は終了した。_NEWLINE_イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。_NEWLINE_朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。_NEWLINE_—イザベラ・バード、『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年、pp.343 f
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財政問題及び偽白銅貨の流通
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当時の白銅貨には、典圜局製造の「官鋳」、正式な特別許可による外製の「特鋳」、韓国皇室の内々の勅許 (啓字公蹟) による外製の「黙鋳」、密造による「私鋳」があると見られていた。韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた。また、大韓帝国においては偽造勅許証 (偽造啓字公蹟) が多く出回っており、それによる偽啓默鋳も行われていた。しかし、内密の勅許を暴露することは重罪であったため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかった。しかし、日本公使館は内密な手段によってこの真偽を確かめることができた。_NEWLINE_兪吉濬によれば、仁川監理の河相驥が白銅貨偽造に手を染めていたとされる。金亨燮によれば、革命一心会に所属する兪吉濬が徐相潗や河相驥に白銅貨偽造を行わせたとされる。その他にも啓字偽造により尹孝寬、丁徳天、李聖烈、洪淳学や、洪秉晋などが逮捕されている。_NEWLINE_また、当時、白銅貨や韓銭だけでなく、清の商人の発行する銭票や日本の商人の発行する韓銭預かり手形も韓国の市場に流通していた。白銅貨低落の影響を受けた日本の在韓商人には、韓国の安定した貨幣制度の確立を望む者と、むしろ韓国通貨の低落を助長して日本貨幣の流通を拡張すべきだと主張する者が存在した。1902年5月、日本の第一銀行は韓国において日本円との兌換が保証された第一銀行券を発行し、韓国の親露派からの妨害があったにも関わらず、その信用は増していった。_NEWLINE_1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、貨幣の原盤の流出元とみられる典圜局は廃止され、1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し、硬貨は大阪造幣局で鋳造されることとなった。
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ロシアの南下と日露戦争
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ロシア帝国は南下政策の一環として、東アジアの領土拡張を推進していた。日本が日清戦争で勝利し、下関条約で遼東半島を割譲されると、ロシアはフランス、ドイツと共同で干渉を行って、遼東半島を返還させた(三国干渉)。同時にロシアは清と露清密約を結び、東清鉄道の敷設など満州への権益を確保、1898年には遼東半島の旅順港と大連湾、威海衛を租借して植民地化を進めていった。また、露館播遷以降は朝鮮半島にも進出を始めていた。ロシアの南下政策に対して、日本は満州でのロシア帝国の優越権朝鮮半島での日本の優越権を相互に認めあう満韓交換論を主張する元老の伊藤博文と、ロシアを信用せずに欧米列強と協力して対抗するべきと主張する元老の山縣有朋が対立したが、1902年に日英同盟が成立するとロシアとの軍事的な緊張が高まった。_NEWLINE_1904年(明治37年)1月21日、韓国政府は局外中立を宣言して、日露間の軍事衝突に関わることを避けようとしたが、日本は大韓帝国の独立と領土保全および皇室の安全を保障するかわりに、韓国領土内における日本軍の行動の自由と、軍略上必要な土地の収用を韓国に承認させた(日韓議定書)。8月22日には第一次日韓協約を締結して、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問に日本の外務省に勤務していたアメリカ人のダーハム・W・スティーブンスを推薦して、韓国政府内への影響力を強めた。1904年(明治37年)9月5日、日露戦争が開戦すると、高宗はロシア皇帝に密使を送ってロシアへの協力を約束したが、韓国国民はロシアの排除と日本の勝利を支持しており、政府と国民に大きな乖離が生まれた。
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第二次日韓協約とハーグ密使事件
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ロシアの後ろ盾をなくした高宗は、韓国皇室の利益を保全するため日韓協約の締結を推進し、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される。この協約によって、韓国の皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となった。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任した。_NEWLINE_実権を失った高宗は、三国干渉で日本が遼東半島の主権を断念したように、欧米列強の干渉で第二次日韓協約を撤回させて、日本から外交権の回復することを画策し、1907年(明治40年)6月15日からオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に、日本による韓国支配の糾弾するため密使を派遣した。しかし、この会議は1889年に定められた国際紛争平和的処理条約の批准国による国際協調を調整する会議であり、締約国ではない大韓帝国は参加することはできず、また、第二次日韓協約によりに韓国の外交権が失われていることを理由にいずれの国からも接触を拒否され、実質的な成果を挙げることなく失敗に終わった。(ハーグ密使事件)_NEWLINE_密使たちは日本の大阪毎日新聞を含む各国の新聞で韓国の主張を訴える戦略に切り替えたため、高宗の秘密外交は国際的に露見することになり、日本でも知れ渡るようになった。日本の世論は高宗を優遇してきた韓国統監の伊藤を厳しく批判し、伊藤も高宗を「かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず」と叱責し、李完用らの閣僚も高宗の独断専行が大韓帝国の維持に有害であると退位を企てるようになる。孤立した高宗は日本に抗う術はなく、7月19日に高宗は退位して、純宗が即位した。7月24日、韓国は第三次日韓協約を結んで内政権を日本に譲り、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。_NEWLINE_第二次日韓協約のころまでは韓国に同情的な意見もあった日本の世論も、政治能力のない大韓帝国の存在は韓国民衆にとって不幸であり、世界の平和と安寧のためにも朝鮮を日本に併合することが「世界に対する帝国の任務」であると併合の推進を進める論調が主流となり、1909年(明治42年)7月6日、桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合の体制が整った。
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伊藤博文の暗殺
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1909年(明治42年)10月26日、ロシア帝国のハルビン駅頭で日本の枢密院議長伊藤博文が朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されると、韓国の併合は決定的になった。_NEWLINE_ロシア帝国は欧米列強の中で韓国への支援を継続していた最後の国であったが、ロシア領内で事件が勃発されると関与の疑念を払拭するため、韓国の関係を断絶して、日本との協調路線に転じた。また、伊藤博文は征韓論政変以来、韓国併合反対派の重鎮であり、国際協調派の元老として、山県有朋らの軍閥による軍事拡張を抑えていたが、伊藤の暗殺により、軍閥の発言力は高まり、伊藤博文・曾禰荒助と韓国統監は文官が務めたが、寺内正毅以降は朝鮮総督も含めていずれも武官が就任するようになる。
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民間の政治団体・一進会の上奏声明
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12月4日には大韓帝国にあった民間の政治結社・一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏。「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との声明を発表した。_NEWLINE_ただし、「韓日合邦を要求する声明書」は大日本帝国と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、当時の両国の時勢・国力比から考えて日本側には受け入れられない提案であったため拒絶。一進会は大韓帝国の防衛を堅持するよりも、日本との併合による地位の向上をより求めたとの見識がある。(伊藤博文暗殺に対する日本人の反感に敏感に反応したという側面もある。)_NEWLINE_ただし、大韓帝国においては大日本帝国同様、内部に派閥ごとの併合への賛成・反対の違いがあり対立があったともされ、現在の韓国では下級市民にも不満があったと教科書に記述されている。しかしながら、国民の大部分を占める白丁(農奴・奴隷階級)に政治参加の権利は無く、事実上大韓帝国の皇族のみがその主権者である為、当事の白丁の政治的意思を他国が考慮する必要は無く、また白丁階級の賛成・反対も正確な統計は無い。(白丁が市民権を得たのは大日本帝国統治後である。)
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併合
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1910年(明治43年)6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められた。親日派で固められた韓国閣僚でも李容植学相は併合に反対するが、大勢は併合調印賛成に傾いており、8月22日の御前会議では李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年(明治43年)8月22日に韓国併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、大日本帝国は大韓帝国を併合した。_NEWLINE_これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)終結まで大日本帝国の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。
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身分解放
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統監府は1909年、新たに戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除したのである。これにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された。
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土地政策
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朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた(火田民も参照)。そのほか隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地など)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている。山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする。この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。_NEWLINE_総督府による測量および登記制度の導入を機に朝鮮では不動産の売買が法的に安定し、前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した者もいるが、一方で李王朝時代の朝鮮は農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていたため、日本が朝鮮の農地で水防工事や水利工事、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益を得るようになった朝鮮人も現れ、これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。
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教育文化政策
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日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで増加した。_NEWLINE_1911年、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した。_NEWLINE_学校教育における教授言語が日本語であったことをもって、「言葉を奪った」という評価がなされることがある。水間政憲は、朝鮮語が科目として導入されたこと、朝鮮語による文化活動が許容されていたことをもって、言葉が奪われたとはいえないという反論した。また、ハングルは併合以前は漢字と比べて劣等文字として軽蔑されており、あまり普及していなかったと述べている。
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日本国内における呼称
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大日本帝国が朝鮮を併合した時期を指す呼称は特に決まっておらず、各メディア毎に日韓併合時の朝鮮や日本統治時代の朝鮮などと自由に呼称されている。
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韓国内における呼称
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韓国側では、併合そのものについては韓日併合や庚戌国恥(庚戌は1910年を意味する)と呼び、大日本帝国による朝鮮半島統治時代については、日帝強占期(近年韓国の公共放送・KBSはこの呼称に統一しようとしている)や日帝時代、または日政時代やなどと呼んでいる。_NEWLINE_これらの名称は、当時イギリスやアメリカ、フランスなどの主要国により、国際的に認められていた日本による大韓帝国併合の有効性、合法性を認めず、「朝鮮半島に対する大日本帝国の支配は単なる軍事占領で、不法なものであった」との、現在においても国際的に認められていない韓国側の独自の主張が言外に含まれたものである。また併合後も内地とは対等に扱われず、実質的には植民地のままで変化がなかったとの解釈から日本植民地時代という呼称を用いることもある。
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実際の使用事例
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大日本帝国政府は朝鮮に対し、法的には「外地」として分類していたが、公文書においては植民地も使用例も見られる。一例として1923年(大正12年)、拓殖省事務局は『殖民地便欄』を刊行したが、このなかには「我ガ殖民地ト称セラルル朝鮮・台湾・樺太・関東州及ビ南洋群島」と記載されている。_NEWLINE_戦前から在野の学者や思想家の間では、朝鮮が植民地であるか否かについてはすでに議論があった。憲法学者の美濃部達吉など社会科学系の研究者はおおむね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や革命家の北一輝などは植民地ではないとしていた。民本主義を最初に主張したとされるジャーナリストの茅原華山は、1913年の著書『新動中静観』の中で、台湾及び朝鮮を日本の「投資的植民地」であり「生産的植民地」であると述べたものの、その意味で朝鮮は大きな価値が無いとした。経済学者の福田徳三は、朝鮮の人口が既に過密なことから、「民を植(う)える地」という「植民地」及び「民を殖(ふや)す地」という「殖民地」という単語は不適切だとした。全国経済調査機関連合会は、朝鮮を「各般の事情が植民地乃至それに準ずべき立場に在る」としながらも、朝鮮の財政は地方財政(府県財政)と同様の地位にあるとした。戦後においては、外務省条約局による「内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域」という外地の定義を援用し、領域としての朝鮮地域において大日本帝国憲法の適用に保留があったこと、日本内地とは異なる法体系(朝鮮総督府令等)が適用される点、また朝鮮籍(大日本帝国)臣民の権利に国籍条項など制限があったことをもって、植民地であったとする主張がある。_NEWLINE_小渕内閣時に出された日韓共同宣言においては、村山内閣時の「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(村山談話)を踏襲し、過去の日本の朝鮮統治について、「植民地支配」という表記を用いている(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。また、国交のない北朝鮮との間で出された日朝平壌宣言においても同様に「植民地支配」表記が用いられるなど、現在の日本政府の公式見解となっていると理解するのが一般的である。これに対して(終戦記念日の村山談話、及びそれを踏襲した政府見解における)「植民地支配」とは、朝鮮統治そのものについて言ったのではなく、戦争行為にもとづく満州政策などについて言ったもので、満州を植民地にするための拠点として朝鮮半島を利用した、という意味との解釈もある。
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評価と争点
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日本側では、韓国併合を否定的に評価する見方と、併合が朝鮮半島の近代化に寄与したと肯定的に評価する見方とがあり、対立している。一方で韓国側では、併合を否定的に評価する見方が多数であり、また日本による統治を肯定する言論は徹底的に弾圧され、社会的に容認されないことが多い。逮捕・投獄に至るケースさえある。_NEWLINE_争点と評価(歴史認識)の相違については下記節「歴史認識の比較表」を参照。_NEWLINE_韓国における肯定的な見方については、下記節「大韓民国における大日本帝国統治時代の評価」を参照。
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資本主義萌芽論
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大日本帝国統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、資本主義の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、大日本帝国による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする資本主義萌芽論が、1950年代に北朝鮮で唱えられた。これはのち1960年代から1970年代に日本に紹介され、1980年代には韓国へ日本を経由して伝わった。_NEWLINE_近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し、李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定した。またハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートは、資本主義萌芽論を「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」とし、韓国の資本主義は日本の植民地化の中で生まれ、戦後の韓国の資本主義や工業化も、大日本帝国の近代化政策を模したものであるとした。またエッカートは大日本帝国による統治そのものについて朴正煕政権との類似性などを挙げ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている。_NEWLINE_これに対しカリフォルニア大学のステファン・ハガードは、エッカートの議論は具体例に欠しいと批判した。しかしハガードの研究においても、戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性を弱めていると主張する韓国人もいる。_NEWLINE_ほか韓国においても、その後の実証的研究の進展により、若い研究者からはこの資本主義萌芽論は採用されなくなってきている。
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日本内地への影響
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日本内地へ多くの朝鮮人が流入したことによって、内地の失業率上昇や治安が悪化したため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れるとともに、内地への移住、旅行を制限するようになった。また、朝鮮半島内でのインフラ整備に重点をおいたため、東北地方のインフラ整備に遅れが生じた。。さらに、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮することとなった。このため崔基鎬は、韓国併合によって搾取されたのはむしろ日本であるとしている。
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訪れた外国人の評価
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1912-1913年の駐日アメリカ大使アンダーソン(en: Larz Anderson)の妻で作家のイザベル(en: Isabel Weld Perkins)が、日本へ赴任の際に韓国に立ち寄った時の手記によると、「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった。これは、地元の人と征服者の間に摩擦無く成し遂げられるとは限らないが、その結果は確かに驚くべきものだと認めなければなるまい。政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された。韓国への日本の支出は毎年1,200万ドルに上っている。」
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近況
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2009年(平成21年)、韓国政府(外交通商部)は、強制動員労務者と軍人・軍属の不払い賃金訴訟にさいし、「(不払い賃金)は、請求権協定を通じて日本から受けとった無償の3億ドルに含まれているとしているため、日本政府に請求権を行使しにくい」という立場を公式に提示した。なお韓国政府は太平洋戦争強制動員犠牲者支援法制定後、2008年(平成20年)から「人道的次元で苦痛を慰める」として不払い賃金被害者たちに1円あたり2000ウォンで換算し、慰労金を給付している。_NEWLINE_2010年(平成22年)、菅直人首相は日韓併合100周年を記念して韓国に詫びる談話を発表したが、「謝罪」ではなく「お詫び」という表現を用いたため韓国側からの反発を買った。また、菅はこの談話について、安倍晋三以外の日本国首相経験者から同意を得た。幸福実現党は8月10日、談話は日韓併合に至る当時の世界情勢や地政学的要因を一切ふまえず、自国の安全と繁栄を確保しようとした先人の努力を完全否定し、一方的に「自らの過ち」と断罪するものとし、また日本による統治が韓国の近代化と発展に寄与した功績を全く考慮しないものであるとして、即時撤回を求める声明を出した。声明では日韓の戦後補償の問題は「完全かつ最終的に解決」されており、過去を蒸し返し謝罪する「菅談話」は「村山談話」や「河野談話」と同じく日韓友好を根本から揺るがし国益を損ない、著しく問題があるとしている。_NEWLINE_2010年(平成22年)8月13日、日本キリスト教協議会は、韓国キリスト教教会協議会と共同で「韓日強制併合100年 韓国・日本教会共同声明」を発表し、日韓併合条約は「武力の脅迫によって調印された条約」であり不法であること、また独立運動(抗日パルチザン)への処罰が「人道主義に反する植民地犯罪」であったこと、また日本の統治は朝鮮半島に窮乏化をもたらし、そのため多数の朝鮮人を中国、ロシア、日本などに移住させたこと、また日本による統治のため、朝鮮半島が分断し、朝鮮戦争が起こったことなどを主張した上、日韓併合条約の無効化と日本政府による賠償、朝鮮半島の平和統一に向けた努力等を訴えた。この主張は、2015年に和田春樹、林博史、内海愛子らが発起人となり、姜尚中、李成市らの賛意を得た「2015年日韓歴史問題に関して日本の知識人は声明する」の声明で繰り返し訴えている。
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国際法からの観点
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英ケンブリッジ大学の国際法学者J. クロフォード教授は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以降のもので、当時としては問題になるものではない」としている。 | 4642680058871715195 |
Q16142597 |
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韓流プレミア
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韓流プレミア(はんりゅう--)は日本の民放テレビ局テレビ東京が2012年4月2日より放送開始した関東地方のみのローカル放送枠。韓国のテレビドラマを二か国語放送にて放送している。_NEWLINE_第1作目はMBCの歴史劇『善徳女王』であるが、現代劇・時代劇を問わず放送されてきた。第16作目の『王女の男』の放送開始日である2014年6月27日より、番組表上の放送枠名をドラマブレイクと改めたが、放送作品の番組紹介ページ中では旧放送枠名の韓流プレミアを記載し続けている。 | 18156941313712611219 |
Q699711 |
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韓馥
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義兵を挙げる
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『後漢書』に伝のある韓韶や同時代の韓融(大鴻臚)の同族と推測されるが、続柄は明らかでない。_NEWLINE_御史中丞を務めていたが、実権を掌握した董卓から冀州牧に任じられた(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。その後、広平の沮授を別駕に任命し、騎都尉を兼任させた(魏志「袁紹伝」が引く『献帝紀』)。また、河間の張郃を司馬に任命した(魏志「張郃伝」)。_NEWLINE_当時、渤海郡には董卓と対立し出奔していた袁紹が、太守として入っていた。韓馥は元々袁氏に仕えた役人であったが(魏志「袁紹伝」)、董卓の意向を忖度して従事を数人使い、袁紹を監視した(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。_NEWLINE_橋瑁は三公の公文書を偽造し、各国に配布して董卓の罪悪を述べ、諸侯の決起を促そうとした。韓馥が袁氏に付くか董卓に付くか迷ったが、従事の劉子恵は韓馥の弱気な態度を諌めると共に、真っ先に行動を起こさず「他に決起をする者が出たら、その時に同調すればよいだろう」と進言した。韓馥は渤海の袁紹に手紙を送り、董卓の悪事を伝えその挙兵を認めた(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。_NEWLINE_初平元年(190年)春正月、関東で反董卓の義兵が挙兵し、韓馥は諸侯の1人として参加した(魏志「武帝紀」)。このため董卓は韓馥らを推挙した周毖らを斬殺した(魏志「董卓伝」・蜀志「許靖伝」)。_NEWLINE_同年2月、董卓が長安への遷都を決めたため、盟主である袁紹は河内に、韓馥も鄴に駐屯したが、董卓軍が強力であったため、敢えて行動を起こそうとはしなかった(魏志「武帝紀」)。
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帝擁立を目指す
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袁紹と共に、皇族で幽州牧の劉虞を擁立しようと計画したが、袁術や曹操らがこれに反対した(魏志「袁術伝」・魏志「武帝紀」)。翌2年(191年)春には劉虞本人に擁立を持ちかけたが、劉虞に固辞されたため失敗した(魏志「武帝紀」・「公孫瓚伝」)。また官爵を発行させるため、劉虞に尚書の事務を執り行なわせようとしたが、これも拒絶された(魏志「公孫瓚伝」)。_NEWLINE_韓馥は安平に駐屯していたが、公孫瓚の攻撃を受け撃破された。公孫瓚は表向きは董卓征伐に協力すると言いつつも、内心は冀州に攻め寄せる意思を持っていた。また諸郡がこれに呼応する動きを見せたため、韓馥は恐怖心を抱いたという。董卓が長安遷都後も、しばらく洛陽に留まって関東諸侯の侵攻に備えていたが、同年夏4月に長安へ退いたため(魏志「武帝紀」)、袁紹は延津に引き返した(魏志「袁紹伝」)。
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冀州を奪われる
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当時の袁紹軍は補給に苦しんでおり、物資の供給を韓馥に依存していた。このため逢紀はこの機会に公孫瓚を利用し、冀州を韓馥から奪い取るための策略を袁紹に具申した。袁紹はそれを容れて公孫瓚と連絡を取り、韓馥に軍事的な圧力をかけたという(魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)_NEWLINE_麴義は韓馥の将だったが、この前後に部曲を引き連れて袁紹に寝返ったという(『後漢書』「袁紹伝」)。また、張楊・於夫羅もこの時期に袁紹へ帰服したという(魏志「張楊伝」・魏志「袁紹伝」が引く『九州春秋』)。_NEWLINE_この期を逃すまいと考えた袁紹は韓馥の動揺に付け込み、使者として荀諶・高幹らを派遣し韓馥に冀州を譲るよう説得させた(魏志「袁紹伝」)。韓馥は元々臆病な性格であったため、荀諶の説得を聞き、この提案を受け入れる気になったという(魏志「袁紹伝」)。耿武・閔純・李歴らが、現時点での冀州の軍事力が袁紹を上回っている事を理由に韓馥を諫止したが、韓馥は聞き入れなかった(魏志「袁紹伝」)。また、趙浮・程奐が兵を出して袁紹に抵抗したいと願い出たが、韓馥はこれも聞かず、冀州を袁紹に譲ってしまった。同年秋7月の事だった(魏志「武帝紀」)。_NEWLINE_これより前、韓馥は騎兵を故郷である潁川に派遣し、同郷の荀氏一門(荀彧ら)を冀州に招いていたが、荀彧が到着した時には、既に袁紹に冀州を奪われた後であったという(魏志「荀彧伝」)。
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没落と死
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韓馥は奮威将軍に任命されたものの実権がなかったという(『後漢書』「袁紹伝」)。韓馥の従事のほとんどが韓馥を見捨てる中、耿武・閔純だけは袁紹を暗殺しようとしたが、袁紹に採り立てられた田豊により殺害された(『後漢書』「袁紹伝」が引く『英雄記』)。_NEWLINE_やがて韓馥は袁紹の勢いを恐れ、袁紹の下を去り張邈の下に身を寄せた。_NEWLINE_その後、張邈と袁紹の使者が会見している時、袁紹の使者が張邈に耳打ちするのを見た韓馥は、殺されるのではと勘違いし厠で自殺してしまった(魏志「袁紹伝」)。
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物語中の韓馥
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小説『三国志演義』でも、反董卓同盟に参加し、第2鎮・冀州刺史(史実は牧)として名を連ねている。董卓軍の猛将華雄に対し、自軍の潘鳳を当たらせるよう推挙するが、あっという間に討たれている。その後、史実同様に公孫瓚の脅威に怯え、耿武の諌めを聞かず袁紹に冀州を譲渡してしまい、実権を失い後悔して、張邈の下に逃げ込むところで物語から姿を消している。その最期には触れられていない。_NEWLINE_荀諶・辛評が韓馥の幕僚とされているが、史実ではこの2人は韓馥に仕えた事がない。逆に史実では配下であった沮授・張郃・麴義について、『演義』では全く言及がない。 | 1453534972124142163 |
Q1192553 |
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顔認識システム
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顔認識システム(かおにんしきシステム、英語: Facial Recognition System)とは、監視カメラのデジタル画像から、人を自動的に識別するためのコンピュータ用アプリケーションである。ライブ画像内の顔と思われる部分を抜き出し、顔面画像データベースと照合することで識別を行う。
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技法
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一部の顔認識アルゴリズムは、顔画像から目立つ特徴を抽出することで識別する。例えば、顔のパーツの相対位置や大きさ、目や鼻やほお骨やあごの形を特徴として利用する。そのような特徴を使い、一致する特徴のある画像を検索する。別のアルゴリズムでは多数の顔画像から標準化したデータを作り、個々の顔画像はその標準データとの差分だけに圧縮し、顔認識に必要なデータだけを残す。対象画像はそのような顔データと比較する。初期の成功した顔認識システムの1つは、一連の圧縮された顔データを使い、顕著な顔の特徴のセットを使ったテンプレートマッチング技法に基づくものだった。_NEWLINE_認識アルゴリズムは大まかに2種類に分類でき、見た目の特徴を直接幾何学的に比較する方法と、画像を統計的に数値化してその数値をテンプレートと比較する方法がある。_NEWLINE_主な顔認識アルゴリズムとしては、主成分分析を使った固有顔、線形判別分析、弾性バンチグラフマッチング、隠れマルコフモデル、ニューロン動機づけによるダイナミックリンク照合などがある。
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3次元顔認識
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最近の新たなトレンドとして、見えない部分も考慮した正確さを達成しようとする3次元顔認識がある。この技法では、3次元センサを使って、顔の立体的情報を取得する。そこから、眼窩・鼻・あごの輪郭など、際立った特徴を抽出して使う。_NEWLINE_3次元顔認識の利点は、他の技法に比べて、画像の明るさに左右されにくい点である。また、様々な角度のからの顔画像であっても認識できる。_NEWLINE_3次元顔認識も、表情の変化には弱い。イスラエル工科大学では、表情の変化を等長写像として捉える技法を研究している。
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皮膚のきめの分析
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最近では皮膚の見た目の詳細を顔認識に応用するという傾向がある。画像からしわやしみを特定して数値化するものである。これを Skin texture analysis と呼び、顔認識に利用した場合従来の20%から25%認識率が向上したという報告もある。
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セキュリティー
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中国では、1億台を超える顔認識システムを組み込んだ世界最大の監視カメラネットワークとして天網が有名である。_NEWLINE_ロンドンのニューアム・ロンドン特別区では、地区全体の監視カメラシステムに組み込まれた顔認識システムを持っている。_NEWLINE_アップルが開発したスマートフォン・iPhone Xでは、「Face ID」と呼ばれる顔認証システムを採用している。予めデバイスに使用者の顔を登録し、内蔵カメラで使用者の顔を識別することで、iPhoneのロック解除に使用できる。このほか、アップルのオンラインストアでの購入やApple Payの認証でもFace IDを使用できる。_NEWLINE_他にも顔認識の新たな利用方法がいくつか開発されようとしている。例えば、ATMでのセキュリティに使うことが検討されている。つまり、キャッシュカードと暗証番号の代わりにATMが顔の画像を撮影し、データベース上の顔の画像と照合するのである。同様の考え方は、インターネット上の各種サイトへのログインにも応用できる。_NEWLINE_ドイツ連邦警察はフランクフルト空港で、自発的登録者を対象とした完全自動入国審査を行っている。登録対象は欧州連合かスイスの市民に限られる。_NEWLINE_オーストラリアの税関では、顔認識を使ったSmartGateという自動入国審査システムを導入している。このシステムは、各人の顔と電子パスポートのマイクロチップに記録されている画像を比較し、パスポート所持者が本人であることを確認する。_NEWLINE_香港の深セン湾口岸では、中国本土との出入境管理で自動車のナンバープレートからドライバーを特定して顔認識する世界初のシステムをNECから導入している。_NEWLINE_2017年10月18日、法務省入国管理局は、東京国際空港(羽田空港)の入国審査にパナソニックの顔認証システムを導入。日本人の帰国者を対象に、顔写真を撮影してパスポートと照合するセルフゲートを設けた。2019年には成田国際空港でもNECの顔認証システムが導入され、2020年東京オリンピックに向けて五輪会場から各地の空港まで導入し、対象は外国人へと拡大する見込み。
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犯罪捜査
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2001年1月のスーパーボウルで、フロリダ州タンパの警察は FaceIt を使って、入場者に犯罪者やテロリストが混じっていないか探し、逮捕状が執行されていない19人を見つけた。_NEWLINE_マデリン・マクカーン失踪事件の捜査の一環として、イギリスの警察はポルトガルの Paria da Luz のホテル Ocean Club Resort とその周辺地域を事件のあった2007年5月3日までの2週間以内に訪問した人に対して同地で撮影した写真の提供を呼びかけている。これは顔認識によって誘拐犯が写っていないかを調べるためである。_NEWLINE_パトカーの屋根に顔認識システムに接続された360度カメラを搭載し、パトロールするだけで犯罪容疑者を探し出すシステムも存在する。_NEWLINE_2018年に中国ではジャッキー・チュンのコンサート会場など人が集まる場所で顔認識システムを用いた捜査を行って100人を超える犯罪容疑者と指名手配犯を逮捕しており、春節の駅では警察が顔認識システムを搭載したサングラス型のスマートグラスを使用して7人の犯罪容疑者が逮捕され、身分証を偽造した26人が旅行を禁じられたことも報じられた。
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チケット転売防止
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コンサートチケットが高額で転売されるのを防ぐため、顔認証システムを活用して、チケット購入者本人が来場しているかどうか確認することもある。2014年にももいろクローバーZが、エンタテインメントの入場管理において、世界で初めて導入した。NECの顔認証システム「NeoFace」を用いて、チケット購入時に顔写真を登録、会場入り口で顔認証しチケットを発券する。NeoFaceは香港をはじめとしてアメリカ合衆国やチリなど世界各国の警察機関で使用されて精度は世界最高水準とされる。他のミュージシャンのコンサートにも広がりつつあり、B’z、福山雅治、Mr.Children、BABYMETALが一部のコンサートなどに使っている。一方、2016年4月23日より開催の嵐の全国ツアーで実施されたのは、同年2〜3月に行われた渋谷すばるのソロライブツアー同様、複数のスタッフ目視による顔認証である。
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万引き防止
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全国約100店舗を数える丸善ジュンク堂書店全店舗で、顔認識システムを使った万引き防止システムが導入された。万引きした可能性のある客の顔データをデータベースに登録し、来店すれば検知する。店内には「防犯カメラ作動中」と告知はしているものの、顔認識機能があることは告知していなかった。これに対し、プライバシー問題に詳しい弁護士の森亮二は「特定の個人を追跡する機能をもつ顔認識システムの方が肖像権やプライバシー侵害の度合いが強く、両者は区別する必要がある。顔認識システムを採用していることを明記し、嫌だと感じた人はその店を利用しないで済むようにするなど、透明性を確保することが大事だ」と言及した。丸善ジュンク堂は、その後、表示の変更を検討するとの見解を表明した。
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その他
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2000年の大統領選挙で、メキシコ政府は偽者による投票を防ぐため、顔認識ソフトウェアを用意した。一部の個人が複数の名前で登録されていて、複数票を投じようとしていたためである。新たな顔の画像と投票者データベースに既にある画像を比較して、二重投票を大幅に減らした。アメリカでは同様の技術が、偽のIDカードや免許証の入手を防ぐのに使われている。_NEWLINE_また、内蔵したカメラを用いて、撮影した人物が成年か未成年を判別し、成年にのみタバコを販売する自動販売機も実用化されている。_NEWLINE_医療ミス防止のために顔認証システムを導入し、診察券に埋め込まれた顔写真とともに本人確認する病院もある。診察券を忘れた際に顔認証システムを利用して受付けてもらうことも可能という。_NEWLINE_生体認証としての利用以外に、デジタルカメラやスマートフォンは被写体の顔を認識し、焦点をそこに合わせたり、露出を合わせたりできるものが多い。さらに表情を認識して笑顔を確認したら自動的に撮影するといった機能もある。
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比較研究
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他の生体認証技術と比較すると、顔認識は最も信頼でき効率がよいとは言えないが、対象の協力を必要としないという重要な利点がある。空港などのシステムは群集の中から犯罪者を見分けることができる。指紋、虹彩、音声などによる認証では、このような使い方はできない。しかし、セキュリティという観点での有効性には疑問の声もある。_NEWLINE_その他の利点としては、一般的に普及している安価なカメラを使用することができる点(既存の監視カメラ・ウェブカメラなどをそのまま利用できる)、顔画像が証拠として残るため不正利用者等が発覚した場合に記録された顔画像を人が見ることで個人を特定することが容易である点(顔以外の生体情報(例えば指紋など)は、その画像を人が見て個人を特定することは困難)などが挙げられる。
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認識率
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世界最高の顔認識システムでは認識率が99.2%に達する。_NEWLINE_顔認識は完全ではなく、条件が整わないと認識率が低くなる。カーネギーメロン大学ロボット工学研究所の Ralph Gross は顔の撮影された角度について「顔認識は真正面から顔を捉えるのを基本とし、そこから20度までは何とか認識できる。しかしそれ以上横向きになると問題が生じる」と説明している。_NEWLINE_他にも画面が暗い場合、サングラスをかけている場合、髪が伸びている場合、何かで顔の一部が隠れている場合、解像度が低い場合などに認識率が極めて低くなる。_NEWLINE_また、表情が変わると認識できないことが多い。カナダではパスポートの顔写真は無表情でなければならないとしている。
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有効性
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技術評論家たちは、ニューアムに実際にデータベースに登録されている犯罪者がいたにもかかわらず、システムが犯罪者を一人も認識していないことに批判的である。これは、顔認識システム導入による 34% の犯罪件数の低下という情報と矛盾しているが、犯罪の予防という観点で、バーミンガムでも同様のシステムが導入された。_NEWLINE_フロリダ州タンパでの警察による実験でも、同様の期待外れの結果となった。_NEWLINE_ボストンのジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港でも顔認識システムによるテロリスト識別という大規模な実験が行われたが、失敗に終わった。
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プライバシー問題
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この技術の潜在的な利点を考慮したとしても、プライバシー侵害という懸念が残っている。政府がビッグ・ブラザーの様に、国民1人1人を常に監視し、行動を把握するようになるのではないかと憂慮する者もいる。権力がそのような暴走を引き起こす可能性があることは、歴史が証明している。
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歴史
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自動化された顔認識システムのパイオニアは、Woody Bledsoe、Helen Chan Wolf、Charles Bisson らである。_NEWLINE_1964年から1965年にかけて、Bledsoe は Helen Chan と Charles Bisson と共にコンピュータを使った顔認識に取り組んだ。彼はこの仕事に誇りを持っていたが、資金提供したのが匿名の諜報機関であったため、あまり公けにされることはなく、ごく一部の成果が公表されるにとどまった。大規模な画像データベース(顔写真の本のようなもの)と一枚の写真を与えられたとき、データベースから写真にマッチする少数のレコードを抜き出すことが研究課題であった。手法の成功度は抜き出したレコード数のデータベース全体のレコード数に対する比率で表される。Bledsoeは、その困難さを以下のように述べている。_NEWLINE_「この認識問題は頭の上下左右の動き、照度や角度、表情や加齢で大きな変化があることで難しくなっている。機械による顔認識に関する他の試みでは、これらの変化をほとんどまたは全く考慮しなかった。光学的に加工を施さない画像データで相関関係(またはパターン照合)を行う手法を使う研究者もいたが、それらは変化が激しい場合には必ず失敗した。特に、頭の左右の向きが違う同一人物の写真では、相関関係が極めて低い。(Woody Bledsoe, 1966)_NEWLINE_このプロジェクトは「マン・マシン」と分類された。というのは、人間が写真から特徴を抽出して、それをコンピュータが認識するのに使ったからである。GRAFACONやRAND TABLETといったペンタブレットを使って、オペレーターが瞳孔の中心、目の内側の端と外側の端、額の中心の生え際などといった特徴点を抽出した。これらの座標から、口や目の幅、瞳孔と瞳孔の間隔など20種類の距離が計算される。オペレーターは一時間に約40枚の写真を処理することができた。データベース構築時には、これらのデータと顔写真の人物名が対応付けてコンピュータに格納された。認識フェーズでは、これら距離データ群が対象となる写真から抽出した距離データ群と比較される。そして、最も近いレコードが回答として出てくる。_NEWLINE_この説明は非常に単純化しているので、ほとんどの場合このまま実施すると失敗するだろう。何故なら二枚の別々に撮影された写真で顔の上下左右の向きやカメラとの距離といった条件が完全に一致することはないからである。従って、距離データは顔を真正面から見たときの値に正規化される。この正規化を行うために、プログラムは顔の向きや傾きの数値を決定しようとする。そして、それらの値(角度)を使って、コンピュータは向きや傾きの変化を打ち消して真正面から見た場合のデータを計算する。角度を計算するために、コンピュータは頭の三次元の位置を知る必要がある。実際の頭を使うことができないので、Bledsoe は七人の頭について測定を行い、標準的な頭の位置を求めた。_NEWLINE_Bledsoe が1966年にこの研究を離れた後に、この作業は Peter Hart らによってスタンフォード研究所で続けられた。2000枚を超える写真のデータベースの上で実行された実験において、コンピュータと人間の顔認識力比較では常にコンピュータが優れていた。_NEWLINE_1997年頃、ドイツのルール大学ボーフムとアメリカの南カリフォルニア大学はマサチューセッツ工科大学やメリーランド大学カレッジパーク校のシステムよりさらに優れた顔認識システムを開発した。ボーフムのソフトウェアは ZN-Face として製品化され、ドイツ銀行や空港で採用された。この顔認識システムは不完全な顔画像でも十分認識でき、口ひげ、あごひげ、髪型の違い、眼鏡やサングラスをつけていても認識可能だとされた。_NEWLINE_画像検索には一般に画像への何らかのタグ付けが必要である。2007年1月、Polar Rose は顔認識技術を使って写真から人物の頭部の3次元イメージを約1.5秒で作成し、ユーザーにその人物の名を尋ねることで名前と顔を一致させ、画像検索のタグとして利用するサービスを開始した。_NEWLINE_2006年、Face Recognition Grand Challenge (FRGC) にて最新の顔認識システムの評価が行われた。その結果、2002年のシステムに比べると10倍、1995年のシステムに比べると100倍の正確さで認識できることが示された。中には人間のもつ顔認識能力を凌ぐアルゴリズムもあり、一卵性双生児を別人として識別できた。_NEWLINE_低解像度の顔画像の解像度を強化する技法として face hallucination がある。また、近年ではカメラ自体が高ピクセル化しており、解像度の問題は解消されつつある。 | 18129055073937848570 |
Q28690909 |
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風間晋
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来歴等
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1959年、新潟県南魚沼市の出身_NEWLINE_。新潟県立六日町高等学校、早稲田大学を卒業後、外務省に入省。ルーマニア赴任等8年勤務。深夜のニュース番組の最後に職務経験者募集のスポット広告が出ていて応募してみようと思い、1990年にフジテレビへ中途入社。報道局外信部でニューヨーク特派員、ワシントン支局長を務める。帰国後は、2009年から『ニュースJAPAN』編集長を2012年夏まで担当し、外信部長、編集委員などをつとめる。_NEWLINE_2017年7月、報道局解説委員室解説委員。2019年4月1日、Live News it!メーンキャスター | 14379563298040396793 |
Q11666001 |
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食い道楽!出張料理人 亀崎源一
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食い道楽!出張料理人 亀崎源一(くいどうらく!しゅっちょうりょうりにんかめざきげんいち)は、2006年2月8日の21:00~22:48に、テレビ東京系列の「水曜ミステリー9」枠で放送された作品。 | 14037284178507640841 |
Q11666268 |
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飯尾川
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地理
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吉野川市鴨島町樋山地に水源があり、名西郡石井町を通過して徳島市に入り、鮎喰川下流部に合流する。_NEWLINE_流域の7割程度を占める平地のそのほとんどが吉野川の「氾濫原性低地」を主体とした沖積平野であり、流域南部は山地と丘陵地からなっている。 | 1709336462674297032 |
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