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Q65249529 |
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北海道179市町村応援大使
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北海道179市町村応援大使(ほっかいどうひゃくななじゅうきゅうしちょうそんおうえんたいし)は、北海道日本ハムファイターズによる北海道内の市町村の広報大使である。
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概要
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日本ハムファイターズの北海道移転10周年記念企画の一つとして、選手が北海道内の全市町村との交流を図りながら地域おこしに寄与することを目的として北海道知事を応援団長・ファイターズ監督を推進委員長に据えて2013年度より10年の計画で毎年北海道内の18市町村に主に2選手または外国人選手を含めた3選手を応援大使として委嘱する。_NEWLINE_対象となった市町村は委嘱選手を1年間広報やプロモーションに起用することが可能となり、球団が認可する物に限り肖像権を無償利用することも認められる。毎年11月のファンフェスティバルにて翌年の対象市町村を発表し、各選手のくじ引きにより担当市町村を決定する。_NEWLINE_また、応援大使企画の開始と同年の2013年より再開された企画試合「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」では、応援大使の対象市町村から選手の抽選で一部の市町村名が特別色のユニフォーム・キャップ・ヘルメットに書かれる。 | 3081695410586849477 |
Q11404046 |
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北見禮子
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人物・来歴
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1915年(大正4年)2月13日、千葉県東葛飾郡野田町(現在の同県野田市)に生まれる。_NEWLINE_1932年(昭和7年)3月、野田町立野田高等女学校(現在の千葉県立野田高等学校)を卒業し、同年4月、東京・巣鴨の河合映画製作社に入社、同年6月10日に公開された吉村操監督の『大磯心中 天国に結ぶ恋』に出演して、映画界にデビューした。同年10月20日に公開された根岸東一郎監督の『下宿屋の娘』で、初めて主役に抜擢される。翌1933年(昭和8年)、同社は大都映画に改組されるが、継続入社した。_NEWLINE_1936年(昭和11年)、京都の松竹下加茂撮影所に移籍する。1941年(昭和16年)、同社を退社、同い年の俳優の林敏夫と結婚、1942年(昭和17年)2月14日には、長男の与一が誕生した。林敏夫は、1944年(昭和19年)に召集を受けて出征し、1945年(昭和20年)8月13日に北満州(現在のロシア・沿海地方あたり)で戦死した(満30歳没)。夫の死の2日後に第二次世界大戦は終結した。_NEWLINE_1949年(昭和24年)、東横映画と契約して映画界に復帰、同年10月3日に公開された小杉勇監督の『花嫁と乱入者』に出演した。翌1950年にはフリーランスになり、長谷川一夫の新演伎座製作、冬島泰三監督の『鬼あざみ』等に出演する。1957年(昭和32年)には、長男の与一が初舞台を踏んだ。1959年(昭和34年)5月19日に公開された深田金之助監督の『ふたり若獅子』を最後に引退した。_NEWLINE_2007年(平成19年)、死去した。満92歳没。
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フィルモグラフィ
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特筆以外すべてクレジットは「出演」である。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 | 7228482192044670403 |
Q11404071 |
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北警察署 (北海道)
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交番・駐在所
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括弧内は所在地を表す。 | 18136113586430470670 |
Q11404213 |
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北郷裕子
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経歴
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2000年にYKK APフラッパーズに入団。主にDFでプレーすることが多いが、たまにボランチとしてもプレーしていた。ヘディングが武器。2006年の日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)第9節INACレオネッサ戦で、なでしこリーグ通算100試合出場を達成した。しかし、その試合で相手選手との接触で骨折をした。_NEWLINE_2007年シーズン、副キャプテンに任命されたが、その年限りで現役引退した。 | 9091283972210037870 |
Q11404291 |
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北野恒富
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北野 恒富(きたの つねとみ、明治13年〈1880年〉5月28日 - 昭和22年〈1947年〉5月20日)とは、明治から昭和前期にかけての浮世絵師、日本画家、版画家。本名は北野富太郎、夜雨庵とも号した。
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少年時代から挿絵画家となるまで
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石川県金沢市十間町で加賀藩士族・北野嘉左衛門の三男として生まれる。名は富太郎。夜雨庵と号す。少年時代から絵を描くことを好み、家にあった掛け軸の絵などを模写して楽しむ。小学校を卒業した明治25年(1892年)木版書画の版下製作業者・西田助太郎に入門、技術を研修するかたわら南画を学ぶ。その後は何人かの木版画彫刻師の門下を転々とし、絵草子屋に勤めたりもしたが長続きせず、明治30年(1897年)には彫師、伊勢庄太郎のもとで木版下絵を描く修行を重ねたのち、彫刻師中山駒太郎に従って北国新報に入るものの、ほどなく画家として立つべく大阪に移り、明治31年(1898年)、中山の紹介により月岡芳年門下の稲野年恒に入門。明治32年(1899年)11月には月刊新聞「新日本」の小説挿絵を描き、挿絵画家としてデビュー。この時期には仕事をこなすかたわら洋画の画法の研究にもいそしみ、当時、尾崎紅葉の『金色夜叉』や小杉天外の『魔風緑風』の挿絵を担当して人気を博していた挿絵画家・梶田半古の作品にも触発され、後年の画風の素地が形成されていった。また同時期に野田九浦の知遇も得たが、北野を彼に紹介した信近春城は大阪画壇の組織化を早くから試みていた人物であり、後年北野がとった同様の行動には彼からの影響が窺える。明治34年(1901年)には藤村歌と結婚し、同年10月に大阪新報社に入社、小説挿絵担当となり、翌明治35年(1902年)には長男顕雄が誕生する。顕雄は長じて日本画家の北野以悦となった。
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人気画家となる
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展覧会への初出品作とされる「揚げひばり」(三等一席)や、明治43年(1910年)の第4回文部省美術展覧会(文展)で「すだく虫」が初入選。明治44年(1911年)の第11回巽画会展に出品した「賃仕事」が三等銅賞、第5回の同展では「日照雨(そばえ)」が3等賞を受け、日本画家として名を知られることとなった。1912年(明治45年)7月の現代名家風俗画展(会場は高島屋呉服店)には「浴後」(京都市美術館蔵])を発表、関西弁の響きを思わせる丸みを帯びた造形と、背後にさまざまな物語を連想させる濃厚な情感、克明な描写、そしてそれらが生み出す頽廃的な雰囲気が特徴の「恒富風美人画」が確立され、人気画家への仲間入りを果たした。
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文展から院展へ
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文展入選をきっかけに画家としての地位を築いた北野だが、大正2年(1913年)の第7回文展に出品し心中天網島を描いた「朝露(現在名は「道行」)」(福富太郎コレクション)が落選して以降は、同年に横山大観、下村観山によって日本美術院展(院展)が再興されるや、その第1回展に「願いの糸」(所在不明。木下美術館などに類似作あり)を出品。文展への出品は大正4年(1915年)の「暖か」(滋賀県立近代美術館蔵)が最後となり、大正6年(1917年)には院展の同人となった。この後、大正10年(1921年)の再興第8回院展に「茶々殿」(大阪府立中之島図書館蔵)、昭和3年(1928年)の第15回展に「宵宮の雨」(大阪市立美術館蔵)、昭和5年(1930年)の第17回展の「阿波踊」(所在不明。徳島城博物館や山形美術館などに類似作あり)、昭和6年(1931年)の第18回展に「宝恵籠」(所在不明。大阪府立中之島図書館などに同構図作あり)、昭和14年(1939年)の第26回展に「星(夕空)」(大阪市立美術館蔵)を出展するなど、昭和21年(1946年)の第31回展まで、ほぼ毎年出品が続けられ、創作の大きな柱となった。このころになると、画風もかつての濃密なそれにかわり、清澄で簡潔、優美なものへと変貌。この間にはこれらと並行して、大阪美術院の1917年の第3回展に「風」(広島県立美術館蔵)、翌18年の第4回展に「紅葉狩」(個人蔵)、昭和11年(1936年)の改組第1回帝国美術院展に「いとさんこいさん」(京都市美術館蔵)、昭和17年(1942年)には日本画家報国会軍用機献納画展覧会に「関取」(東京国立近代美術館蔵)、昭和18年(1943年)の関西邦画展に「夜桜」(大阪市立美術館蔵)、再興第30回院展に「薊」を出品する。また昭和9年(1934年)には聖徳記念絵画館の壁画「御深會木」を制作した。
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大阪画壇のリーダー
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こうした創作活動のかたわら、1912年(大正元年)8月に野田九浦と大正美術会、大正4年(1915年)には大阪美術協会、大正7年(1918年)には水田竹圃らと大阪茶話会を設立したほか、画塾「白燿社」を主宰して不二木阿古、中村貞以、樋口富麿、生田花朝女ら多くの門下生を育てたほか、大正末年には徳島で南海画塾も設立した。他方、大正7年(1918年)に浮世絵と同じ技法による新版画「廓の春秋」を青果堂(中島重太郎)から出版、大正13年(1924年)に「新浮世絵美人合 三月 口べに」を発表、また、大正14年(1925年)に根津清太郎という版元から「鷺娘」などを出版し、浪速情緒にあふれた木版画を残している。島成園を少女時代から指導し、大正14年(1925年)に木谷千種、松本華羊、星野更園、三露千鈴らを会員として結成された創作グループ「向日会」の顧問に就任するなど、大正、昭和初期の大阪で活躍した女性画家たちを積極的に指導、後援し、終戦後の昭和21年(1946年)に大阪市立美術館に絵画研究所が併設されると、日本画講師として招かれるなど、大阪画壇のリーダー的存在として重きをなした。昭和22年(1947年)5月20日に当時在住していた大阪・三野郷村(現在の東大阪市、八尾市の一部)の自宅で心臓麻痺のため67歳で急逝。墓は奈良市富雄の霊山寺で、故郷金沢にも分骨された。昭和34年(1959年)の十三回忌の際には、大阪市中央区高津宮に恒富の筆塚が建立された(書は河東碧梧桐)。平成元年(1989年)の切手趣味週間には彼の作品「阿波踊」をデザインした切手が発行された。
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ひととなり
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北野の門弟の一人である女性日本画家四夷星乃は、北野の葬儀で読んだ弔辞の中で彼の人間性を「常日頃の先生の人格と作風をしたひて集ふ弟子たちの、出品画には自ら筆をとりて御なほし下され、發表の日には夜の更くる迄も共に入選を案じ下さる先生でございました。一度藝道の話となるや時の過ぐるも忘れ熱中いたされました」と表現している。_NEWLINE_一方でいわゆる艶福家でもあり、孫娘・北野悦子が「祖父・恒富の思いで」(『太陽』美人画シリーズ第4巻、昭和57年11月刊)のなかで語っているとろによれば、彼女の幼少期、家には「おばあさんと呼ぶ人が三人」いたという。また祇園や宗右衛門町などでの芸妓遊びを好み、一晩遊んだ後にそのままその店に泊り込む「居続け」をすることもしばしばで、息子の北野以悦の結婚式の際もそうした過ごし方をしていたために日時を忘れてしまい、開式の時刻に間に合わず、式では参列者の一人が親代わりをつとめ、北野自身は記念写真の撮影の直前にようやく現れた、とも伝えている。こうした反面読書を好み、特に愛読したのは吉川英治だったという。 | 6996858468934738182 |
Q11404297 |
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北野村 (大阪府西成郡)
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歴史
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村内を中国街道が縦断し、大坂市街の北に隣接する村だった。天満寄りの南東部では江戸時代から天満西寺町や梅ケ枝新地など市街化が始まり、明治以降、とりわけ阪急梅田駅の開業以降は急速に市街化した。 | 17424606671401815780 |
Q11404351 |
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北門神社
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由緒
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1785年(天明5年)、松前藩の場所請負人であった村山伝兵衛が、宗谷の地(北海道 (令制)北見国宗谷郡)に北門鎮護の守護神として天照皇大神を奉り、宗谷大神宮という小社を建立した。1896年(明治29年)7月15日に、現在地に社殿を移築し、武甕槌神、事代主神を合祀して、北門神社へ名称を変更した。 | 463474191729281911 |
Q11404478 |
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北陸鉄道能登線
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運行形態
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車両基地は羽咋駅構内にあり、1969年時点で気動車5形式7両とディーゼル機関車1両が所属していた。列車は羽咋 - 三明間に14往復(1往復は急行)、羽咋 - 能登高浜間に4往復が設定されていた。ラッシュ時には2両編成が走るが、その他の時間帯は単行での運転であった。_NEWLINE_また、夏季には海水浴客のために能登高浜まで、正月には初詣客のために能登一ノ宮まで、金沢からの直通臨時列車が乗り入れていた。それに備えて、両駅のプラットホームはかなり長いものであった。
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代替バス
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鉄道の廃線により代替バスが運行され、鉄道路線が延びることはなかった旧富来町へ羽咋駅から乗り換えなしで結ばれるようになった。_NEWLINE_羽咋 - 富来を直通で結ぶ便はすべて荒屋回りである。_NEWLINE_また、羽咋 - 能登高浜・三明折り返しの便も存在する。_NEWLINE_三明から福浦・厳門回りで富来に向かう区間便も存在したが、2007年4月1日のダイヤ改正により高浜 - 赤住まで運行していた赤住線の一部が赤住 - 福浦 - 厳門を経て富来まで延伸。これにより三明 - 福浦間を走行する路線バスは事実上廃止となった。_NEWLINE_各停留所に停まる路線バスのほかに金沢駅 - 羽咋駅 - 三明 - 富来を結ぶ富来急行バスも運行している。 | 17484403656086429265 |
Q11404707 |
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医行為
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医行為(いこうい)は「医師の医学的判断および技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、または危害を及ぼすおそれのある行為」とするのが通例である。同じ内容に思われるが「医師が行うのでなければ保健衛生上危害の生じるおそれのある行為」という表現もある。一般的には医療行為と同義語として扱われることが多い。 | 5641236702005308266 |
Q11404833 |
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十人十色 (大江千里の曲)
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解説
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1984年11月1日にEPIC SONYよりリリースされた。編曲は清水信之。なお、翌年発売のアルバム『未成年』(1985年3月21日リリース)にも収録される。この曲がスマッシュヒットとなり、大江の「出世作」となる。_NEWLINE_味覚糖(現・UHA味覚糖)のキャンディー『DATE KISS』(現在は廃番)のCMソングに使われた。なお、CM自体で流れている曲の編曲は清水信之ではなくTM NETWORKでデビューしたばかりの小室哲哉が行い、曲の音階もシングルやアルバムとは異なっていた。この様な事になった理由は曲の締切の問題だったという。_NEWLINE_大江にとって、清水と小室との出会いを果たすことになった作品である。現在も大江と清水とは編曲でも活動しており、最近は2007年10月24日にリリースされた牧野由依の「スケッチブックを持ったまま」(テレビ東京「スケッチブック 〜full color's〜」エンディング曲)を手がけている。なお、小室とは友人でもある。 | 8198041206735762248 |
Q1423394 |
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十字砲火
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概要
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防御において大きな効果を発揮する戦術で、相互支援原則に従った武器の配置例の代表格であり、相互にお互いを支援しあうことで攻撃側が防御側陣地へ到達することを困難にしている。塹壕・有刺鉄線・地雷と組み合わせることで防御力は飛躍的に高まり、現代でも攻略することが困難な戦法である。_NEWLINE_また、前面からだけでなく側面からも銃弾が飛んでくるので、上手く隠蔽され、知らずに射程内へ入った場合、回避の難しい戦法である。_NEWLINE_なお、集団で行う場合、互いの銃弾が味方に当たらないように注意する必要がある。_NEWLINE_各種の再現テストでは、正面から横隊突撃目標の機銃掃射1門1連(250発)で、40-60静止目標程度しか命中しないが、横隊を横から捉えた掃射では200目標以上命中する。_NEWLINE_極めて防護能力の高い射撃技法状態の事を言う。 | 407518355460908528 |
Q11405296 |
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千代田区立九段中等教育学校
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概要
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旧制第一東京市立中学校を起源にもつ東京都立九段高等学校を前身とし、東京23区の区立初の中高一貫校。高校課程の学問を教授する教育施設で「区立」なのは全国でも当校のみである。教育目標は「知性・感性を磨き、豊かな想像力を培う。」「心身を鍛え、自主自立の精神を養う。」「主体的に社会貢献する意欲と態度を醸成する。」を軸にして「豊かな心 知の創造」としている。_NEWLINE_与謝野鉄幹が作詞、山田耕筰が作曲した都立九段高等学校の校歌に手を加えたものを校歌としている。_NEWLINE_入学試験は、千代田区在住者のA区分80名と、区外のB区分80名がある。A区分で受験するには 、受験の前年の4月1日現在に千代田区内に住所を有しており6年間居住することが条件となり、千代田区外に出ると退学となる。九段中等の開校により、それまで低かった千代田区立の中学校への入学率が上昇した。B区分で受験するには、都内に住所を有していて、入学後も引き続き卒業まで都内から通学することが条件となる。
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沿革
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大正13年に開校した第一東京市立中学校から続く歴史と伝統は、「この上もなく大きく、この上もなく強く、しかも正しい」という「至大至剛の精神」として東京都立九段高等学校を経て現在の千代田区立九段中等教育学校に引き継がれている。第一東京市立中学校初代校長の成田千里は、徳体三位一体の新教育を理想とし、大正デモクラシーの気風を引き継ぎ、他校とは一線を画した独自の自由、かつ「至大荘」に代表される質実剛健な校風を生んだ。制服は府立五中などと共に、当時としては画期的な背広であった。国立栄養研究所の指導の下で、学校給食が出されていた時期もあった。進学面では主に旧制一高へ多数の進学者を輩出した。_NEWLINE_校風や行事、伝統などを引き継ぐことを約束に2006年に中高一貫校化。2019年度現在、全学年が入学試験を経ての入学生である。
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九段自立プラン
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千代田区には在外公館や大手企業、大学、官公庁が集中しており、その地域性を活かした「九段自立プラン」が実践されている。6年間の一貫したキャリア教育であり、コミュニケーション能力や情報活用能力を養うことを目的とする。学習内容は「都市文化」、「環境」、「福祉」、「伝統文化」、「国際理解」など多種多様で、中等5年次にはその集大成として卒業研究に挑む。 | 18035667684879319616 |
Q11406141 |
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千葉県サッカー選手権大会
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概要
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他のサッカー競技団体(Jリーグ、JFL、大学サッカー連盟など)の組織変更の影響で、天皇杯全日本サッカー選手権大会の出場枠・開催要項が、度重なる変遷を経ているので、その予選の位置づけにある千葉県サッカー選手権大会の開催要項もそのたびに変更されてきた経緯がある。 | 17243152194377747926 |
Q1542471 |
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南カメルーン連邦共和国
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歴史
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1884年にはドイツ植民地帝国ドイツ保護領カメルーン(1885年 - 1916年)が成立した。_NEWLINE_1922年に、イギリス領カメルーンとなった。_NEWLINE_1954年にエマニュエル・M・L・エンデレイが南カメルーンの自治権を主張。1955年、ジョン・フォンチャが南カメルーンにてカメルーン民族民主党(KNDP)を設立し、1959年の投票で現状維持が多数を占め、フォンチャがイギリス領カメルーンの首相に就任、アルバート・ムコングが副首相となった。翌年の1960年にナイジェリアがイギリスから独立した。ナイジェリアとの統合の声もあったが、フォンチャはナイジェリアとの関係を絶ち切った。さらにフォンチャは呼びかけにより、投票で1961年に北部はナイジェリアと統合。残った南部はカメルーン共和国(独立したフランス領カメルーン)と統合するカメルーン連邦共和国(1961年 - 1972年)となった。しかし、当初はエンデレイは独立を強く主張していたため、フォンチャとは対立していた。ビアフラ戦争(1967年 - 1970年)。1972年、国号をカメルーン連合共和国に変更。_NEWLINE_1980年代になるとカメルーン英語話者運動(CMA)などの南カメルーンの独立を主張する組織が、活発に活動するようになった。1984年には国号を現在のカメルーン共和国に変更。_NEWLINE_1994年、フォンチャらかつての指導者も加わった、独立運動組織南カメルーン国民会議(SCNC)がブエアに設立される。カメルーン政府が弾圧に乗り出したため、1999年12月30日、ブエアの独立を主張する法務省フレデリック・アロブウェデ・エボングを中心に、SCNCの議長アヤンバ・E・オグン、ジェームズ・サブムらメンバーがブエアにあるラジオ局(CRTV)を占拠し、2州からなる南カメルーンの分離独立と主権回復を宣言した。エボングが、自身の独立宣言の声明が入ったテープをラジオ局で流した。その為、エボングらSCNCメンバーはラジオ局を占拠及び独立宣言したとして、反逆罪の罪で拘束され、ヤウンデの投獄で1年間過ごした。しかし、その後も独立を主張し続けた。2000年、SCNCはイギリスに亡命していたエボングを大統領として指名。2001年、エボングは南カメルーン臨時政権の組織を発表。副大統領にヌフォー・エンガラ・ヌフォー、その他に大統領府官房長や外務、国防など25人の閣僚を指名した。2002年にはこれらのメンバーらは反逆罪で弾圧逮捕されている。現在のSCNCの国家議長はアヤンバ・E・オグン。また、エボングらは1999年から設立宣言されているアメリカの亡命政府で活動している。_NEWLINE_2017年10月1日には独立派がアンバゾニアの国名で再び独立宣言を行っており、治安部隊と衝突する事態となっている。2018年6月、カメルーン政府は、2017年末に武力衝突が激化して以来、独立派が治安部隊の81人を殺害したと発表。一方で、人権保護団体アムネスティ・インターナショナルは、治安部隊が2017年末以降、超法規的殺人や、私有財産の破壊、恣意的な逮捕、拷問を行っていると報告書で指摘している。 | 17431985079539895663 |
Q5975551 |
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南寧駅
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利用状況
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本駅は湘桂線、南昆線、南防線、南広線、柳南都市間鉄道、南昆旅客専用線の旅客、貨物を扱う特等駅である。2009年3月現在、69本の旅客列車が発着し、8本を除き始発列車か終着列車である。また、湘桂線には隘口駅から中越国境を越え、ドンダン駅(同登)を経てハノイ近郊のザーラム駅に向かうT8701/8702次列車が運行されている。
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特別列車の入線
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2019年2月26日の早朝、米朝首脳会談のためにベトナムへ向かう朝鮮民主主義人民共和国最高指導者専用列車が南寧駅に入線。この際、金正恩がホームに降りて煙草を吸う様子がジャパン・ニュース・ネットワーク(TBS系)により撮影、報道された。このため南寧駅では、復路でもホームが撮影されないよう急遽、目隠し用フェンスの工事が行われた。 | 2192543116525503505 |
Q11407853 |
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南房総市道丸山7号線
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南房総市道丸山7号線(みなみぼうそうしどうまるやま7ごうせん)は、千葉県南房総市の市道である。跨線橋を伴う。
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概要
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当道路は、館山自動車道君津ICなどより国道410号を南下する観光客などのための道の駅ローズマリー公園(以下公園)へのアクセス向上のために建設された(終点へと接続される道路は第2フラワーラインとなり、三嶋海岸の防風林により人家も少ない)。_NEWLINE_また房総半島代行事業(半島振興法)のひとつとして当道路は建設された。_NEWLINE_旧丸山町時代の1990年代初頭より事業採択され工事が始まっているが、周辺の道路工事よりも数倍完成までの月日がたった。第2フラワーラインより公園間295mは部分開通済みであったが、残りの跨線橋を伴う部分については2010年3月25日開通した。
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開通に伴う効果
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開通前は国道410号より公園へアクセスする場合、安馬谷交差点から南下、突き当りのT字呂を左折し、フラワーラインを通り公園に行く必要があり、大周りとなっている。しかし、当道路の開通後は、国道410号の安馬谷交差点~突き当りT字路中より跨線橋を内房線に通し、そのまま公園にアクセスさせる。それにより大幅なアクセス向上が期待されるとしている。 | 7875783335640391123 |
Q11408156 |
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南海バス堺営業所
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概要
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主に堺市(旧堺市街地)と臨港エリア、一部大阪市住之江区や松原市にも乗り入れるほか、高速バスの運行も担当している。_NEWLINE_堺浜地区のシャープ工場建設地への特定輸送も行っていたが(地下鉄住之江公園駅発着、堺駅・堺東駅経由堺市駅発着)、2010年1月より一般路線バス(堺匠町線:堺駅西口・堺東駅経由堺市駅発着、堺東駅発綾ノ町電停前経由便。住之江匠町線:地下鉄住之江公園駅発着)に移行し、21年ぶりに大阪市内への南海バスの一般路線バス乗り入れが復活した。_NEWLINE_一般路線の車両面では堺シャトルを含め、中型車の比率が高くなった時期もあったが、近年は臨海エリアでの利用客が増えていることや大型ノンステップバス(一部天然ガスCNG車もあり)が導入されているために再び大型車の比率が高くなってきている。_NEWLINE_従来は堺市中心部のバス運行は堺東と堺の両営業所が担当していたが、輸送量の増加とともに営業所としての規模が手狭となったため、1978年12月15日に堺営業所を拡充するとともに堺東営業所を統合し、堺市中心部の路線を一括管理するようになった。_NEWLINE_2013年9月1日より金岡車庫の廃止に伴い、一部路線が移管された(残りは東山営業所へ移管)。_NEWLINE_堺東駅近くの高島屋堺店駐車場棟1階に堺東駅発着便の折り返しのための堺営業所堺東車庫がある。
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高速バス
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夜行路線はすべて「サザンクロス」の愛称で運行している。停留所は一部省略。昼行路線は四国方面1路線に参入する。
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高速バス
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また、大阪 - 高松線は2017年3月31日限りで自社での運行から撤退し、高松エクスプレスの単独運行となった。予約・発券のみ継続しているが、同社は自社で用地を確保しているため、本営業所は元々運行支援業務を行っていなかった。
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堺市ふれあいバス
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堺市のコミュニティバスバスで、美原区を除く各区で運行していたが、利用状況の低迷から2013年6月末日で廃止となった。運賃は100円均一でルートによって運行曜日が決められていた。美原区については金岡車庫担当で「みはらふれあい号」を別途運行していたが、こちらも堺市ふれあいバスと同じく2013年6月末日で廃止された。 | 7979747074730611950 |
Q11408331 |
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南種子町立南種子中学校
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歴史
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1994年(平成6年)4月に南種子町内の5中学校を統合し、南種子町立南種子中学校が開校した。2013年(平成15年)に開校20周年を迎えた。 | 6505796868911513180 |
Q8513878 |
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南部直政
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生涯
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初代藩主南部直房の長男として生まれる。生母は側室の霊松院。寛文8年(1668年)、父の死により家督を相続する。寛文12年(1672年)、盛岡藩との領境を確定させ、元禄8年(1695年)には初めて領内の人口調査を行った。詩文集『新編文林全集』を編纂するなど、学識も高かった。しかし延宝年間にはいわゆる「やませ」による不作が重なったことが原因で、早くも藩財政が苦しい状況に追い込まれた。直政の代には、参勤交代の供を命じられた家中武士の負担を軽くする目的で「舫(もやい)」制度が始められた。これは家中武士に金銭などを拠出させ、必要に応じて支給されるものであった。_NEWLINE_元禄元年(1688年)から翌年(1689年)まで将軍の側用人を勤めた。元禄12年(1699年)死去、享年39。跡を養子の通信が継いだ。墓所は東京都港区の金地院にある。_NEWLINE_死因に関して、八戸立藩を恨む盛岡藩南部家による毒殺説がある。完全に裏付ける史料はない。先代にも盛岡藩南部家の関与が噂されており、幕府による調査が入っている。
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人物
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前述のように学識は非常に高く、側用人時代に徳川綱吉への献上品の封を紐解くための問答を一人で解いてしまい重宝されるなど、才覚に恵まれていたようである。 | 18019421957323278689 |
Q906691 |
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博多南駅
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概要
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博多南線は山陽新幹線博多総合車両所への回送線を旅客線化したもので、当駅は博多総合車両所構内の西側(着発1番線東京方)にある。_NEWLINE_発着するのは特急列車のみであり、また特別急行券なしで特急列車に乗車できる特例も設けられていないため、青春18きっぷでは当駅及び博多南線は利用できない。
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駅構造
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築堤上にあり、博多方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を有する高架駅。ホームは開業当初は6両分で、のちに8両分に延長されたが、現在も16両編成の列車は当駅構内には進入できない。ホームは、博多総合車両所内の構内車両基地の西端の線路に単式1線で設置されており、車両所下り方への入換も可能。_NEWLINE_山陽新幹線にあわせ自動改札機が導入されている。ただし、常時改札は実施されておらず(列車別改札)、列車出発時刻のおおむね10分 - 15分前にならないと入場できない(時間外は自動改札機の電源が切られ、乗車券類を投入することができない)。ICカード乗車券(ICOCAなど)およびEX-ICは非対応である。_NEWLINE_国鉄分割民営化当時の取り決めの解釈の相違による対立の妥協策で、開業から20年間にわたり、駅窓口業務は九州旅客鉄道(JR九州)に委託され、JR九州博多駅の社員が派遣されていた。現在は、JR西日本の直営駅となっている。_NEWLINE_委託時代はマルス端末を設置したJR九州の旅行センターが設備されていたが、直営化により閉店となった。_NEWLINE_駅出入り口は駅の西側(那珂川市側)だけにあり、九州新幹線建設後は九州新幹線の高架下に位置することになった。_NEWLINE_博多南駅の事務管コードは、▲810101である。なお、81で始まる事務管コード(JR西日本福岡支社の割り当て)は、当駅のみである。
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駅周辺
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春日市と那珂川市の境界付近に位置している。駅とホームは春日市に所在するが、駅前の道路を渡った対面側は那珂川市になる。道路を挟んで向かい側に1階をバスターミナルとした多目的ビルがあり、駅とこのビルは連絡通路で直接結ばれている。周辺は開業当初は比較的閑静な住宅街であったが、その後は住宅・マンション・商業施設などの建設が急速に進んだ。 | 5639008025223276507 |
Q6924291 |
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卯辰山
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概要
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山頂には国土地理院の二等三角点があり、この三角点は「金沢」と命名されている。_NEWLINE_文化、文政年間には青木木米により春日窯が開かれ九谷焼の再興の先駈けとなった。金沢城を見下ろす位置にあることから、江戸時代を通じて庶民の登山が禁止されていたが安政5年に安政の泣き一揆と呼ばれることになる事件が発生し首謀者7人が死罪になっている。_NEWLINE_1947年(昭和22年)、徳田秋声を顕彰する文学碑が室生犀星の揮毫、谷口吉郎の設計で山頂近くに置かれる。_NEWLINE_1958年(昭和33年)、山頂付近に動物園、水族館を付属した娯楽施設「金沢ヘルスセンター」が開園し、1993年(平成5年)の閉園まで存続した(この施設についてはいしかわ動物園の項目を参照のこと)。_NEWLINE_1960年(昭和35年)には県営卯辰山相撲場が開設され、翌年からは高等学校相撲金沢大会が開かれているほか、1981年(昭和56年)に石川県産業展示館3号館が完成するまでは、プロレス興行にも使用された。 | 3371312645213975390 |
Q841449 |
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厚生省
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厚生省(こうせいしょう、Ministry of Health and Welfare)は、かつて存在した日本の行政機関である。医療・保健・社会保障などを所管していた。_NEWLINE_2001年(平成13年)1月、労働省(当時)と統合されて厚生労働省に改称した。
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概要
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「書経」の「正徳利用、厚生惟和(徳を正しくして用を利し、生を厚くしてこれ和す)」から厚生省と名付けられた。当初、「保健社会省」と命名する予定であったが、枢密院審査委員会において「保健社会省とは名前が長すぎる。以前、農商務省というのはあったが、三字止まりだ。もっと簡明な名前にした方がよい」という意見が南弘顧問官から出され、南顧問官から漢籍に出所を持つ「利用厚生」云々はまさに新省の所掌事務を示している。そこで、この厚生をとって厚生省としようという提案があったことに由来する。 | 910518557039598409 |
Q11409695 |
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原清 (海軍軍人)
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経歴
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教員、原権市の長男として佐賀県で生れる。唐津中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を首席で卒業し、同年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで航海術専修学生として学び、専修学生は優等で卒業した。運送艦「労山」航海長、練習艦隊参謀、第1艦隊参謀、海兵教官を経て、1923年10月、海大甲種21期を卒業した。_NEWLINE_「夕張」航海長、呉軍需部員、アメリカ駐在、資源局事務官、給炭艦「野島」特務艦長、海軍省軍務局第2課長、「磐手」艦長、艦政本部総務部第1課長などを経て、1936年12月、海軍少将に進級。佐世保工廠造兵部長、企画院交通部長、同第6部長、佐世保工廠長を歴任し、1940年11月、海軍中将に進級した。_NEWLINE_1941年12月、逓信省海務院長官となり、さらに第2遣支艦隊司令長官を勤め、軍令部出仕を経て、1943年9月、予備役に編入された。 | 17820891668928812739 |
Q2389474 |
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参同契
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参同契(さんどうかい)は、中国唐代の禅僧石頭希遷による禅の詩。_NEWLINE_参は現象、同は平等、契は一致という意味で、現象と平等とは一致しているという意味となる。_NEWLINE_曹洞宗では毎朝の仏祖諷経で『宝鏡三昧』と交互に読まれる。
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概要
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五言×44句の220字からなる。2句、4句の偶数句ごとに韻が踏まれている。_NEWLINE_当時、南北に別れていがみ合っていた禅宗の融和をはかるために作成されたとされる。 | 9594940783056531252 |
Q1328833 |
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反抗挑戦性障害
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定義
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精神医学的障害の一種である。
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世界保健機関
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世界保健機関のICD-10精神と行動の障害においては、F91行為障害の下位分類であるF91.3反抗挑戦性障害である。_NEWLINE_この障害は挑発的であるが、攻撃的な行動が存在しないことで診断される。つまり窃盗といった法的な侵害は存在しない。小さな子供に限られ、明らかに同年齢の子供の正常な行動範囲を超えているものであり、行為障害の軽度なものと考える専門家が多い。行為障害の基準を満たすことが必要であり、それは反復し持続していることが必要であり、6か月以上の持続がなければ、診断は推奨できない。つまり単発的な反社会的なエピソードは診断の根拠とならない。
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鑑別診断
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これらは、通常の発達上のアイデンティティ確立のための、成長に必要な反抗的な行動とは異なる。反抗挑戦性障害は、環境が変わっても持続するものである。診断基準の注釈と診断基準Bにあるように、同年齢の発達において認められる水準を超えており、頻繁であり、それによって社会的、学業上等の顕著な障害が生じていることが必要である。つまり、持続的な経過があり、症状が著しい苦痛や機能障害をもたらしている場合にのみ、診断してもよい。_NEWLINE_典型的には、攻撃行動、物質的な破壊の形をとらない。_NEWLINE_親子関係の問題であれば、診断コードはV61.20である。周囲からの過剰な期待に対するストレス反応であれば、適応障害の可能性がある。親の完璧主義や過剰な要求に対する当然な反応である可能性もある。子供が親と良好な関係にない場合、不注意な反抗挑戦性障害の診断に注意が必要である。特に小児や思春期では家族や環境に対するストレス反応であることもあり、初期の診断は不適切となりやすく慎重に診断すべき、あるいは診断しないようにすべきである_NEWLINE_また注意欠陥・多動性障害の衝動性や、双極性障害の易刺激性などと鑑別する必要がある。_NEWLINE_また併発しやすい疾患には、抑うつや薬物乱用がある
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管理
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治療法には、ペアレント・トレーニング、個人精神療法、家族療法、認知行動療法、ソーシャルスキルトレーニングなどがある。
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原因
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原因は現在のところ分かっていない。
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疫学
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ODDの生涯有病率は10.2%(男性11.2%、女性9.2%)と推定されている。 | 17540838515256608422 |
Q10915758 |
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台湾青年社
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概要
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王育徳は25歳で1949年台湾から日本へ亡命。東京大学文学部支那哲学科に復学し、その後、学部、大学院修士課程、博士課程を修了。言語学の面から台湾のアイデンティティーを確立証明するため台湾語を研究し、在学中に『台湾語常用語彙』を出版。卒業を待って、1960年台湾青年社を設立、日本に留学している台湾人留学生の啓蒙運動と、日本人に対する国際宣伝工作を展開した。台湾独立を主張するため、日本語版『台湾青年』を隔月刊で創刊し、宣伝活動に従事した(第十号からは月刊。2002年500号をもって停刊)。創立当時のメンバーは王育徳の他に黄昭堂、廖春栄、蔡季霖、黄永純、傅金泉で、その多くが王育徳の台南一中教師時代の教え子であった。その後の初期の参加者としては許世楷、張国興、周英明、金美齢、林啓旭、侯栄邦等の台湾人留学生、及び宗像隆幸(ペンネーム宋重陽)が挙げられる。1963年、王育徳は『台湾ー苦悶するその歴史』(弘文堂)を出版。台湾独立の正当性を歴史的見地、国際法的見地、社会学的見地から著した。_NEWLINE_台湾青年社は日本語版『台湾青年』の他にも、「独立通訊」、『Formosan Quarterly』、漢文版『台湾青年』、日文版・月刊『台湾』などを通して台湾国内での啓蒙、宣伝活動を展開した。1963年5月に「台湾青年会」と改名し留学生運動を展開し、更に1965年9月、台湾青年独立連盟と改称。雑誌発行の他にも、デモなどの行動で台湾独立をアピールし、国連に対し台湾自決への支持を訴えた。_NEWLINE_1970年1月1日、在米台湾独立聯盟、欧州台湾独立聯盟、カナダ台湾人権委員会、台湾自由聯盟(台湾内の地下組織)の独立運動者らと、台湾独立聯盟を組織し、合流した。 | 5423826702364212960 |
Q181924 |
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右翼団体
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日本の右翼
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日本の右翼団体は、通常は観念右翼、正統右翼、仁侠右翼、革新右翼(国家社会主義)、街宣右翼、宗教右翼、新右翼(民族派)、行動する保守などに分類される。また「右翼団体」の呼称はあくまで左翼との比較における名称であるため、自ら右翼団体と標榜することはなく一般には「愛国者団体」という表現をする(連絡機関の団体名にも「愛国」の文字が見られる)。伝統的な意味の右翼思想は、伝統や文化の価値を重視する保守主義であり、日本の右翼が思想的な源流を主張するのは近世の国学や、明治維新の三傑と目されながらも士族の反乱である西南戦争を起こした西郷隆盛などである。これらは、西洋化につながる近代化や、それを推進する中央政府を警戒し、地域の宗教や歴史や習俗の独立性や継続性を重視する、保守的・伝統的・地方主義的な右翼潮流として、以後の政府や資本家の用心棒的な「観念右翼」や、社会主義に対抗し、国内の腐敗を除去する「革新」を打ち出す「革新右翼」とは別に存在していくことになる。_NEWLINE_日本では、車両を用いて駅前や街頭、官公庁近辺や攻撃対象となる企業や集会場の周辺等で大音量による抗議、宣伝活動や公道を大音量の音楽を流して走行する「街宣右翼」が広く知られ「典型的な右翼」と見られがちであるが、この活動方法は1970年(昭和45年)内外にあらわれたものであり、一部の団体は暴力団と表裏一体の右翼団体(仁侠右翼、右翼標榜団体)であり、思想面での政治運動には積極的ではなく、企業恐喝や政治家有名人恐喝などを目的としたいわゆる偽装右翼団体の場合がある。
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明治以降
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日本の右翼思想が確立するのは明治時代であるが、その源流は、江戸時代後期の国学者の一部が標榜した国粋主義や皇国史観などが挙げられる。また日本の右翼団体の起源は、1868年(明治元年)1月3日の明治維新(王政復古の大号令)だと目される。これを14年遡った1854年(安政元年)3月31日に、江戸幕府13代将軍徳川家定が鎖国を撤廃した時、勤王反幕の政治家が勢力を増した。幕末に生み出された大量の尊王派の志士の組織活動は、維新の成功によりいったんは政権に組み込まれ消失する。_NEWLINE_画期となるのは征韓論事件を境とした九州・山口でおこった一連の士族反乱である。西郷を敬愛し国学・朱子陽明学の実践を願いながらも死にそびれ、あるいは取り残された者たちの在野集団が1881年(明治14年)に頭山満らが結成した玄洋社であり、これが日本の観念右翼のはじまりとされている。_NEWLINE_1880年代に自由民権運動が発生し、激しい反政府運動が盛り上がった。明治政府は自由民権運動を公権力で取り締まるとともに、しばしば任侠集団に政治団体を結成させ、民権運動家の活動を妨害・弾圧する手段とした。その後、社会主義運動の高まりと共に労働争議、小作争議が各地に広まると、政界、財界からの要望により、任侠系の政治団体がそれらの運動妨害、弾圧運動に大きな役割を果たした。この系統を引く団体は、「任侠右翼」(暴力団系右翼)などと呼ばれる。_NEWLINE_1910年代になると社会主義思想が日本にも波及してきた。政府はこれに自由民権運動以上の拒否反応を示し、公権力と任侠集団で取り締まりや妨害を行った。これらの任侠集団は明治元勲たちとも結びつきが強く、自由主義や社会主義に対抗して、国家を擁護する右翼団体を結成した。_NEWLINE_また、近代化の過程で生じた諸矛盾を解決を目指す政治団体として、平等を目指す2つの流れが生じた。一つは社会主義革命により平等を目指そうとする流れ。もう一つは天皇の下に万民は平等であるとする流れである。これは、日清戦争や日露戦争を背景に、中華民国の成立や李氏朝鮮の近代化に関与した大アジア主義の潮流に乗る。また、社会主義の影響もとで国家主義によるアジアの近代化の実現を目指したために社会主義との接近をも起こし、その思想潮流はいわゆる国家社会主義や社会主義との複雑な影響の元にあった。思想的傾向は、必ずしも反共主義ではなく、反欧米色が強かった。この系統を引く団体は、「正統右翼」などと称される。_NEWLINE_財界の要望に立ち労働運動を弾圧する「任侠右翼」(暴力団系右翼)と、理想を掲げて凡アジア的活動を行う「正統右翼」は、戦前の右翼団体の2つの大きな系統であった。これらは利害が一致する財界、軍部から資金援助を受けて活動をしていたと田中隆吉は述べている。_NEWLINE_世界恐慌時代には、右翼も社会主義から強い影響を受け、一部の国学の系統を引く日本の保守思想家や左翼からの転向組の中から国家社会主義思想を持つグループが現れた。この系統は革新右翼と言い、陸軍の皇道派に近い民族主義的な観念右翼と、陸軍の統制派に近い革新右翼が対立を起こすようになる。これらは日独伊三国軍事同盟締結時の陸海軍の対立や、五・一五事件、二・二六事件などにも影響を与えた。右翼は大東亜戦争(太平洋戦争)直前に締結された日独伊三国軍事同盟については支持する立場を採ったが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムに対しては、自由主義や社会主義と同様の外来思想と受け止められ、東方会などの一部の団体を例外として大半からは無関心もしくは排斥の対象として捉えられていた。
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第二次世界大戦終結後
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1945年(昭和20年)に日本政府は降伏文書に調印した(第二次世界大戦での日本の降伏)。GHQにより多くの右翼団体は軍国主義の温床と見なされ、弾圧を受けた。また、右翼団体のパトロンであった軍部の消滅、財閥の解体、農地改革による地主層の没落により、資金面でも厳しい局面に追い込まれた。これにより革新右翼の流れを汲む民族派右翼(陸軍系)は衰退し、親米右翼の流れが増えていった。
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冷戦後
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冷戦時代には暴力団とつながった体制寄りの親米右翼が多かったが、冷戦終了後に施行された暴力団対策法や各地の暴力団排除条例により衰退し、反体制的な反米右翼も相対的に目立つようになっている。_NEWLINE_21世紀に入ってからは在日特権を許さない市民の会に代表される、嫌中(反中)・嫌韓(反韓)を軸とした市民運動的スタイルの「行動する保守」が台頭し、街頭デモやインターネットを利用した「排外主義」的な宣伝活動で、国連の人種差別撤廃委員会を初め、国内外から批判されている。一方、神州蛇蝎の会のように「日韓連携」を訴える団体も存在する。
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戦前(精神派・理論派)
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戦前は組織・行動という分類ではなく、「純正日本主義」と「国家社会主義」とに分類され、前者は「精神派」、後者は「理論派」とされている 。大学内にも右翼研究団体が多くあり、昭和初期の主たるものとしては、東大の朱光会、七生社、京大の猶与会、東京一高の瑞穂会(いずれも会員50-60名)のほか、満州事変を契機として生まれた私大生を中心とする愛国学生連盟(加盟者約一万)、官私大・各種学校生徒に青年を加えた愛国青年連盟(加盟者数千)などがあった。
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組織
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伝統的な保守右翼、親米右翼、街宣右翼、観念右翼などとは別に、1960年代には学生運動など過激な左翼系運動の多発に対抗する形で、民族系右翼の大規模な組織化が行われた。右派学生らが立ち上げた民族派学生組織のうち、日本学生会議・日本学生同盟(2007年解散)・全国学生自治体連絡協議会などは、民族主義の立場から反米を含めた「YP体制打倒」を掲げ、大きな影響力を持った。しかし対抗勢力であった左翼の学生運動の退潮や組織の分裂により、民族派学生組織の運動も退潮し1990年代以降は目立った活動をほとんどしていない。_NEWLINE_現在では、戦前からの系譜を引く任侠右翼や街宣右翼でも構成員数が三桁に達するところは皆無といってよい。ただし、任侠系はある程度組織が大きくなると部下に独立を促し別団体を結成させるため、個々の組織間の連携は密に取れている場合が多い。これら、任侠右翼や街宣右翼の構成員には、少からぬ数の在日韓国・朝鮮人が存在する組織があるのも特徴である。
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政治的主張
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日本の右翼の主な政治的主張として、天皇制護持、反共主義、自主憲法制定論、国旗掲揚・君が代斉唱に賛成、太平洋戦争(大東亜戦争)の肯定・YP体制打破・靖国神社参拝、国防政策の強化・強硬的な外交政策の支持の支持などが挙げられる。政党に関しては、戦後最大の保守政党であり、長期間政権を保持している自民党や民主党の右派(主に旧新生党・民社党系)を支持する者が多いが、天皇親政の立場から議会制民主主義打倒を唱えたり独自の民族主義政党(維新政党・新風等)を組織する急進派も一部存在する。また、憲法改正論議では、ホワイトハウスによる「押し付け憲法論」・安全保障上の問題点等を指摘して改憲を主張したり、憲法無効論を唱える者も存在する。_NEWLINE_対外的には、当事国や日本の左翼勢力が「その責任は日本政府にある」とする2005年(平成17年)の反日デモや前述の靖国神社問題、尖閣諸島の領土問題などから中華人民共和国と中華民国(台湾)、同じく反日デモや靖国神社問題、竹島の領土問題などから韓国、日本人拉致問題などから北朝鮮、ソ連の対日参戦の経緯や、それによってもたらされた北方領土問題からロシア(1991年)まではソビエト連邦)の5国を批判する事が多い。さらに、反共の立場と歴史認識の葛藤からベトナムや、反共の立場からキューバ、親米の立場から中東諸国、パキスタン、東ティモールなども批判の対象となることもある。_NEWLINE_ただし、アメリカや韓国に対しての認識は団体によって異なる。反共の立場からアメリカや韓国を支持して来た右翼団体もあるが、冷戦後は靖国神社に対する態度や、1945年以前の世界を巡る歴史認識等を巡って、アメリカや韓国を批判する右翼が増えている。同様に、西側勢力にとって最大の脅威であったソビエト連邦が消滅したため、現状の日米安保体制は対米従属を推進させるだけだとして反米の立場を採った団体もあるが、中華人民共和国と北朝鮮の軍事的脅威や、ロシアとの間で抱えている領土問題で日本が不利な立場に立たされている事を主張して、依然として親米の立場を採る団体もある。_NEWLINE_従来から反共のスタンスで中華人民共和国を否定し、中華民国を中国を代表する政府とするのが多くの右翼の立場であり、チベット独立運動、東トルキスタン独立運動、内モンゴル独立運動を支持する事が多い(独立運動は活発ではないが満州の独立を支持する団体もある)。しかし、中華民国は第二次世界大戦の連合国の一員であり、1945年(昭和20年)以前の世界を巡る歴史認識では日本の右翼と葛藤する立場である点から、近年は中華民国自体を否定し、台湾独立運動を支援する動きも見られる(なお中華民国が成立するまで台湾は大陸にとって人外・未開の地であり、一国として認識されてはいなかった)。これら活動の根拠として民主主義・人権・中国脅威論・民族自決などを唱えている。_NEWLINE_左派系メディアの傾向があるとされる朝日新聞や毎日新聞に対しては、1990年代の慰安婦に関する一連の報道などから特に批判的である。また地方紙では北海道新聞や中日新聞、琉球新報、沖縄タイムスが敵視されている場合が多い。保守的論調の傾向がある読売新聞や産経新聞に対しては、肯定的な考えを示すことが多いが、場合によっては批判することもある(読売新聞が2004年に提言した憲法改正案で「天皇」の項目を第一章ではなく、第二章にした事を批判した事もある)。また、日本経済新聞に対しては、近年における大企業の中国への進出から、中国への肯定的な報道姿勢や進出した日本企業がチャイナリスクで生じる日本経済への影響もあるため、批判的であることが多い。日本経済新聞の論調である親米保守的な新自由主義やグローバリズムと、農本主義などの民族主義思想は基本的に相容れないものである。
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主な批判対象諸国
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日本の多くの右翼団体では、反共主義の立場からソ連崩壊までのソビエト連邦や、中国や北朝鮮などの国家・体制・政府や共産主義政党を批判している。また中国に弾圧されているチベット・東トルキスタン・内モンゴルなどの自治独立運動を支持する立場もある。冷戦期には、大日本愛国党などの大半の右翼団体は反共の立場から親米・親韓・親台湾・親体制(親米右翼)であったが、新右翼などは反共・反米・反体制(反米右翼)であった。冷戦後は多くの右翼団体が親韓から反韓に転換したが、行動する保守の中には一部の既存右翼団体に在日韓国人が参加していることを非難する者もいる。_NEWLINE_国家主義や民族主義の立場から、過去の南下政策や北方領土問題などでロシアを、竹島問題などで韓国や北朝鮮を、尖閣諸島問題などで中華人民共和国や台湾(中華民国)を批判する立場もある。また極東国際軍事裁判やGHQによる日本占領政策や靖国神社問題などを国際法違反の内政干渉として、当時の連合国を批判する立場や、欧米の新自由主義などを経済侵略や文化侵略と批判する立場もある。_NEWLINE_更に日本や東洋の文化伝統や歴史を重視する保守主義や民族主義の立場からは、欧米型の個人主義・民主主義・自由主義などを批判し、近代化や、男女平等や死刑問題などの人権問題、捕鯨問題や環境保護運動、これらを含む教育問題などで、アメリカ合衆国・欧州連合・オーストラリア・ニュージーランドなどの欧米諸国や、その立場を反映しているとして国際連合や各種の非政府組織などを批判する立場もある。また宗教面ではキリスト教やイスラム教などの唯一神教に対し、多神教の神道や、あるいは仏教・儒教などの優位点を主張する立場もある。 | 11662190681567479751 |
Q11412239 |
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司城志朗
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司城 志朗(つかさき しろう、1950年1月25日 - )は、日本の小説家。愛知県出身。_NEWLINE_名古屋大学文学部卒業。放送作家などを経て小説家に。1983年、矢作俊彦との共著作品『暗闇にノーサイド』で第10回角川小説賞、1994年、『ひとつぶの砂で砂漠を語れ』で第3回開高健賞奨励賞、1998年、『ゲノム・ハザード』で第15回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞。 | 12239306439664883455 |
Q4138901 |
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吉林省 (中華民国)
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行政府沿革
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1912年(民国元年)、辛亥革命により南京臨時政府が成立したが、吉林地区はなおも清朝の支配地域であり、東三省総督の下の吉林巡撫により統治されていた。同年3月、東三省総督が廃止、吉林巡撫は吉林都督と改称され軍政長官となり、民政長官としてはかつて吉林巡撫の下の民政使(1913年に民政長、1914年に巡按使、1916年に省長と改称)が当てられた。1918年12月31日、張学良が易幟を実行したことで、南京国民政府は吉林省政府の設置を実施、ここに吉林省が正式に誕生した。_NEWLINE_1931年(民国20年)の満州事変以降は関東軍の影響下に入り、1932年(大同元年)以降は満州国の領土に編入され、中華民国による支配は一旦中断したが、1945年(民国34年)8月15日の日本の敗戦により満州国は自然消滅、国民政府は旧吉林省地区に吉林省、松江省、合江省の3省を設置、9月には吉林省政府が再興された。_NEWLINE_1947年(民国36年)に行政院は東北9省の行政区画を発表、吉林省は18県2市、1旗を管轄するとされたが、翌1948年に中国共産党の支配下に入り中華民国の行政権は消滅した。
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省会
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満州国成立以前は吉林県、戦後は吉林市に省会が設置された。 | 13105499190043739976 |
Q11413341 |
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吉根城
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概要
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守山丘陵の麓にある独立丘陵に位置しており、北側は庄内川が流れている。城址は上島古墳群の一部となっており、神明社が建立されている。織田信雄分限帳に北野彦四郎が吉根を治めていた事が書かれているが、それ以外の文献で北野氏が出てこないため詳細不明である。 | 3098964202533880217 |
Q11414029 |
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吉田知弘 (音響監督)
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吉田 知弘(よしだ ともひろ)は、日本の音響監督。フリーで活動している。代表作は『ストライクウィッチーズ』、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』。
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経歴
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10代のころから音楽を趣味としていたが、銀行員である家族の教育もあり、趣味と仕事は分けて考えていた。しかし、その教えに違和感を覚えることもあり、そんな時期に『ヤマトよ永遠に』などで音楽ディレクターを務めていた中学・高校時代の先輩とともに仕事をする機会を得る。その後、その先輩の紹介でウェスト・ケープ・コーポレーションへ入社し、「BGMコレクション 宇宙戦艦ヤマト」や『YAMATO2520』などの1990年代の「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」の仕事に携わる。当初はCD製作を主な仕事とする音楽ディレクターだったが、高校時代に演劇部に所属していたことから音響監督の道を勧められ、アーツプロへ移籍。『プリンセスナイン 如月女子高野球部』で音響監督としての独り立ちを果たすことになる。現在は、楽音舎を経て、フリーランスの音響監督となっている。
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参加作品
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※特筆のないものは全て音響監督としての参加 | 18429002269168013521 |
Q11414206 |
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吉祥院天満宮
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歴史
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菅原道真の曽祖父・土師古人(はぜのふるひと)が平安遷都に際し天皇の供として入京し賜った地でここに邸を構えた。祖父・菅原清公の代で菅原姓へ改姓する。清公が遣唐使として唐へ向かう途上(もしくは帰国時)、嵐に遭遇しながらも吉祥天女の霊験により難を逃れ、以降菅原家では吉祥天信仰となる。清公が帰国後もしくは道真の父・菅原是善が、この地の自邸内に祀り吉祥院とした。これが地名の由来ともなる。_NEWLINE_菅原道真はこの地で845年(承和12年)に誕生し、18歳で転居するまでこの地で過ごしたとされる。903年(延喜3年)に道真が大宰府の地で没した後、この地に吉祥院聖廟を設置し、その霊を祀る。その後、怨霊鎮魂のために朱雀天皇勅願により、934年(承平4年)この地に社殿を築くなどして道真公の霊を祀ったことが始まりとなる。 | 10633222318541905143 |
Q30930841 |
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吉野七宝実
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来歴
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短大在学中からモデルとして活動を始めた。ボルダリング専門誌の表紙を務めるなどスポーツ女子として活動。競輪専門・SPEEDチャンネルのキャンペーンユニット・スピーチーズのメンバーに選出された。2015年3月にスピーチーズを卒業した。_NEWLINE_2016年2月より、秋葉原にあるガールズおむすびカフェ「ガルむす」勤務。同年、同じスターレイプロダクションの白井香帆(きゃろれる)とオタ芸ユニット「WKAS」を結成した。同年9月から11月まで、中国・上海にて動画配信サイト・花椒で動画配信を行った。_NEWLINE_2017年4月より、西口プロレスラウンドガールユニット・西口向上委員会のメンバーとしても活動。2017年からAbemaTV「ピーチゃんねる」レギュラーレポーターを務める。AbemaTV「ピーチゃんねる」、「妄想マンデー」の広報大使となる『ミス妄ピー』の視聴者投票にて、準ミス妄ピーに選出される。この年にはミスFLASH2018にエントリーし、ファイナリストまで進んだがグランプリ受賞はならなかった。 | 4635505337801906255 |
Q18337609 |
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名古屋シネマテーク
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ナゴヤシネアスト
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1970年代初頭の名古屋にはシネクラブ連絡会議の構成団体である名古屋シネクラブがあり、『中国女』(ジャン=リュック・ゴダール監督)、『地下水道』(アンジェイ・ワイダ監督)などの自主上映会を毎月1本の頻度で2年ほど行っていた。その他にも様々な自主上映会があり、また大学の映画研究会による上映会も盛んにおこなわれた。『中国女』の上映会には2日間で700人から1000人もの観客が集まったという。_NEWLINE_1971年(昭和46年)1月23日、現名古屋シネマテーク代表の倉本徹が所属する名古屋大学映画研究会は、名古屋市中区で初の自主上映活動を行った。この頃は高校生・大学生の会員が7割を占めていた。1972年(昭和47年)には映画研究会が空中分解したが、1973年(昭和48年)には活動を再開し、倉本を代表とする自主上映サークル「ナゴヤシネアスト」(シネアストとは映画人の意味)となった。ナゴヤシネアストは大島渚監督特集、ジャン=リュック・ゴダール監督特集、ポーランド映画特集、ソ連映画特集、アラン・レネ監督特集などを上映したが、名古屋市内の貸しホールを使った上映活動は赤字続きだった。_NEWLINE_倉本は地元予備校の河合塾講師として活動資金を稼ぎながら、ナゴヤシネアストは9年間に渡って自主上映活動を続けた。1976年(昭和51年)には大須に実験映画専門の大須実験ギャラリーが開設され、自主上映団体が定期的な上映を行った。やがて自主上映団体の多くが消えてゆき、1980年代まで残ったのはシネマルームT&Gとナゴヤシネアストくらいとなった。1980年(昭和55年)のナゴヤシネアストは年間約80日間の上映活動を行い、100本以上の映画を上映した。
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名古屋シネマテーク
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1982年(昭和57年)6月26日、かつて今池スター座が入居していた今池スタービル(雑居ビル)に名古屋シネマテークが入居し、常設映画館としての活動を開始。開館にかかった工事費・設備費の総額は974万円であり、35mm・16mm映写機を常設して興行場としての認可を受けた。固定席は40席(最大収容数80人)であり、これは現在も変わっていない。6月26日の初回上映作品は羽田澄子監督の『早池峰の賦』であり、その他はハンガリーアニメーション特集、ハンガリー映画祭、イタリア映画傑作選、シュレンドルフ回顧展というラインナップだった。開館後の半年間は金・土・日の週3日上映であり、フロアの賃貸料は月額約20万円の安さだった。_NEWLINE_名古屋シネマテークは名古屋市で初のミニシアターであり、開館翌年の1983年(昭和58年)には名古屋駅の西側にシネマスコーレが開館している。1984年(昭和59年)からは週7日上映に移行し、同年末の勅使河原宏監督・『アントニー・ガウディー』は2週間で5,000人近くの動員を記録。1987年(昭和62年)には、1982年の開館時からスタッフを務めていた平野勇治が支配人に就任した。2000年代半ばまで長らく、名古屋シネマテークは企業ではなく同好会だった。_NEWLINE_1990年代の名古屋シネマテークは「安定期」であり、ミニシアターとしては異例の年間50,000人もの観客を集めた。1998年(平成10年)に全国的に大ヒットを記録した『ムトゥ 踊るマハラジャ』は名古屋シネマテークでも好評だったが、倉本はこの頃を境に「下降期」が続いていると語っている。2003年(平成15年)12月にアッバス・キアロスタミ監督の『10話』を公開した際には、別件で訪日中のキアロスタミ監督が突如名古屋シネマテークに現れ、舞台挨拶を行なって観客と支配人を驚かせた。_NEWLINE_1982年の開館当初から名古屋シネマテークは同好会という立場だったが、2006年(平成18年)頃に一般社団法人名古屋シネマテークとなった。2006年頃には今池スタービルからの移転も計画されたが、移転計画先ビルの耐震偽装問題によって頓挫。2014年(平成26年)にはシネマ・シンジケートに加盟しているミニシアターや独立系映画館で相互割引制度が開始され、名古屋シネマテークは制度導入の発起者となった。
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特徴
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上映作品は洋画・邦画を問わず、ロードショー公開作品から監督特集などの企画物などバラエティに富んでいる。ポーランド映画特集、ダニエル・シュミット監督特集、土本典昭監督特集、小川紳介監督特集など個性的な特集に力を入れ、毎年12月中旬に自主製作映画フェスティバルを開催している。自主製作映画フェスティバルでは審査を経て上映する「招待作品」プログラムと、無審査で上映する「何でも持って来い!」プログラムの2部構成である。園子温(『愛のむきだし』など)、黒沢清(『トウキョウソナタ』など)、冨永昌敬(『パビリオン山椒魚』など)、沖田修一(『南極料理人』など)、古澤健(『今日、恋をはじめます』など)、松尾スズキ(演出家・脚本家)などは無名時代に自主製作映画フェスティバルで作品を上映されたことがある。_NEWLINE_座席数は40席と、日本のミニシアターの中でも小規模な部類であり、パイプ椅子・座布団・立ち見などで座席数の2倍以上の観客を入れることもある。代表の倉本徹は開館した1982年から無給で活動している。所蔵12,000冊の映画図書館を併設しており、会員であれば無料で、非会員も有料で貸出可能。映画館としての事業以外にも、「名古屋シネマテーク叢書」として小川紳介監督や古厩智之監督についての書籍を出版している。コミュニティシネマの会員相互割引サービスに加盟しており、名古屋シネマテークの会員証を持っていれば全国20以上のミニシアターで会員割引を受けられる。_NEWLINE_園子温、山村浩二(『頭山』など)、山下敦弘(『リンダ リンダ リンダ』など)、七里圭などの映画監督は、若い頃に名古屋シネマテークに通っていたことを明らかにしている。園は昼間に名古屋シネマテークで映画を見ては、夜は今池界隈で飲んだくれ、その後はシネマテークのスタッフの部屋に泊まり込むという日々を送っていたことがある。愛知県のみならず、三重県・岐阜県の一部を商圏としている。
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今池の映画館
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名古屋シネマテークが所在する今池は「映画の街」として知られ、最盛期の1960年代から1970年代前半には8館の映画館が同時に存在した。今池交差点北西角の新今池ビルには、今池劇場、今池名画劇場、今池地下劇場などが存在した。今池劇場は洋画ロードショウ館であり、今池でもっとも人気のある映画館だったが、1997年に今池名画劇場とともに閉館した。_NEWLINE_今池駅8番出口前には東宝の封切館の今池国際劇場、ミニシアターの今池国際シネマが存在したが、運営会社のエフワンが2006年に民事再生法の適用を受けたため、いずれも同年8月19日に営業停止となった。そのほかにも、ロッポニカ今池、今池アカデミー劇場、今池フジ劇場、今池スター劇場などが存在した。今池スター劇場は洋画2本立ての三番館であり、跡地には後に名古屋シネマテークが入居した。今池アカデミー劇場は閉館後に芝居小屋となったが、2000年代に芝居小屋も閉館となった。現在も今池で営業している映画館は、名古屋シネマテークのみである。 | 5613137560895464253 |
Q30922631 |
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名古屋メダル
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名古屋メダル(なごやメダル)は、有機合成化学分野において業績を残した化学者に与えられる賞である。
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概要
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科学技術振興機構研究開発戦略センター長で名古屋大学特別教授の野依良治とシカゴ大学・中部大学教授、名古屋大学名誉教授の山本尚が発案し、財団法人万有生命科学振興国際交流財団(現・公益財団法人MSD生命科学財団)の支援を受け、1995年(平成3年)に創設されたもの。_NEWLINE_国際的に偉大な業績をあげた合成化学者に贈られるゴールドメダルと合成化学分野において優れた業績をあげ、今後の発展が期待されるライジングスターに贈られるシルバーメダルがあり、名古屋メダル組織委員会の選考により選出されている。
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特別賞
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2006年、タイのチュラポーン皇女が化学とその関連分野の発展に献身されたとして名古屋メダル特別賞(ゴールドメダル)を受賞している。 | 17393542617121742809 |
Q11415392 |
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名岐鉄道キボ50形気動車
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名岐鉄道キボ50形気動車(めいぎてつどうキボ50がたきどうしゃ)は、名岐鉄道(名古屋鉄道の前身会社)が新製したガソリンカー。後年電車化(制御車化)改造を受けク2060形と改称・改番されている。 | 9648190097099584335 |
Q28691351 |
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呂号第百潜水艦
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艦歴
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1941年(昭和16年)の昭和16年度計画(マル臨計画)により1941年6月30日、呉海軍工廠で起工。1941年12月6日進水。 1942年(昭和17年)9月23日に竣工し、二等潜水艦に類別。同日、横須賀鎮守府籍となり、訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊に編入された。_NEWLINE_12月15日、第八艦隊第7潜水戦隊に編入。_NEWLINE_20日、呂100は横須賀を出港し、28日、トラックに到着。1943年(昭和18年)1月6日、トラックを出港したが機関故障により引き返した。修理の後2月3日にトラックを出港。6日、ラバウル北西沖で浮上航走中、零式水上偵察機から誤爆されるも、ダメージは軽微で済んだ。7日にラバウルに到着。8日にラバウルを出港し、ポートモレスビー沖で哨戒を行う。14日1630、ポートモレスビー南南西40浬地点で輸送船団を発見。潜航して2.5ノットで攻撃地点に移動する。しかし、護衛の米駆逐艦に発見され、それに気づいた呂100は深度43mへ急速潜航した。米駆逐艦は爆雷12個を投下。爆雷の爆発により潜望鏡が2本とも破損し、機関室と司令塔に浸水。艦は艦首を上にして傾斜するも、その後水平に戻った。20日、ラバウルに帰投し修理を受ける。_NEWLINE_修理完了後の4月1日、呂100はラバウルを出港し、い号作戦参加のためガダルカナル島南東沖に向かったが、ジャイロスコープが故障したため哨戒を中止。12日にラバウルに到着。15日、第8潜水戦隊は南東方面艦隊所属となる。_NEWLINE_4月22日、呂100はラバウルを出港し、ガダルカナル島南東沖に進出。5月14日、ラバウルに到着。_NEWLINE_5月27日、呂100はラバウルを出港し、ガダルカナル島南東沖に進出。6月20日、ラバウルに到着。_NEWLINE_7月2日、呂100はラバウルを出港し、レンドバ島南東沖に進出。その後、夜にニュージョージア島の米軍飛行場を潜望鏡偵察するためにブランチェ水道内で潜航中、座礁。魚雷発射管2本と燃料タンクが損傷した。その後、シンボ島の不時着搭乗員を救助し、ブインに移送した。12日、ラバウルに到着。_NEWLINE_8月7日、呂100はラバウルを出港するが、出港後に7月の座礁事故で損傷していた燃料タンクから燃料が漏れているのがわかり、一旦ラバウルに戻って応急修理した後再度出港。8日、ブカ島北東沖を浮上航走中、米潜に発見されて魚雷4本を発射されるが、幸いにも命中しなかった。同日夜、セント・ジョージ岬付近を浮上航走中、米PBY カタリナに発見され、爆弾2発を投下される。呂100は急速潜航して退避した。11日、ラバウルに到着して修理を受ける。その後、ラバウルを出港して哨戒を行い、9月初めにラバウルに到着。哨戒中の8月20日、呂101、呂104、呂105、呂106と共に第51潜水隊を編成する。_NEWLINE_9月7日、呂100はラバウルを出港し、ニューギニア北方沖で哨戒。18日、ラバウルに寄港した後、トラックに移動して整備を受ける。_NEWLINE_11月10日、呂100はトラックを出港し、19日にラバウルに到着。ゴム製の容器入りの食糧を積み込む。23日0500、呂100は輸送物資を乗せてラバウルを出港。11月25日、ブイン北口水道オエマ島西方で浮上航走中、左舷中央部に触雷。爆発により艦橋にいた艦長の大金久男大尉と見張り員が海上に投げ出された。機関長が急速に沈む呂100を放棄するよう指示。その後呂100は沈没した。生存者はブインに向かったが、途中で鮫に襲われて死亡する者がでた。生存者12名が救助された。艦長の大金久男大尉以下乗員38名が戦死。沈没地点はオエマ島西方2浬地点付近、南緯06度50分 東経155度58分。_NEWLINE_1944年(昭和19年)2月5日に除籍された。 | 10067270098983771922 |
Q196064 |
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呉振宇
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経歴
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咸鏡北道の農民の家庭に生まれ、パルチザン第一世代として抗日ゲリラ闘争に初期から参加。1935年、東北抗日聯軍第5軍第2師第5団に属し、寧安、額穆地方で戦った。1937年7月に中国共産党に入党。1942年に編成された第88独立狙撃旅団(教導旅)においては、第1営第1連第1排副排長を務める。_NEWLINE_太平洋戦争終結後の1946年9月から中央保安幹部学校軍事副校長、第3旅団参謀長、旅団長、第3軍官学校校長として朝鮮人民軍の強化に貢献。朝鮮戦争時には人民軍第766連隊長、第43師団長、最高司令部副参謀長、第6軍団参謀長、近衛ソウル第3師団長を歴任。朝鮮戦争後は人民軍空軍司令部参謀長、総参謀部副参謀長、民族保衛省副相(次官)、金日成軍事総合大学総長を歴任した。_NEWLINE_1956年4月の朝鮮労働党第3回党大会において党中央委員候補に選出され。1961年9月の第4回党大会において党中央委員に昇進した。1967年、朝鮮人民軍総政治局長に任命される。1968年12月、総参謀長に就任し、1979年まで務めた。_NEWLINE_1970年11月の第5回党大会において党中央委員会政治委員会委員(現在の政治局委員)・中央委員会書記に選出され、党内序列第7位となる。1972年12月28日、前日の憲法改正によって設置された中央人民委員会の委員に列し、同委員会の付属機関である国防委員会の副委員長を兼任する。1976年5月14日、人民武力部長に就任。_NEWLINE_呉は北朝鮮を建国した金日成と同じパルチザン派で、金日成の前で唯一タバコを吸えるほど信頼の厚い腹心であった。金日成の後継者として長男の金正日が擁立される際、呉は金正日の異母弟金平一の後ろ盾として、金正日と対立した。しかし、金正日の懐柔工作によって呉も態度を軟化し、1976年6月の会議では金東奎国家副主席が公然と金正日後継を批判すると、呉は金東奎を批判している。_NEWLINE_1980年10月、第6回党大会において政治局常務委員・中央軍事委員会委員に選出され、序列3位に昇格した。軍の最高幹部として重きをなした呉は、1985年4月13日、中央人民委員会より朝鮮人民軍次帥の称号を授与される。1987年3月3日、生誕70周年を記念して金日成勲章を授与された。_NEWLINE_1992年4月20日、朝鮮労働党中央委員会、党中央軍事委員会、国防委員会、中央人民委員会の決定により、呉は元帥に昇進した。同日、金正日も「朝鮮民主主義人民共和国元帥」の称号を授与されている。日本のジャーナリストである平井久志は呉の元帥昇進について、朝鮮人民軍最高司令官に就任した金正日が軍部の掌握に向けて、パルチザン世代であり、自分の後継体制構築に寄与した軍幹部のトップである呉振宇人民武力部長を自分と同じ「元帥」の地位に引き上げたものと分析している。1993年4月9日、金正日の国防委員長就任によって空席となった国防委員会第一副委員長を兼任。_NEWLINE_1994年7月8日に金日成が死去すると、呉は党・国家において金正日に次ぐ序列第2位となったが、翌1995年2月25日には癌により死去した。
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家族
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三男に呉日晶(オ・イルジョン、1954年 - )朝鮮労働党中央委員会民防衛部長がいる。民防衛部長は労農赤衛軍や赤い青年近衛隊など予備役400万人を統括する。2010年9月に中将、2011年4月15日に上将に昇格。同年9月9日の建国63周年の閲兵式で閲兵隊指揮官を務めた。2015年11月の李乙雪の葬儀委員会の名簿に掲載されず失脚が疑われている。 | 4590846198732556190 |
Q11417780 |
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和泉守兼定
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和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ)は、日本刀の銘および刀工の名称。室町時代に美濃国関(現岐阜県関市)で活動した和泉守兼定(之定)が著名であるが、同名の刀工は江戸時代末期に会津藩で活動した和泉守兼定(会津兼定)も知られている。
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歴史
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美濃国の刀工に著名工が輩出するのは南北朝時代以降である。室町時代には備前国と美濃国が刀剣の二大生産地とされるが、新刀期(慶長以降を指す)には備前伝が衰退していったのに対し、美濃伝系統の鍛冶は各地で活動しており、新刀期の刀剣の作風に大きな影響を与えている。美濃の関鍛冶は南北朝時代の金重に始まると伝える。関を含め、美濃の刀工には、兼氏、兼元など「兼」の字を冠する名を持つ刀工が多い。兼定は同銘の刀工が複数存在するが、初代(通称「親兼定」)、2代(和泉守を受領し和泉守兼定と銘する通称「之定」)、3代(通称「疋定」(ひきさだ))の評価が高い。特に2代の通称「之定」はこの時代の美濃国では随一の刀匠といわれ有名である。_NEWLINE_初代兼定については、かつてはその作刀が明確でなく、「之定」が事実上の初代とみなされていたが、享徳二二年(享徳四年・1455年)二月日の年紀を有し、「濃州関住人兼定」と銘する太刀が発見され、これが初代に該当するものとされている。
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和泉守兼定 (之定)
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生没年不詳。「定」のウ冠の下が之に見えることから「之定(のさだ)」の通称でも知られる。室町時代後期で美濃国関で活動し、同時代同地域の名匠である孫六兼元と人気を二分する。江戸時代には「千両兼定」といわれた。永正元年(1504年)に法華経第二十五普門品(観音経)を出版(この経文は後にアーネスト・サトウが入手し、現在は大英博物館の図書部門所蔵)甲州出身で美濃に来て初代兼定の門人になる、後に養子になる。その刀は切れ味よく、最上大業物にランクされている。_NEWLINE_その作刀期間はかつては明応2年(1493年)紀の作刀を最古とし、同年から大永6年(1526年)頃までと推定されていたが、『室町期美濃刀工の研究』(鈴木・杉浦、2006)は、文明二二年(文明四年・1472年)銘の平脇指を紹介し、これを2代兼定の最古作とみなしている。_NEWLINE_永正5年(1508年)紀の脇差の銘には「和泉守」の文字がないが、同8年(1511年)紀の刀には「和泉守」と銘することから、この間に和泉守を受領したと推定される。_NEWLINE_受領の背景には伊勢の神宮における派閥争いにおいて刀剣を鍛え供したことの恩賞と考えられている。現地(山田)にて鍛えた旨が刻銘された遺作が現存する。佐野美術館蔵の永正14年(1517年)紀の刀の銘には「石破渋谷木工頭明秀」「伊勢山田是作」とあり、伊勢の御師渋谷明秀からの注文で打った作であることがわかる。伊勢で駐槌したことから村正との交流もあり、村正から秘伝を受けている。二代兼定は「定」の字をウ冠の下に「之」で切ることが多いことから、刀剣界では二代兼定を「之定」(ノサダ)と呼び習わされている。これに対して3代目兼定は銘の「定」字を「疋」と切ることから「疋定」(ひきさだ)と呼ばれ区別されている。2代兼定の作刀でも初期作の銘字は常用漢字体と同じ「定」となっている。「之定」銘を切る最古の作刀としては、明応9年(1500年)紀の脇指が紹介されている。一方、明応8年(1499年)紀の刀は「定」を常用漢字体に作るので、この間(明応8 - 9年)に銘の字体を変えたことがわかる。「兼」字は、第1画を「ノ」のように打った後、第2・3画は短い点を2つ、同一線上に打ち、字の下部は「よつてん」とする手癖がある。
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之定(ノサダ)を所持した武将
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武田信虎、津田信澄、柴田勝家、明智光秀、池田勝入斎、細川幽斎、細川忠興、黒田長政、森長可などが愛用し、また島津家にも「之定」の名刀が伝わっていたとされる。 | 14706318889405563850 |
Q16264097 |
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和泉崇司
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来歴・人物
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広島県内の高校を卒業後、アメリカのアーカンソー中央大学に留学、卒業。_NEWLINE_同大学の大学院修士課程を修了し、修士号を修得。_NEWLINE_高校時代は陸上競技部に所属し、やり投げの選手として活躍する。広島県大会4位・中国大会8位の成績を残す。_NEWLINE_アメリカの大学へ進学後、陸上競技部のトライアウトに合格。入部後すぐに大学新記録を樹立し、大学院修了まで奨学金を獲得する。_NEWLINE_留学期間中2年間、アメリカ陸軍予備役将校訓練課程(ROTC)を受講。同プログラムにおいて、実戦に基づく一般戦闘戦略・地図ナビゲーション・実弾射撃・ロープ降下・水上サバイバルトレーニング、その他の基礎訓練を受ける。_NEWLINE_また、救命医療に興味を持ち、留学先の消防署において救急隊員養成講習を修了。_NEWLINE_帰国後も東京消防庁主催の上級救命士講習を受講、合格する。_NEWLINE_大学院を修了し帰国後、一念発起して役者を志す。
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経歴・エピソード
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俳優の上川隆也は事務所の先輩で、舞台『9days Queen 〜九日間の女王〜』、テレビドラマ『花咲舞が黙ってない』や『エンジェル・ハート』、『遺留捜査』で共演している。_NEWLINE_『エンジェル・ハート』にてドラマオリジナルキャラクターのカリート役を演じる為に、厳しいトレーニングに励んでいる様子が2015年10月15日放送のテレビバラエティ『ぐるぐるナインティナイン』で紹介された。_NEWLINE_2018年4月6日にマツダスタジアムで行われたプロ野球、広島東洋カープ 対 横浜DeNAベイスターズ戦にて試合前の国歌斉唱を行った。_NEWLINE_2019年4月7日、出身地である広島県廿日市市「はつかいち応援大使」に就任。_NEWLINE_2019年7月17日より、テレビ新広島『ひろしま満点ママ!!』水曜準レギュラーコメンテーターに就任。 | 16919851785988488622 |
Q11417973 |
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和田寿郎
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和田 寿郎(わだ じゅろう、1922年3月11日 - 2011年2月14日)は、日本の心臓血管外科医。札幌医科大学名誉教授。ワダ弁(人工心弁)の開発や、後に「和田心臓移植事件」として様々な疑惑が浮上する日本初の心臓移植手術を執刀したことで有名な医師。
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人物
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北海道札幌市生まれ。医学の道を志し、旧制札幌第一中学校から北海道帝国大学予科を経て、同大学医学部を1944年(昭和19年)に首席で卒業した。
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心臓外科医としての歩み
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1950年(昭和25年)に北大医学部講師を辞め、アメリカへ4年に亘る留学をする。ミネソタ州立大学、オハイオ州立大学胸部外科、ハーバード大学などで研鑽を積む。ミネソタでは、世界初の心臓移植を執刀した南アフリカのクリスチャン・バーナードと知己を得、さらに犬を使った動物実験で画期的な成功を収め、その後も世界の心臓移植を牽引し続けたノーマン・シャムウェイともここで知り合った。アメリカ留学の間に合理主義を培った。_NEWLINE_1954年(昭和29年)に帰国。和田の母校である北大医学部は彼の復帰を受け入れなかった。それ以来、旧帝国大学系医学部に敵愾心を抱くようになったとも言われている。初代学長大野精七の招きで新設されたばかりの札幌医科大学助教授に就任。_NEWLINE_1958年(昭和33年)に同医大に胸部外科が創設されると、36歳の若さで初代胸部外科教授となった。当時画期的だった人工弁「ワダ弁」を自身の考案によって開発し、弁置換術において日本一の実績を誇った。なお「ワダ弁」は、後にバーナードによる世界初の心臓移植手術にも用いられている。論文の数と術例の豊富さで、歴史と伝統を誇る北大医学部第二外科に対抗した。その後も人工心肺の心内直視下手術(開心術)における使用時間の向上とともに、心臓外科における未知の領域を開拓していった。例えば1968年(昭和43年)には大血管完全転移症に対する根治手術のひとつであるマスタード手術に日本で初めて成功している。_NEWLINE_同年、日本初の心臓移植手術を執刀し、大きくその名を世間に知られるが、心臓移植の際にドナーとレシピエントをともに殺したのではないかという強い疑いをかけられる、いわゆる和田心臓移植事件で注目を浴び、殺人罪で刑事告発されている(不起訴処分)。_NEWLINE_1977年(昭和52年)には木本誠二(東大)とともに戦後の日本の心臓血管外科をリードし続けた榊原仟(東京女子医大)の招きで、彼の後任として東京女子医大附属日本心臓血圧研究所教授に転任。東京女子医科大学を定年退職後、和田寿郎記念心臓肺研究所を開設した。
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親族
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父は、国際法をアメリカで学んだ、元北大教授の和田禎純。和田寿郎の弟の和田淳も、ブリティッシュコロンビア大学の医学者で、ワダテスト(Wada test、大脳の言語優位半球の判定法。てんかん等の脳外科手術で用いられる)の開発者として著名。 | 6942227009425488503 |
Q7705644 |
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哲西町
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地理
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吉備高原の西部、中国山地の南部に位置し、高原と山林で占められている。中東部には西の尾瀬と呼ばれ、国の天然記念物に指定されている鯉ヶ窪湿原(鯉ヶ窪湿生植物群落)があり、時期折々の植物や昆虫が目を楽しませてくれる。 | 6208001579288050867 |
Q11418716 |
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唯是康彦
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唯是 康彦(ゆいぜ やすひこ、1928年8月13日 - )は、日本の経済学者で、千葉経済大学客員教授。専門は、農業経済学、食糧問題。70~80年代の日本の農業政策に大きな影響を及ぼし、特に自由化論者の代表として知られる。農水大臣の候補に挙がったこともしばしば。
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来歴・人物
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1928年、北海道札幌市生まれ。北海道大学文学部を卒業後、1955年に東京大学経済学部卒業。同年、農林水産省農業総合研究所に入り、1979年に計画部長となる。この間にシカゴ大学大学院修了。その後、一橋大学講師、千葉大学法経学部教授、同法経学部長を歴任する。1994年から千葉経済大学経済学部長、同大学院経済学研究科長、同地域総合研究所所長を務めた。現在、日本経営労務協会会長、同地域政策フォーラム代表。_NEWLINE_邦楽家の唯是震一は従兄。 | 5499082087468416558 |
Q22119173 |
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善立寺 (岡崎市)
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概要
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1467年(応仁元年)に日護が安城に創建したのが始まりである。1497年(明応6年)、安祥城主松平親忠より田地3反が寄進される。その後親忠のひ孫松平清康が岡崎城に入ると、1532年(天文元年)に本寺も岡崎へ移転した。1543年(天文12年)に松平広忠より寺内と田2反を安城の替地として寄進されている。_NEWLINE_1590年(天正18年)、徳川家康が江戸に移ると4世日得はこれに従い、江戸浅草に善立寺を建てた。_NEWLINE_1601年(慶長6年)、伊奈忠次黒印状で六名村で10石を寄進された。_NEWLINE_1647年(正保4年)、藩主水野忠善の城下改造策により総堀内から現在の地に移転させられた。そして1648年(慶安元年)には徳川家光から朱印地10石が与えられている。_NEWLINE_伝承によれば、家康が乙川で川狩りをする際には本寺で昼食をとったという。_NEWLINE_2017年(平成29年)10月31日、岡崎市の景観重要建造物に指定された。 | 8071017765980046697 |
Q11419015 |
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善養寺のカヤ
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善養寺のカヤ(ぜんようじのカヤ)は、東京都世田谷区野毛の善養寺境内に生育しているカヤの巨木である。推定の樹齢は700年から800年以上といわれ、かつてこの地を治めていた豪族の娘と沢蟹の親子にまつわる伝承がある。江戸時代初め、慶安年間(1648年-1651年)に善養寺が深沢村(現在の深沢地区の一部)からこの地に移転してきたときにはすでに大木となっていた。1964年には、東京都の天然記念物に指定されている。
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由来
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真言宗智山派に属する善養寺は、多摩川のほとり、国分寺崖線沿いに位置し、正式の名を「影光山仏性院大毘廬遮那殿善養密寺(ようこうさんぶっしょういんだいびるしゃなでんぜんようみつじ)」といい、京都市東山区の智積院の末寺である。このカヤの木は雌株で、善養寺の本堂前に生育し、樹高は22.6メートル、幹の周りは5.3メートルに達している。多摩川からの強い南風を受けて全体に北側に傾いていて、枝ぶりも北に伸びているが、下半分の枝を柳のようにしだらせた木の姿は優美である。_NEWLINE_このカヤの木が植えられた経緯については、次のような伝承がある。この地を治めていた豪族の娘が多摩川沿いを通りかかった際、沢蟹の親子と出会った。親蟹は「今夜、川が氾濫してこのままでは私たちは流されてしまいます。どうか私たちを逃がしてはいただけませんか」と娘に頼み込んだ。娘はその頼みを聞き入れ、沢蟹の親子を高台へと逃がしてやった。はたしてその夜、大雨が降って親蟹の言葉の通りに多摩川は氾濫した。その後、沢蟹の親子は娘のもとを訪れて、せめてものお礼にと一粒のカヤの実を置いて行った。娘が高台にその実を蒔くと、やがて立派なカヤの木へと成長した。このカヤの木は多くの実を隔年に結び、多摩川の氾濫に苦しむ近在の農民たちを助けるようになったという。_NEWLINE_江戸時代の初期には、すでにこのカヤは大木となっていた。その頃、深沢村の善養寺にいた祐栄阿闍梨(慶安5年遷化)という僧が、本山の智積院で修業を積み、深沢村へと戻ってきた。しかし、善養寺は祐栄の不在中に荒廃していた。その後、祐栄はこのカヤがある下野毛村に寺を移転したと伝えられる。善養寺の移転については、『新編武蔵風土記稿』巻之四十八、荏原郡世田谷領菅刈庄下野毛村の条にその旨の記述がある。ただし、移転以前の善養寺については、文献がなくほとんど知られていない。_NEWLINE_このカヤの存在によって、善養寺は「カヤ寺」という別名でも呼ばれている。1964年11月21日には、東京都の天然記念物に指定された。根元には最大で幅が約50センチメートル、高さが約2メートルで子供が出入りできるほどの空洞ができていて、その中には供養塔が安置されている。空洞があっても根張りはしっかりとしており、樹勢は旺盛である。この樹勢を守るために、善養寺の住職は冬季の油粕などの施肥に加えて法事で飲み残されたビールや酒などを木に与えている。_NEWLINE_近年になってもカヤの実は、隔年で実をつけていて豊作の年にはその収穫量が100キログラム以上に及んでいる。収穫した実は干した上で新潟県佐渡市の和菓子製造業者へと送られ、砂糖がけの美味しい豆菓子となって善養寺の客人に供されているという。善養寺の庭園は、この木にちなんで「大榧苑」(だいひえん)と名付けられている。 | 5942903126433386151 |
Q700719 |
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四式戦闘機
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概要
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基本設計はオーソドックスな構成ながら、速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性をバランス良く纏め、設計段階で生産性も考慮された機体であり、九七式戦闘機(キ27)、一式戦闘機「隼」(キ43)、二式戦闘機(二式単座戦闘機)「鍾馗」(キ44)と続いた、小山悌技師長を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成とも言える機体である。_NEWLINE_特に624km/h/5,000mという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速であり、またキ84-I乙試作機が試験飛行の際に660km/h/6,000mを、戦後のアメリカ軍によるテストでは687km/h/6,096mを記録している(100オクタン/140グレードのガソリンとアメリカ製点火プラグを使用し、武装を取り除いた重量7,490lb(3,397kg)の状態)。_NEWLINE_四式重爆撃機「飛龍」(キ67)とともに重点生産機に指定され、総生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、1944年(昭和19年)中頃という太平洋戦争(大東亜戦争)後期登場の機体ながらも、日本軍戦闘機としては零戦、一式戦に次ぐ約3,500機に及んだ。_NEWLINE_帝国陸軍からは戦局を覆す「大東亜決戦機(大東亜決戦号・決戦機)」として大いに期待され、大戦後期の主力戦闘機として多数機が各飛行戦隊といった第一級線の実戦部隊に配備、当時の主要戦線の全て(中国戦線・フィリピン戦線・ビルマ戦線)および日本本土防空戦に従軍し、対戦したアメリカ軍からも「The best Japanese fighter(日本最優秀戦闘機、日本最良戦闘機)」と評価された機体だったが、整備状況によるものの搭載した新型エンジンハ45(誉)の不調や、潤滑油・ガソリン(オクタン価)の品質低下、点火プラグやコードなどの電気系統の不良・不足、前線での整備力の低下などにより全体的に稼働率が低くスペック通りの性能を出すのが難しかったことや、それまでの日本軍戦闘機とは機体特性が異なるためパイロットには戦術の転換が必要になるなど、大戦後半に登場した陸海軍機の多くと同様、運用側でも評価の分かれる機体である。
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開発経過
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1941年(昭和16年)12月29日、キ44(のちの二式戦)の発展型として中島に対し、最高速度680km/h以上、20mm機関砲2門・12.7mm機関砲2門装備、制空・防空・襲撃など、あらゆる任務に使用可能な高性能万能戦闘機の開発指示がなされた。当初はキ44の2,000馬力級エンジンハ145搭載型であるキ44-III(計画のみという説と少数機試作されたとの説がある)をベースに翼面積を増やして着陸を容易にし、燃料搭載量を増して航続距離を伸ばし、強力なエンジンにより速度・上昇力の向上を狙ったものになる予定であった。_NEWLINE_しかし、キ84は最初から広大な太平洋戦域で運用される事が決まっていたため、更なる航続距離の伸長が求められ、燃料搭載量の増加とともに翼面荷重を計画値の155kg/m²に収めるために翼面積の拡大を余儀なくされ、2,700kg程度と目されていた全備重量は3,000kgを優に越える見通しとなり、それに対応して翼面積を増やすとまた重量が増加するという悪循環に陥り、特に主翼の設計は難航した。さらに、前線からの要求で防弾・防火装備、武装の強化なども必須となり、これも重量が増加する一因となった。_NEWLINE_結局主翼面積は計画値の17.4m²から最終的に21m²となり、予定していた全備重量が実機の自重になってしまう程だったが、紆余曲折を経てようやくキ84の設計はまとまり、1943年(昭和18年)3月に試作1号機が完成、4月に初飛行した。陸軍側で初めてキ84を操縦した陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊(旧飛行実験部実験隊戦闘機班)キ84審査主任(テストパイロット)岩橋譲三少佐は、「これはいける」と笑いながら述べ、設計主務者小山以下開発スタッフが感涙に咽んだエピソードがある。試験飛行は1~3号機までは比較的順調に進み好成績を収めたが、量産型のハ45を搭載した4~7号機ではエンジンとプロペラのトラブルに悩まされ、特にエンジンに関しては試験期間中最後まで解決しなかったと伝えられる。_NEWLINE_問題を抱えながらも一刻も早い実用化と生産体制の整備を目的に、また審査部のテストパイロットである荒蒔義次少佐の進言もあり、増加試作機は10機以内という従来の方針を転換し審査と試作を併行して進めた結果、制式前に100機を越える大量の増加試作機が生産され、1944年(皇紀2604年)4月にキ84は四式戦闘機として制式採用、順次中島太田工場・宇都宮工場で量産が開始された。_NEWLINE_中島では1942年からキ84より航続時間を延長し、大型排気タービンで高高度性能を向上させたキ87を開発していたが、トラブルの多発やキ84の開発を優先したことで計画は遅れ終戦に間に合わなかった。
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愛称
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1944年10月、四式戦は所沢陸軍飛行場において各報道関係者に初公開された。公開された機体は飛行第73戦隊に所属し、無塗装銀地に部隊マークや機体番号などを描いた実戦機であり、この際に写真撮影された機体(右掲画像)は最初期量産型である第491号機であった。_NEWLINE_さらに愛称は「隼(一式戦)」・「鍾馗(二式戦)」・「屠龍(二式複戦)」・「飛燕(三式戦)」といった各新鋭戦闘機に次ぐものとして日本全国から募集された。中でも多くの票数を占めかつ陸軍省選定の結果「疾風」(はやて)の名が選ばれ、1945年(昭和20年)4月11日付の各新聞にて「殊勲を樹てている陸軍最新鋭戦闘機」「疾風のごとく敵に襲いかかるわが戦闘機の雄姿を讃ふにふさわしい名前」という賛辞が交えられつつ、実戦部隊所属機の写真付きで発表されている。_NEWLINE_四式戦「疾風」は「帝国陸軍の新鋭戦闘機」として国民に知られた存在であり、一式戦「隼」の宣伝に代表される広報活動に対する陸軍の関心の高さも相まり、「疾風」もまた各メディアで登場することになる。例として、1945年7月1日公開の日本ニュース第254号では『陸の猛鷲「疾風」戦闘機隊 神州犯す醜翼に挑む我等が決戦機隊』と題し、軍歌『疾風戦闘隊の歌』をBGMに、機体番号を派手なフォントで大きく垂直尾翼に描いた明野教導飛行師団教導飛行隊所属の四式戦数十機の映像(地上駐機時や操縦席、4機編隊からなる小隊離陸や低空飛行シーン)が使用されている。なお、この日本ニュース第254号『征空部隊』号は海軍の雷電と前後でセットになっており、また大戦最末期の公開のため第二次大戦最後の日本ニュースとなっている。
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コードネーム
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本機に付けられた連合軍のコードネーム「Frank(フランク)」の由来は、当時フィリピンで鹵獲した当機をテストしたアメリカ陸軍航空軍のチームの長、フランク・マッコイ大佐が、優れた性能を持つ敵機に自らの名を呈上したものだと伝えられる。_NEWLINE_マッコイはコードネームを付与する部門の責任者でもあり、自分の名前を有力な戦闘機に付けたいと願い、一旦「三菱陸軍零式単座双発戦闘機(Mitsubishi Army Type 0 Single-seat Twin-engine Fighter.」(架空の機体)に与えたが、のちにそれを取り上げて四式戦に割り当てた、ということになっている。「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」には代わりに「Harry(ハリー)」という名が与えられたという。
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機体設計
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四式戦は2,000馬力級戦闘機としては極めて小型、軽量に設計されている。基本的に一式戦・二式戦の延長線上にあり、機軸と前縁が直交し後縁が前進する主翼や、水平尾翼より後方にある垂直尾翼、蝶形フラップ、前後で分割する胴体など、中島製戦闘機の特徴を有している。ただし、一式戦・二式戦がエンジンの後方から急速に絞られた胴体を採用しているのに対し、四式戦ではここでの乱流発生を警戒して徐々に細く絞った胴体形状を採用しているのが特徴となる。生産性に配慮しているのも特徴で、一式戦・二式戦と比較して生産時間が2/3ほどに減少している。_NEWLINE_生産性を除くと四式戦の機体設計は一式戦・二式戦とあまり変わり映えのしないものであったが、九七戦・一式戦では軽く設定されていた操縦系統が意図的に重く設定されている。従来の軽い操縦系統は急旋回を行えるためその際にかかる荷重に対応して機体強度を高くしなければならず、強度確保のために機体重量が増加し、結果として飛行性能が低下するという悪循環が起きていた。そこで、急旋回を難しくすることで機体強度を低く設定して機体の軽量化を図り、速度や上昇力の向上につなげるという意図の元に重い操縦系統が採用されている。これは陸軍(准尉)から中島のテストパイロットに転出した吉沢鶴寿の意見を取り入れたものと推測される。以下に機体設計時に吉沢が述べた意見である。_NEWLINE_「そこで私は翼桁を太くするより操縦桿を重くして欲しいといった。エルロンは軽目でもいいが、昇降舵と方向舵は重目でなければいけないというのが私の考え。それというのもキ27から日本人は舵の軽いのに慣れてきた。その方が器用に扱え、空中戦もこなせるからであった。ところが、キ43クラスになると操縦桿を思わず引っぱりすぎて空中分解を起こすケースも出てきた。これを避けるには翼桁を太くすればよいかもしれないが、それでは機体が大きく重くなる。これに対し、アメリカ、イギリス、ドイツのは実に舵が重い。どんなに引っ張っても、われわれ日本人の力では効かないぐらい重い。これはひとつにはスティックの長さが違うこともある。日本のは長い。当然、レシオが異なってくるわけで、この点を改めたいと思っていたわけだ」_NEWLINE_ — 吉沢鶴寿、井口修道「軍用機メカ・シリーズ7」中の「異色のテス・パイ“疾風”を語る」光人社より_NEWLINE_しかし日本軍のパイロットは鹵獲したソ連のI-16やLaGG-3に対してもテスト時に操縦桿が重いという評価を下すなど、九七戦から続く軽い操縦桿を前提としていた。特にベテランからは「いざというときに敵弾を回避できない気がする」、「座敷のような広い主翼のついた、押しても引いてもびくともしない戦闘機」、「何をしてもできるが、何をしても大したことがない戦闘機」と不評を投じる向きもあった。このため四式戦では急旋回を多用する従来の格闘戦を行い難くなり、速度を活かした一撃離脱戦法を中心とした戦術を用いなければ本来の能力を活かせなくなった。_NEWLINE_上記、昇降舵の重さについては設計主務者である小山悌、テストパイロットの吉沢鶴寿、計画課長の内藤文治は雑誌「航空情報」上の対談において戦後以下のように述べている。_NEWLINE_「吉沢 黒江保彦さん(元少佐)も述べていたようですが,突っ込みがよくなかったと思いますね。_NEWLINE_馬場 加速性が悪いのですか?_NEWLINE_吉沢 つまり,突っ込みますと,昇降舵に応えて重くなり, 押さえがきかなくなってしまう。だから,機首が持ち上がってしまう。_NEWLINE_小山 あの時の思想としては,ある程度突っ込んでいったら, 機首が起きるほうがよいと記憶しています。どんどん突っ込んでいったら,どんなことになるか分からぬ。そういうことを審査員が心配されたので,意識して「昇降舵は速度を増してくると重くなる」といっていましたよ。_NEWLINE_吉沢 敵がどんどん逃げたら,どうしょうもない。_NEWLINE_小山 そう,逃げる者は当時としては追わぬ,戦闘機パイロットの思想としては……。_NEWLINE_内藤 結局,戦法が変わっちゃったのだから……。」_NEWLINE_ — 「知られざる軍用機開発」下巻 中の座談会『キ87高々度戦闘機の思い出』酣燈社より_NEWLINE_操縦者によっては旧式の一式戦や、末期に登場した五式戦闘機(キ100)を高く評価する事があるのは、エンジンの信頼性のほか旋回性能により自身の技量を発揮できる機体であったからとも言える。同様な指摘は高速な万能戦闘機を目指し軽戦と重戦の中間の戦闘機(中戦)とも呼ばれながら、米軍の新鋭機には速度で一式戦には運動性能で劣るうえ、液冷エンジンの不調にも悩まされた三式戦にもされている。しかし、飛行第22戦隊附脇森降一郎少尉の「操縦桿を力っぱい振れば格闘戦用の旋回能力もかなりある」といった感想や、実戦での模様から四式戦は「格闘戦も出来る重戦」、「軽戦(一式戦)と重戦(二式戦)の良いとこ取り」とも評価されており、機体特性に合わせた戦法に転換したパイロットからは好評であった。また、高高度での操縦性や速度、防御の点で劣る機体が多い日本軍機の中では比較的良好なため、高速化したアメリカ軍機との空戦で成果を上げた。また爆装が可能なため対地攻撃でも成果を上げている。
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エンジン
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搭載エンジンであるハ45はハ25/ハ115(海軍名「栄」)の18気筒版とでも言うべきものであり、当時欧米に水を空けられていたエンジン技術の格差を埋めるべく、ハ25と殆ど同じ前面面積で約2倍の出力を目指した新世代エンジンであった。やや無理な小型化が行われたためエンジン各部の余裕が少なく、「芸術品」と評されるほど繊細な部分があったとされる。このため大戦末期の量産時には、初期故障の頻発の上に、1943年11月に合理的な兵器の大量生産を実現させる目的で設立された軍需省が、中島飛行機の多摩製作所と武蔵野製作所(前者は海軍用発動機、後者は陸軍用発動機をそれぞれ生産していた)を統合したが、既にこの2つの工場は陸海軍用に別個に生産を行う大工場として機能していた為に、この統合は生産管理能力の限界を超えてしまった。結果として完成品の検査体制が疎かになり、製造時の不具合も発見されないままに問題を抱えた発動機が陸海軍に領収されてゆく事態となり、額面通りの性能が発揮できないものが多発した。この事態に陸海軍や中島が手をこまねいていたわけではなく、可能な限りの対策が取られている。なお、1944年に海軍に納められた誉のベンチテストの結果が、カタログ値より数割低かったという証言があるが、その反面で同時期にフィリピンでアメリカ軍に鹵獲され、好評価を得た機体のハ45は完全な量産品であった。_NEWLINE_ハ45は高品質の100オクタンガソリンの使用を前提に設計されたが、対外情勢の悪化に伴い入手が困難となったため、91オクタンガソリンに水メタノール噴射を行うことで100オクタンガソリンと同様の効果を得られる様に設計変更された。反面この水メタノール噴射の調整が難しく、ハ45の不調原因の一つとなっている(一式戦三型や雷電においても同様の不調が発生している)。因みに「陸軍は87オクタンガソリンが精々で実態はそれ以下」とする説もあるが、本土だけでなく南方に展開していた実戦部隊の記録には最低限の需要を満たす程度の91オクタンガソリンは安定的に供給されていたことが記されており、87オクタンガソリンで飛んだという証言も「後方で実用機を転用した練習機に使えるかどうか試してみた」や「実戦でも使えないか試験的に入れて飛行してみた」という記述がほとんどである。つまり、陸海軍を問わず、練習機を除く第一線の実用機には91オクタンガソリンが使用されていたことになる。しかし、飛行第47戦隊で整備隊長を務めていた刈谷正意大尉は自著で「これ(ガソリン)自身も果たして充分にその性能を発揮していたか疑わしい」と述べており、「燃料の性能が額面割れ」していた可能性も全く無いとは言えない。海軍の誉搭載機である銀河を運用した元攻撃第405飛行隊長の鈴木瞭五郎大尉も「当時のA91G(航空91揮発油)はA87G(航空87揮発油)程度、またA87GはA85G(航空85揮発油)程度の質に低下」と燃料についての実情を証言している。
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「ハ45(誉)」の運転制限
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1943年7月1日と10日の2回、審査部のある多摩陸軍飛行場で行われた飛行実験機材によれば、「供試機体キ84第3号機」、「発動機ハ45特」とある。中島の技術報告書によると、ハ45特は離昇2,000馬力のハ45(海軍名誉二一型)より先行して開発されていた離昇1,800馬力の誉一一型と同じになっている。つまり四式戦の初期試作機が搭載していたハ45特は誉一一型とほとんど同じものということである。なお、ハ45特と離昇出力2,000馬力のハ45の性能差は、不具合への対策による運転制限によるものである。この運転制限はキ84の操縦参考書にも「ハ45特と同等の水準に運転制限を行う」と明記されている。なお、1944年末になっても、ほぼ同一エンジンの紫電改の操縦参考書において「制限解除の見通しが立ちつつある」と述べられていることから、かなりの長期間運転制限が行われていたのは確かである。
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プロペラ
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大出力のハ45に対応すべくプロペラも一式戦や零戦に使われていたハミルトン・スタンダード製の油圧式可変3翅(海軍向けは住友金属、陸軍向けは日本楽器製造が生産)から、よりピッチ変更角度が大きいフランスのラチェ社の電動可変4翅(日本国際航空工業がライセンス生産権を得ていた)の採用を検討したが、当初ピッチ変動速度が遅く戦闘機には不向きとされた。日本国際航空工業では変動速度を毎秒1.2度から13.2度とした改良型「ペ32」の開発に成功し、戦闘機へも搭載可能となった。しかし日本では電動可変機構の経験が少なく、変節速度が早過ぎてハンチングやエンジンの過回転といった問題が発生し、最終的には電動機の電力を半減して動作速度を落とす(毎秒13.2度から6.6度)ことで一応の解決を見たが、現場の整備員にも不慣れな者が多く不安定な部品精度と相まって故障が相次ぎ、エンジンと並んで四式戦が不調となる元凶となった。日本楽器製造では故障の原因となっていた電動部分を、自社がライセンスを生産権を得ていたユンカース社の油圧式可変プロペラの機構で置き換えた「ぺ・33」を試作し四式重爆撃機へ搭載する予定だったが終戦には間に合わなかった。_NEWLINE_四式戦に採用されたプロペラブレードは直径3.05mの4翅で、諸外国の2,000馬力クラスの戦闘機も3.6~4.0mが中心であるなど比べると小さい。これが上昇力や最高速度の発揮を難しくしたと言われている。同時期に海軍の紫電/紫電改に採用されたドイツのVDM社製のプロペラが直径3.3m、同じ中島製の彩雲が3.6mを採用したことから、機体を小型にまとめようとするあまり、小径のプロペラを採用したことを悔やむ意見も後年多く出されている。一般にプロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上する。戦闘機の設計において離陸と上昇、速度性能のどれを優先するかは運用コンセプトによって定めるものである。そもそも中島では設計段階で「プロペラ効率76%で、最高速度660km/h」と試算し、実際それに近い速度性能を発揮している。_NEWLINE_同じペ32を採用した試作高高度防空戦闘機のキ94は、上昇力と高高度性能を重視し直径4mのブレードを採用している。
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最高速度
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四式戦の最高速度は、審査部の岩橋少佐が高度5,000mで記録した624km/hが広く知られている。同じ試作機の別の記録では、640km/h/6,000mというのもある。また、船橋中尉が試作4号機により、高度6,120mにて631km/hを記録している。これらの記録は、いずれも推力式集合排気管を装備した初期試作機のもので、量産型と同じ推力式単排気管に改造した機体では、キ84-I乙試作機が審査部において660km/h/6,000mを記録した。実戦においてはエンジンの調子が良い時ならば、一型甲量産機が650-655km/h以上出たという証言がある。_NEWLINE_アメリカ軍はフィリピンの戦いで鹵獲した飛行第11戦隊所属であった第1446号機(1944年12月に製造された量産機)を使い、戦後の1946年(昭和21年)4月2日から5月10日にかけて、ペンシルベニア州のミドルタウン航空兵站部(Middletown Air Depot)で性能テストを行った。100オクタン/140グレードのガソリンとアメリカ製点火プラグを使用した四式戦は、武装を取り除いた重量7,490lb(3,397kg)の状態で(四式戦の正規全備重量は3,890kg)、高度20,000ft(6,096m)において時速427mi(687km/h)を記録した(687km/h/6,096m)。これは同高度におけるP-51D-25-NA マスタングおよびP-47D-35-RA サンダーボルトの最高速度よりも、それぞれ時速3mi(5km/h)および時速22mi(35km/h)優速であった。しかし、この高度6,096mでの最高速度が全高度における四式戦の最高速度であり、それ以上の高度では速度が落ちてしまうので、高度7,600 mで最高速度703 km/hを出せるP-51Dや、9,145 mで最高速度697 km/hを記録するP-47Dに対して必ずしも優位に立つものではない。_NEWLINE_1945年3月作成の米軍資料によると、高度20000ftで約425mph、高度30000ftで約392mph、試験条件は重量7940lb、緊急戦闘出力運転となっている。
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武装
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陸軍単発単座戦闘機としては初めて計画段階から20mm機関砲(ホ5 二式二十粍固定機関砲)の装備が要求された機体で、当時の陸軍単発単座戦闘機の中ではホ301装備の二式戦二型乙(キ44-II乙)を除き、三式戦一型丙/丁(キ61-I丙/丁)・二型(キ61-II改)と並んで最も火力が大きかった。かつ、一型甲(キ84-I甲)のホ103 一式十二・七粍機関砲は携行弾数各350発と、同じく機首砲としてホ103を装備する一式戦二型/三型(キ43-II/III)・二式戦二型丙(キ44-II丙)・三式戦一型乙(キ61-I乙)の250発~270発より約100発増量されている。しかし世界的な趨勢からみるとやや軽武装であるのは否めず、開発の比較的初期段階から武装強化型の乙型や丙型の開発が始まっている。照準器は一式戦二型(キ43-II)などが装備していた従来の一〇〇式射撃照準器(光像式)に代わり、量産機では新開発の三式射撃照準器(光像式)を装備している。
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防弾装備
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防弾・防火装備については従来の陸軍戦闘機と同じく当初から装備されている。_NEWLINE_全ての燃料タンクは積層ゴムで包まれたセルフシーリング式の防火タンク(防漏タンク・防弾タンク、12.7mm弾対応)、操縦者の頭部と上半身を保護するため操縦席背面に13mm厚の防弾鋼板(防楯鋼板、12.7mm弾対応)を備え、さらに風防前面は70mm厚防弾ガラスとなっている。また、被弾墜落時に操縦者の脱出を手助けするため天蓋には飛散装置が設定されており、操縦席上部の槓杵を引くと風圧で天蓋自体が容易に外れ飛び、操縦者は迅速に機外脱出・落下傘降下が可能となっている。
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実戦
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四式戦を本格的に装備する実戦部隊は1944年3月1日付編成の飛行第22戦隊で、垂直尾翼に描く部隊マークを菊水紋とした同戦隊は四式戦の実戦テストも兼ねたものであり、使用機体はキ84増加試作機を、幹部空中勤務者・地上勤務者は主に審査部から精鋭を抽出となり戦隊長は当機を熟知していた審査主任であり、ノモンハン事件からのエース・パイロットでもあった岩橋譲三少佐、整備隊長は同じくキ84班整備班長として長く携わっていた中村考大尉の両名が任命された。第22戦隊は太平洋戦争の「天王山」と称されるフィリピンの戦いに投入予定であった。_NEWLINE_一方で5月末、一号作戦(大陸打通作戦)を控えた支那派遣軍の第5航空軍は、参謀長橋本秀信少将が参謀本部第一次長後宮淳大将に対し新鋭機四式戦・四式重爆、電波警戒機などの補充を求めた。当時の中国方面航空兵力の差は1対3と推定され、この劣勢を新鋭機投入で解決しようとしたものであり、結果、四式重爆の派遣は見送られたが四式戦派遣の要望は早々に叶えられたとされる。当時の中国戦線(中国航空戦)には一式戦と二式戦が投入されており、帝国陸軍航空部隊は1943年8月21日から1944年5月6日の期間中、空戦損害僅か10機喪失(一式戦8機・二式戦2機)に対し最低でも連合軍機44機を確実撃墜(戦闘機33機・爆撃機11機)、大戦中後期においてもビルマ航空戦と並び、連合軍空軍に対して互角以上の勝負を行い度重なる勝利を収めていた(一式戦闘機#中国航空戦)。しかし、1944年半ば当時は上述の兵力差の拡大に加えて、連合軍は従来機の性能を向上させた発展型であるP-40N・P-38Jや、高性能新鋭機であるP-51B/C・P-47といった戦闘機を投入するようになり苦戦を強いられるようになっていた。また零戦や一式戦と互角に格闘戦ができるF6Fに対しては、運動性能が劣り歯が立たなかった。_NEWLINE_7月上旬、中国航空戦を二式戦で戦っている飛行第85戦隊が四式戦への機種改変に着手。まず派遣された4名の操縦者が漢口で伝習教育を受け、4機を広東の第85戦隊へ持ち帰り改変を進め、8月1日時点での戦隊保有可動機は二式戦22機に対し四式戦3機。さらに第85戦隊は9月に漢口で四式戦9機を受領した。第22戦隊は1ヶ月限定で中国航空戦に派遣されることになり、8月25日に南京に到着、漢口を根拠地飛行場に白螺磯を前進飛行場として作戦を開始(9月1日保有機四式戦28機)。8月28日には飛行第25戦隊・飛行第48戦隊(ともに一式戦装備)とともに、来襲したアメリカ陸軍航空軍第14空軍および中米混成航空団(CACW、中美混合空軍団・米支混成空軍)のP-40と交戦、空戦で日本軍側は四式戦1機・一式戦2機を喪失、連合軍側はP-40 1機(ないし4機)を喪失している。翌29日には第22戦隊四式戦13機・第25戦隊一式戦16機がB-24・P-40・P-51と交戦、日本軍側は一式戦1機・四式戦1機を喪失、連合軍側はP-40 2機さらに同日夕方にはP-40 1機を喪失。30日、第22戦隊四式戦10機は帰義でP-51 6機と交戦、第22戦隊機に喪失無く第76戦闘飛行隊のP-51Bウィリアム・D・マクレノン中尉機(戦死)を撃墜。これはノモンハン以来の古参操縦者である古郡吾郎准尉の戦果であり、同時に四式戦による初めての明確な勝利であった。_NEWLINE_9月9日、第22戦隊四式戦3機が老河口飛行場に不時着していた第58爆撃航空団のB-29を対地攻撃により撃破炎上。しかし21日の西安飛行場襲撃時、第22戦隊長岩橋少佐機は離陸中のP-51ウィリアム・E・ホール曹長機(戦死)を対地攻撃で撃破炎上させるも被弾、自爆した(死後陸軍中佐特進)。この1ヶ月の期間中、第22戦隊は四式戦6機を喪失(戦死6名)、対して四式戦によるほぼ明確な戦果はP-51 2機撃墜(内1機離陸途中)・P-40 2機撃墜・B-25 1機撃墜・B-29 1機地上炎上、全てが四式戦の戦果ではない他戦隊との協同戦によるものでP-40 7機撃墜となる(各戦果は戦史家梅本弘が連合軍の損害記録等一次史料を用い照会した数値)。_NEWLINE_第22戦隊は状態「甲」の四式戦9機のうち6機を第85戦隊に引渡し、フィリピン航空戦に備えるため9月26日に内地へ帰還。第85戦隊はP-51B/Cを相手に善戦し、「赤鼻のエース」として敵味方双方で知られていた若松幸禧少佐の活躍など、10月には中国上空の制空権を回復する活躍をしている。10月4日に第85戦隊第2中隊長若松大尉は四式戦4機・二式戦4機を率い梧州付近で友軍船団の上空哨戒中、来襲した第76戦闘飛行隊のP-51B/Cを奇襲攻撃し4機を確実撃墜(シャル中尉機・リーゼズ中尉機・オデル中尉機、ほかもう1機喪失)、日本軍機には1発の被弾もなく損害は皆無であった(四式戦若松大尉機2機撃墜報告、四式戦大久保軍曹機2機撃墜報告、二式戦石川軍曹機1機撃墜報告)。四式戦若松大尉機は最初に発見した1機を一撃で発火させ撃墜、続いて攻撃した左の1機もまた発火・冷却水噴出させ撃墜、僚機四式戦大久保軍曹機は1機を追撃しつつ撃墜、二式戦石川軍曹機もまた1機を追尾撃墜している。若松大尉は当日の日記に「我が方被弾機一機もなく、赤子の手をねじるがごとし」としるしている。ほか、特徴的なエピソードとして若松少佐は地上勤務者の士気を鼓舞するために、搭乗機の無線電話の送信スイッチをオンにした状態で「空戦の実況」を行っていた。_NEWLINE_このように四式戦は中国戦線において実戦部隊の操縦者からも高い評価を受けた一方で、台湾沖航空戦においてほぼ奇襲された状況、しかも圧倒的な数的劣勢下でアメリカ海軍のF6Fに立ち向かい、戦隊長や中隊長ら幹部が戦死し被害を被った第11戦隊の四式戦に対する評価は芳しくないものであった。_NEWLINE_台湾沖航空戦とは比較にならないほど多数の四式戦部隊が編成・投入されたフィリピン航空戦では、レイテ島の戦い初期にP-38に苦戦したため、レイテ島防衛に当たっていた第2飛行師団長は1944年10月28日、「四式戦に大いなる信頼を置き居たるに困った事なり」と誌している。しかし、11月1、2日には一式戦とともにオルモック湾を制空し第1師団の上陸成功に貢献(多号作戦#第2次輸送部隊)、この空戦において船団直掩の飛行第52戦隊・飛行第200戦隊の四式戦および飛行第33戦隊・飛行第26戦隊・飛行第20戦隊の一式戦は、来襲したアメリカ陸軍第49戦闘航空群のP-38と交戦、断続的に続いた戦闘で日本軍は6機(四式戦2機・一式戦4機)を喪失するも5機(第8戦闘飛行隊・第9戦闘飛行隊所属)を確実撃墜した。この日の空戦で第200戦隊のエース吉良勝秋曹長(かつて飛行第24戦隊で九七戦・一式戦をもって活躍したエース)は四式戦1機でP-38 10機と交戦、格闘戦に持ち込むことでオルモック湾上空でエリオット・デント大尉のP-38を確実撃墜、かつ無事に帰還している(吉良曹長はこの活躍により准尉に特別進級)。また、日本軍航空部隊は一時的とはいえレイテ湾の制空権確保に成功。この代償として四式戦部隊を含む多くの飛行部隊が壊滅したとは言え、ようやく四式戦の存在に気が付いたアメリカ軍も「速度と上昇力に優れ、運動性も高く、被弾にも強い」と評価している。なお、当時フィリピン方面に四式戦を空輸する任務に就いていた穴吹智軍曹(かつて飛行第50戦隊で一式戦をもって活躍したエース、当時は明野陸軍飛行学校助教)は数回にわたりアメリカ海軍艦載機と交戦しており、台湾の高雄上空などでF6F 計4機ないし6機撃墜を報告している。フィリピン航空戦末期には四式戦の集成戦闘部隊として戦っていた第30戦闘飛行集団にて特別攻撃隊である精華隊が編成され、250kg爆弾2発を装備した四式戦が1945年1月8日に護衛空母「キトカン・ベイ」に突入、同月13日には護衛空母「サラマウア」に突入、それぞれ大破の戦果を残している。_NEWLINE_特筆に価する戦果としてフィリピン航空戦中の1945年1月7日、ネグロス島上空において飛行第71戦隊の福田瑞則(ふくだみずのり)軍曹が操縦する四式戦が、アメリカ全軍第2位のエース(38機撃墜)であるトーマス・マクガイア少佐のP-38Lを事実上撃墜している。哨戒飛行を任務に長機マクガイア少佐(第431戦闘飛行隊長)、2番機エドゥイン・ウィーバー大尉(北アフリカ戦線従軍経験有)、3番機ジャック・リットメイア少佐(フィリピン航空戦で既に4機撃墜記録)、4番機ダグラス・スロップ少尉(出撃53回、1機撃墜記録)からなら第431戦闘飛行隊P-38Lの4機編隊は、7日午前6時30分にレイテ島ドラッグ飛行場を離陸開始(途中、リットメイア機はエンジン不調によりスロップ機と編隊位置を交代)。福田の証言では、第71戦隊は同日ルソン島へ向かう大艦船団発見の報告により、午前3時30分150kg爆弾を搭載した福田軍曹機・三浦軍曹機が単機ごとの索敵攻撃のためマナプラ飛行場を離陸(当時の第71戦隊は消耗により単機地上攻撃任務が主体)。しかし予定地点で船団を発見出来なかったため6時に索敵を中止、帰還中の6時30分頃にバコロド上空高度1,000m付近で飛行第54戦隊杉本明准尉操縦の一式戦と遭遇し、しばらくの編隊飛行ののちタリサイ上空で別れた。マナプラ飛行場への着陸コースに入った四式戦福田機は、先程の一式戦杉本機が哨戒飛行中であった4機のP-38マクガイア編隊と空戦中のところを発見(この際P-38 1機が炎上墜落中、一式戦は不時着のため降下中を確認)、福田機はP-38 3機に突進し対進戦で撃ち合い先頭の1機を撃墜するも被弾。その後も四式戦福田機は残る2機と1分ほど格闘し1機を撃破。双方は空戦場を離脱し戦闘は終了、福田機は着陸時に転覆しのちに廃棄処分となったが福田自身は軽傷ですんだ。離脱したスロップ機は午前7時55分、ウィーバー機は8時5分頃にドラッグ飛行場へ帰還着陸した。実際にこの空戦において、マクガイア機・リットメイア機が撃墜され両名は戦死しているが(杉本准尉は被弾のため不時着するも、地上で抗日ゲリラによって射殺された遺体を現地日本軍守備隊が発見)、一式戦杉本機が1度目の戦闘でマクガイア機を撃墜し(超低空域の格闘戦で一式戦に追随するため無理な急旋回を行い失速・墜落するマニューバキル)、四式戦福田機は2度目の戦闘でまずスロップ機を撃破し続いてリットメイア機を撃墜したという説明もあるなど、乱戦ゆえに四式戦福田機・一式戦杉本機どちらがマクガイア機・リットメイア機を撃墜したのかは詳細は不明であり、協同撃墜ともいえる。福田軍曹は当時マラリアの高熱により意識朦朧状態であり、かつ乗機は落下タンクと150kg爆弾を搭載したままで(空戦発見時は味方宿舎上空のため投下出来ず)、マクガイア編隊も(落下タンク投下を拒む空戦突入後の)マクガイア少佐の無線電話指示によりこちらも落下タンクを抱いたまま、高度1,000m以下の低空域で空戦を行っている。ちなみに、福田軍曹は陸軍少年飛行兵第10期で1944年5月に第71戦隊へ着任し11月に戦隊とともにフィリピンへ進出、操縦時間が少なく今まで実戦経験もなくこれが最初の空戦らしい空戦体験であったにもかかわらずこの大戦果を挙げ、この1ヵ月後にネグロス島を脱出し本土へ後退、飛行第101戦隊に転属し沖縄戦も四式戦で戦い終戦を迎えた。戦後の1974年(昭和49年)には第475戦闘航空群(第431戦闘飛行隊の上級部隊)の戦友会に、本空戦を調査した秦郁彦の手引によって福田はメッセージを届けている。_NEWLINE_中国航空戦末期の12月18日、漢口をB-29を含む戦爆連合大編隊が波状攻撃し、漢口市街と飛行場在地機は爆撃で大きな被害を出した(漢口大空襲)。邀撃には第85戦隊の四式戦12機と第25戦隊の一式戦13機が出撃し、同日午後の空戦では「赤鼻のエース」若松少佐機を含む四式戦3機・一式戦2機を喪失するも戦果は対空砲火と合わせP-51 4機・P-40 1機・B-29 1機を確実撃墜(空対空の戦果はこのうち3機とされる)。1945年1月3日・5日・6日そして14日にも漢口は連続空襲を受け同じく第85戦隊・第25戦隊がこれを邀撃、両戦隊計6名の戦死操縦者を出すも戦果は対空砲火と合わせP-51 8機・P-47 4機を確実撃墜(P-47は中国ではこれが初陣である)。17日、来襲したP-47との空戦で第85戦隊・第25戦隊は両戦隊各1名が戦死するも、P-47 2機を確実撃墜している。_NEWLINE_ビルマの戦い(ビルマ航空戦)では第50戦隊が1944年9月から四式戦に機種改変。当初は故障が続出したものの、一式戦装備の飛行第64戦隊とともに12月31日に撤退する第15師団を追尾するイギリス軍を中心とした連合軍機甲部隊の捕捉・攻撃(襲撃)に成功。のちの第64戦隊長である宮辺英夫少佐はこの戦闘と四式戦に対し「(掃射では20mm機関砲の)威力が大いに発揮された」「まずは、四式戦のビルマにおける初のお手柄」と述べている。1945年1月9日、第50戦隊の四式戦7機は爆装し第64戦隊の一式戦28機の直掩を受けアキャブ沖連合軍艦船攻撃に出撃、このうちエース大房養次郎曹長機が巡洋艦ないし輸送船への命中戦果を報告している。以後、ラングーンが陥落しビルマ航空戦が事実上終了する5月まで、第50戦隊の四式戦は第64戦隊の一式戦とともに空戦や地上攻撃に活躍した。_NEWLINE_本土防空戦にて、飛行第47戦隊は整備指揮班長を務め「整備の神様」と謳われた刈谷大尉のもと、戦隊内に指揮小隊を設けそこで機体整備に関する全てを掌握し、厳密なる飛行時間の管理、点火プラグの早期交換、定期的なオーバーホールなど、徹底的かつ適切な整備を施すことで部隊の四式戦稼働率を常時87から100パーセントに保っている。ただ、このような整備方法は欧米諸国では一般的に行われており、日本側の整備教育や補給が立ち遅れていた側面が大きい。刈谷陸軍大尉によれば「47戦隊で100パーセント働いた」エンジンが他部隊で動かなかったのは「日本陸軍の整備教育が間違っていたから」であり、「疾風(誉)のせいじゃない」と回想している。また本土より遙かに条件が劣悪なフィリピンにおける四式戦の稼動率は三式戦はおろか一式戦よりも高かったという記録も残されている(当時の一式戦三型は水メタノール噴射装置を搭載したが整備兵が慣れておらず稼働率が低下している)。さらに満州の飛行第104戦隊は再生潤滑油を使用せず、補給廠デッドストックのアメリカ産輸入潤滑油を用い稼働率80から100パーセントを保ったという記録があり、これは潤滑油をアメリカ産の輸入に頼っていながら、事前の国産化を怠ったままアメリカとの開戦に突入し、戦前に輸入したストックに頼らざるを得ない状況に陥らせた、日本の戦前工業行政の致命的な失敗であった。_NEWLINE_本土での運用時期における可動割合については前述の刈谷大尉が第47戦隊においては前述の通り在隊機100%、航空廠修理機を含めて87%、その当時一般部隊においては良好なところで40%、悪いところで20~0%であると述べている。また、この時期の陸軍調査の数字としては1945年5月20日調査の「航空総軍飛行機保有状況」があり、ここでは野戦部隊・防空部隊あわせて555機保有の四式戦のうち(対象は航空総軍隷下部隊であり、第2航空軍隷下部隊(満州方面:飛行第104戦隊など)などの外地部隊や内地でも特攻飛行部隊は除く)、「状態甲」(自隊内にて整備完了。出撃可能機数は同数かこれ以下となる)の機体は235機となり割合としては42%となる。_NEWLINE_その後も沖縄戦(菊水作戦)や本土防空戦にも投入されたが、既に多くの熟練操縦者を失いさらに戦局自体もますます悪化した末期には、他の陸海軍戦闘機と同様に散発的な戦果に留まり、更に最末期には本土決戦(決号作戦)に備え兵器は温存され邀撃も控えられていたために大きな戦果を挙げることは出来なかった。1945年8月13日には占領下の沖縄から朝鮮に来襲したP-47に対し、京城飛行場の第22戦隊・第85戦隊(中国戦線で壊滅したのち同地に後退し戦力回復)の四式戦が出撃したものの、飛行場自体が他方面から飛来していた重爆撃機で混雑し邀撃が後手にまわっていたこともあり機数に勝るも一方的な敗北を喫した。沖縄戦においては部隊マークとしてドクロを描いたことで有名な第58振武隊など、四式戦で編成された特攻隊も出撃している。沖縄戦の特攻戦果としては6月21日夕刻に都城東飛行場を出撃し沖縄沖に突入した第26振武隊(四式戦4機)がカーチス級水上機母艦「カーチス」大破炎上、ケネス・ホイッティング級水上機母艦「ケネス・ホイッティング」小破、エヴァーツ級護衛駆逐艦「ハローラン」小破の記録を残している。_NEWLINE_満州では1945年8月9日にソ連軍が侵攻したが(ソ連対日参戦)、8月12日・15日の2度にわたって第104戦隊の四式戦が、同じく満州に展開していた独立飛行第25中隊の二式複戦とともにソ連軍機甲部隊に対しタ弾による攻撃を行ない、戦車やトラックなどの軍用車輌数十輌を破壊・炎上させる戦果を挙げている。_NEWLINE_なお、海軍航空技術廠に初期生産型の2機が海軍の研究用として正式に譲渡された。陸海軍の機種統一を検討してとも言われるが詳細は不明。これらは終戦時まで残置しており、写真も残されている。
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現存する機体
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四式戦の現存機として、現在鹿児島県南九州市知覧の知覧特攻平和会館に収蔵・展示されている一型甲(1446号機)が唯一の静態保存機体となる。本機はフィリピン戦に展開した第11戦隊所属の機体で、1945年1月にアメリカ軍に鹵獲されアメリカ本土に運ばれ性能テストに使用された。戦後にアメリカの私設航空博物館(プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館)に払下げられレストアを経て飛行可能となった。その後、栃木県宇都宮市の日本人実業家(元海軍下士官で戦闘機操縦員)に買い取られ、1973年(昭和48年)に日本へ移送し航空自衛隊入間基地(旧陸軍航空士官学校・豊岡陸軍飛行場跡地)にて展示飛行を行っている。この後、中島飛行機の後身である富士重工業株式会社(現・株式会社SUBARU)の航空部門たる宇都宮製作所(当時はFA-200 「エアロスバル」を開発生産)が隣接する陸上自衛隊宇都宮飛行場に空輸され、当時の関係者らによる整備も行われつつ富士重工業によって飛行可能な良好な状態で維持されていた。_NEWLINE_日本人実業家オーナーの死後は京都の京都嵐山美術館に売却され同地で展示されていたが、劣悪な管理状況により一度飛行不能となった。本機を日本人実業家に売り渡した当事者である私設航空博物館のドン・ライキンスはこの状況を聞いて深く後悔。本機の復元を行ったマロニー博物館も「他の機体数機との交換で良いので還して欲しい」とコメントしている。飛行不能となった要因については「ずさんな野外展示が行われ、元々機体から容易にはずせない部品を強引に取る盗難にあった」、「嵐山美術館閉館に伴い南紀白浜に移転し、海岸そばでの展示のため零戦六三型と同じく機体の腐食やエンジンの悪化が進んだ」などである。嵐山美術館時代は容易に取れる部品に関しては初めからはずして展示されていたが前述のように盗難被害に遭った。現在は知覧で屋内に展示され良好な状態を保っている。_NEWLINE_最終的に、知覧町(当時)が本機を取得し知覧特攻平和会館に移動して今に至る。同町が本機を取得した背景には、戦中に知覧陸軍飛行場に飛行第103戦隊の四式戦約30機が配備され特攻機の直掩・誘導や邀撃にあたっていたことと、ほかの陸海軍機と同様に四式戦も特攻機として使用された事実があるためである。沖縄戦では宮崎県都城東・西両飛行場を中心とした九州の各基地から四式戦が特攻機として出撃し、118機が未帰還となっている。知覧からは4機が出撃し2機未帰還。 | 7372233438011036378 |
Q11420076 |
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四畳半襖の下張事件
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概要
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月刊誌『面白半分』の編集長をしていた作家野坂昭如は、永井荷風の作とされる戯作『四畳半襖の下張』を同誌1972年7月号に掲載した。これについて、刑法175条のわいせつ文書販売の罪に当たるとされ、野坂と同誌の社長・佐藤嘉尚が起訴された。被告人側は丸谷才一を特別弁護人に選任し、五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、有吉佐和子ら著名作家を次々と証人申請して争い、マスコミの話題を集めたが、第一審、第二審とも有罪(野坂に罰金10万円、社長に罰金15万円)としたため、被告人側が上告した。
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最高裁判決
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上告棄却。最高裁判所1980年(昭和55年)11月28日第二小法廷判決は、チャタレー事件判決を踏襲する形で、そのわいせつ性の判断について下記のように判示した。_NEWLINE_「文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」(前掲最高裁昭和三二年三月一三日大法廷判決〔チャタレー事件判決〕参照)といえるか否かを決すべきである。」
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逸話
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当時最高裁調査官としてこの事件を担当した木谷明によると、当時大阪空港訴訟が行き詰まっており大法廷に回すことができない状況だったという。 | 8745441064066495815 |
Q10920986 |
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国務大臣
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法令上の「国務大臣」の概念
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法令上の「国務大臣」は、広義には内閣総理大臣を含む閣僚すべてを指し、狭義には内閣総理大臣以外の閣僚をいう。_NEWLINE_広義の意味で「国務大臣」の語が用いられている例としては、日本国憲法第63条(国務大臣の議院出席の権利義務)や日本国憲法第66条第1項及び同条第2項(内閣の組織)などがある。これらの条文では「内閣総理大臣その他の国務大臣」と表現されており、「国務大臣」の概念が内閣総理大臣たる国務大臣とその他の国務大臣の双方を含む意味で用いられている。_NEWLINE_狭義の意味で「国務大臣」の語が用いられている例としては、日本国憲法第68条第1項や同条第2項(国務大臣の任命と罷免)などがある。例えば日本国憲法第68条第1項前段は「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する」と規定しているが、内閣総理大臣はそもそも国会の指名に基づいて天皇により任命されるので(日本国憲法第6条第1項)、日本国憲法第68条第1項前段の「国務大臣」には内閣総理大臣は含まれないことになる。_NEWLINE_なお、内閣法第2条第2項で、「国務大臣の数は、14人以内とする。ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し、17人以内とすることができる。」とされる(後述のとおり特別法により増員されることがある)。また、内閣法第3条第2項は「行政事務を分担管理しない大臣の存することを妨げるものではない」として無任所大臣を置くことを認めているが、主任の大臣ではない国務大臣(無任所大臣)には法律上の正式な呼称がない(詳細については無任所大臣の項目の「新憲法下における「無任所国務大臣」」の節を参照のこと)。そのため、内閣の構成員の一覧表などでは、主任の大臣以外の国務大臣については単に「国務大臣」となっている場合がある。
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国務大臣と行政大臣
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行政学などでは講学上、国務大臣と行政大臣に分けて論じられる場合がある。行政大臣は主任の大臣とも呼ばれ、各省の長として特定の行政分野を担当している国務大臣を指す。特定の行政分野を分担管理するわけではない内閣官房長官、内閣府特命担当大臣、無任所国務大臣(班列)などに対する概念である。_NEWLINE_内閣は国の行政を一体として担当する合議体であるから、その構成員である国務大臣は、分担管理する行政事務に限らず、国務及び外交全体について評議し、議決に加わることになる。内閣法には、すべての国務大臣は「案件の如何にかかわらず、議案を閣議に提出することができる」趣旨の規定がある。しかし、実際の運用としては、主任の大臣以外の国務大臣が閣議を求めることはない。例えば内閣府特命担当大臣の場合、内閣府の主任の大臣である内閣総理大臣に議案を上申したうえで、内閣総理大臣が閣議を請議することになる。
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地位と任免
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国務大臣は行政権の属する内閣の構成員である(日本国憲法第66条)。国務大臣の身分は国家公務員法第2条第3項において、特別職の国家公務員とされる。
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任命
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先述のように一般的に国務大臣という場合には内閣総理大臣を含めて指す場合とそうでない場合があり、両者で任命の主体と手続が異なる。_NEWLINE_内閣総理大臣は国会の議決により指名され(内閣総理大臣指名選挙、日本国憲法第67条第1項)、その国会の指名に基づいて天皇によって任命される(日本国憲法第6条第1項。親任式が行われる)。内閣総理大臣は文民でなければならない(日本国憲法第66条第2項)。_NEWLINE_内閣総理大臣の任命について定める日本国憲法第6条には日本国憲法第7条とは異なり「内閣の助言と承認」の文言がないが、内閣総理大臣の任命は日本国憲法第4条の「この憲法の定める国事に関する行為」に含まれるため日本国憲法第3条の効果として内閣の助言と承認を要する。先例では内閣総理大臣の任命については日本国憲法第71条の規定により従前の内閣が助言と承認を行うことになっている。この内閣総理大臣の任命によって従前の内閣はその地位を完全に失うことになる(日本国憲法第71条)。内閣総理大臣の任命においては衆議院議長と参議院議長の列席の下で任命式が行われる(実際の例では内閣総理大臣を任命する儀式として親任式が行われる。_NEWLINE_内閣総理大臣以外の国務大臣は内閣総理大臣により任命され(日本国憲法第68条第1項本文)、天皇によって認証される(日本国憲法第7条第5号)。「認証」は対象となる行為が権限ある機関によって正当な手続を経て行われた事実を確認し公証する行為である。認証には内閣の助言と承認を要するが(日本国憲法第7条第5号)、新内閣の成立時においては、性質上、それは新たに任命された内閣総理大臣のみによって行われることになる。国務大臣の認証においては認証式が行われる(実際の例では天皇の認証を必要とする国務大臣などの認証官の任命式については認証官任命式という形で行われ_NEWLINE_、内閣総理大臣による任命において天皇が辞令に親署するという形式で認証が行われる)。_NEWLINE_宮中の親任式及び認証官任命式で授与される「官記」は単に内閣総理大臣又は国務大臣としての任命・認証であり、どの行政事務を担当するかの辞令(例:「総務大臣を命ずる」)は式後に官邸で内閣総理大臣から発令される(これを「補職」・「補職辞令」という)。その他の国務大臣も内閣総理大臣と同様に文民でなければならない(日本国憲法第66条第2項)。_NEWLINE_国務大臣の過半数は国会議員にて構成しなければならない(日本国憲法第68条但書)。内閣の構成上の要件とされる。ここでいう「過半数」は国務大臣の定数の過半数ではなく現在する国務大臣の過半数を意味する。内閣を構成する国務大臣の過半数が国会議員であれば足り、国務大臣が国会議員の地位を失っても当然に国務大臣の地位を失うわけではない(ただし、内閣総理大臣は国会議員であることを在職要件とする)。_NEWLINE_内閣総理大臣臨時代理に憲法68条の国務大臣の任命権が認められるか否かについて学説は肯定説と否定説に分かれているが、政府見解は憲法68条の国務大臣の任命権は内閣総理大臣の一身専属の権利であるとする。先例としては石橋内閣において石橋湛山総理が病気のために岸信介外務大臣が内閣総理大臣臨時代理となったが、1957年(昭和32年)2月2日の小滝彬防衛庁長官の任命は石橋総理が自ら行っている(認証式や両院への通告は岸臨時代理が行っている)。_NEWLINE_外交上の敬称としては交渉国との間で主に大臣閣下という敬称と本官に相当する本大臣という自称で呼び合うこととなっている。また、内閣総理大臣・国務大臣等は自衛隊を公式に訪問し又は視察する場合その他防衛大臣の定める場合において栄誉礼を受ける栄誉礼受礼資格者に定められている(自衛隊法施行規則13条)。_NEWLINE_なお、国会議員でペンネーム(タレント時代などの芸名や、判り易く一部をひらがなにする)等にしてある場合、国務大臣に任命される際には戸籍に登録されている本名で任命を受け、連署・署名など国務大臣として行う場合は本名でなくてはならない。
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罷免
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日本国憲法第68条第2項は「内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる」と定める。「任意に」とは時期や理由を問わず法的には何らの制約なく、内閣総理大臣の自由な裁量によって決しうることを意味する。国務大臣の罷免の政治上・道義上の当不当は本条の問題とは別の問題である。国務大臣の罷免権は任命権と同じく内閣総理大臣の専権に属する。_NEWLINE_国務大臣の任免は天皇によって認証される(日本国憲法第7条第5号)。したがって、内閣総理大臣の専権事項とされる罷免そのものの決定には閣議は不要であるが、通説によれば天皇の国事行為である認証については内閣の助言と承認を要し閣議が必要とされる。この場合、事の性質上、この閣議は国務大臣の罷免を妨げることはできず、罷免される国務大臣はこの内閣の助言と承認の決定に加わることができない。
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議院出席の権利義務
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国務大臣は両議院での議席の有無に関わらず、議案について発言するために議院に出席をすることができる。答弁または説明のために出席を求められた際は出席しなければならない(日本国憲法第63条)。この「議院」には本会議のほか委員会も含まれる。ただし、憲法上、各議院には運営等について自律権が認められている(日本国憲法第58条第2項)。国務大臣の議院出席の権利は国会法及び両議院規則に服するのであり、これに反しないようにしなければならない。
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法律及び政令への署名
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法律及び政令には国務大臣の署名と内閣総理大臣による連署を必要とする(憲法第74条)。内閣総理大臣及び各省大臣(下記一覧の防衛大臣まで)は内閣法上「主任の大臣」と呼ばれ、担当国務に関係する法律、政令を公布する際その末尾に国務大臣による署名と内閣総理大臣の連署を要することになる。「主任の大臣」以外の大臣(下記一覧の内閣官房長官以下)は、連署・副署をしない。ただし、「主任の大臣」の誰かが外遊等で国内不在となる場合に一時的にその臨時代理を命ぜられることがあり、その際は連署・副署に名を連ねることとなる。_NEWLINE_主任の大臣が複数あるときは署名は建制順による。また、内閣総理大臣自身が主任の大臣として署名の主体となるときは連署は行わない例である。_NEWLINE_今日の通説的見解によれば、この署名・連署は執行の責任を表示するという性質のものであり、これを欠いていても法律や政令の効力やこれらの執行の責任には影響しない。_NEWLINE_大日本帝国憲法下の「副署」が国務大臣の輔弼についての責任を表示するものであったのに対して、現行憲法下の「連署」は法律・政令に対する内閣自身の執行・制定についての責任を表示するものであり性格が異なる。なお、現行憲法下においても「副署」が行われる例(解散詔書など)があり、これは憲法74条に規定する「署名」や「連署」とは異なるものであるが、天皇の国事行為において内閣による助言と承認があったことを内閣総理大臣が内閣を代表して確認を行うもので慣行として適当なものであると評価されている。
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特典
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日本国憲法第75条は「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない」と規定する。この規定は国務大臣の特典であるとともに内閣の一体性を確保し、内閣総理大臣の内閣の首長としての地位を強化するものである。_NEWLINE_日本国憲法第75条の「訴追」については、刑事訴訟法上の逮捕・勾留を含むとする説(本来的には「公訴の提起」を意味するが、憲法75条は国務大臣の身体の自由を保障した趣旨である)と逮捕・勾留を含まないとする説(憲法上あるいは諸法令上の「訴追」とは裁判・懲戒・罷免の請求を意味する)が対立している。政府見解は「訴追」には逮捕を含まないとしている。先例としては1948年9月30日に栗栖赳夫国務大臣(経済安定本部総務長官兼物価庁長官兼中央経済調査庁長官)が昭和電工事件で内閣総理大臣の同意なく逮捕されたが、この事件で東京高裁は憲法75条の「訴追」に逮捕、勾引、勾留のような身体の拘束を含むとは解しえないと判示している(東京高判昭和34年12月26日判時213号46頁)。_NEWLINE_先述のように「国務大臣」には内閣総理大臣を含む場合と含まない場合があるが、日本国憲法第75条の「国務大臣」についても、内閣総理大臣もこの「国務大臣」に含むとする学説(内閣総理大臣の訴追には総理自らの同意を要すると解する)と、内閣総理大臣はこの「国務大臣」には含まれないとする学説(内閣総理大臣が自らの訴追に同意するということは考えにくく、また、国務大臣について内閣総理大臣の同意を要するとしている本条の精神からみて、内閣総理大臣については他の国務大臣よりも強く保護されているものと解すべきであるとし訴追だけでなく逮捕されることもないという特典が自ずから導かれるとみる)の二つの説が対立している。_NEWLINE_本条により内閣総理大臣の同意を欠く国務大臣の訴追は認められず、内閣総理大臣の同意なく国務大臣が起訴された場合には公訴は無効となる(刑事訴訟法第338条4号)。_NEWLINE_本条の効果は在任中に限られるので国務大臣の退任後は内閣総理大臣の同意がなくとも訴追ができることは当然である。本条ただし書きの「これがため、訴追の権利は、害されない」は、通説によれば公訴時効の進行が停止することを意味すると解されている。ただし、時効の進行の停止する始期については、国務大臣在任中は当然に時効が停止するとみる学説と内閣総理大臣が訴追への同意を拒否した時点から時効の進行が停止するとみる学説の二つの説が対立する。_NEWLINE_なお、国会議員たる国務大臣については、国会議員の立場では不逮捕特権(日本国憲法第50条)や免責特権(日本国憲法第51条)も認められる。ただし、免責特権について、多くの学説は国会議員の立場ではなく国務大臣の立場でなされた発言は免責対象とはならないと解している。国務大臣としての地位や責任は国会議員とは性格が異なるものであり、また、これを認めると国会議員でない国務大臣との間に不均衡を生じることになり妥当でないとされる。下級審の判例も同様の解釈をとっている(東京高判昭和34年12月26日判時213号46頁)。
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内閣の組織
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内閣は内閣総理大臣及びその他の国務大臣で組織される(日本国憲法第50条、内閣法第2条第1項)。内閣総理大臣は内閣の首長(日本国憲法第66条1項、内閣法第2条第1項)で、他の国務大臣の任免権(日本国憲法第68条)、国務大臣に対する訴追同意権(日本国憲法第75条)、行政各部の指揮監督権(日本国憲法第72条)、閣議における発議権(内閣法第4条第2項)などを有する。その他の国務大臣は原則14人とし必要であれば更に3人まで任命できるとされているが(内閣法第2条第2項)、後述のように特別法による特例が設けられることがある。_NEWLINE_なお、日本には、他国の副首相に相当する官職は存在しない。ただし、組閣時に内閣法第9条に定める内閣総理大臣臨時代理予定者を決める際にあらかじめ指定された国務大臣を副総理と呼ぶ慣行がある。
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行政事務の分担管理
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各大臣は、法律の定めるところにより、主任の大臣として行政事務を分担管理する(内閣法第3条第1項)。ただし、行政事務を分担管理しない大臣(いわゆる無任所大臣)を置くことを妨げるものではない(内閣法第3条第2項)。
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内閣総理大臣臨時代理
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内閣法第9条に「内閣総理大臣に事故のあるとき、又は内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が、臨時に、内閣総理大臣の職務を行う」と規定されており、内閣総理大臣が死亡・病気・海外出張等で不在となった際には、あらかじめ指定された国務大臣が「内閣総理大臣臨時代理」の職名で職務を行う。2000年4月以降、組閣時に就任予定者5名があらかじめ指定される規定となった。
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副大臣・大臣政務官・大臣補佐官・大臣秘書官
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現在、内閣はじめ省庁における大臣以下の政治ポストはかつての政務次官が副大臣や大臣政務官などに再編され、省内における政治任用職も増えた。1996年(平成8年)に内閣総理大臣補佐官が、2014年(平成26年)に大臣補佐官が新設され、国務大臣を補佐する体制がより高められた。内閣総理大臣補佐官の定数は5名、内閣府の大臣補佐官の定数は6名、復興庁とその他の省の大臣補佐官の定数は各1名で、いずれも特別職で、国会議員の兼任、非常勤が可能である。_NEWLINE_内閣総理大臣秘書官以外の大臣秘書官は定数1名で官庁の外から政治的任用される(通例はその大臣の議員第一秘書などが務めることが多い)。当該省庁の職員も大臣秘書官と呼ばれるポストに就いて大臣を補佐するが、これは厳密には大臣秘書官事務取扱といい、正規の法定秘書官ではない。大臣以下副大臣・政務官の品位と倫理を維持するため、大臣規範などを定め、汚職の防止や兼職の禁止など自律的な制約を定めている。
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歴史
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大臣とは古来からの日本固有の高官職名である。明治期に太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣といった大臣職が改められ、内閣制度の発足とともに、内閣構成者としての内閣総理大臣及び国務大臣として新たな大臣の職掌が整備された。明治以降も昭和初期まで内大臣・宮内大臣(現・宮内庁長官)の職が置かれたが、これは閣外の職位であり、国務大臣には含まれず内大臣府・宮内省(現・宮内庁)にあって天皇を補佐する役目であった。_NEWLINE_終戦後、1955年(昭和30年)の自由民主党の結党より始まる55年体制の下での大臣の選任は、(人格や識見によることもあったにせよ、概ね各派閥間の均衡を目的とした)いわゆる「派閥の論理」で行われた。_NEWLINE_政治家にとって大臣の職は権威の象徴であり、自由民主党では、当選回数5回以上(衆議院議員の場合)が国務大臣の資格の条件とされたが、大臣を拝命していない政治家は大臣待望組といわれた。また大臣になるために執念を燃やしたり、その地位にとらわれることを俗に「大臣病」といった。 | 12139584608181520906 |
Q1372123 |
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国民の生活が第一
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名称
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党名は、一般の人からも党名案の候補が出され350を超える候補が寄せられたが、代表に就任予定であった小沢一郎の判断で「国民の生活が第一」が提案され、決定された。この「国民の生活が第一」は、民主党が2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙および2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙で使用したスローガンと同一である。_NEWLINE_2012年(平成24年)7月13日、英語名称を「People's Life First」、英語略称を「LF」に決定したと発表。また、7月17日、次期衆議院議員選挙の比例代表で用いる略称を「生活」とすることを中央選挙管理会に届け出た。
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結党まで
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民主党は2011年9月2日の野田内閣発足後、党内対立を深めていた。2011年12月には、小沢に近い衆議院議員9名が民主党を離党して新党きづなを結成、小沢の別動隊・先鋒隊とみなされていた。
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結党
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結党に先がけ、2012年(平成24年)7月4日に院内会派として衆議院では「国民の生活が第一・無所属の歩」、参議院では「国民の生活が第一」を届け出たが、翌日の7月5日には衆議院についても「国民の生活が第一」に改めた。議会内での会派略称は「生活」。_NEWLINE_11日18時より結党大会が憲政記念館で開催され政党名が公表された。結党時の所属議員は一年生議員が半数以上を占めており、衆議院は民主党・自由民主党に次ぐ第3党、参議院は民主・自民・公明党に次ぐ第4党であった。同年7月12日に新党きづなと衆議院で統一会派を結成。衆議院での会派名を「国民の生活が第一・きづな」とした。結成直後の7月中旬から8月中旬の世論調査での支持率は、読売新聞は1%、毎日新聞は2%、朝日新聞は1%であった。
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地方へのひろがり
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公に地方首長や地方議員を抱えていないが、達増拓也岩手県知事は、「生活」の結党の趣旨に賛同すると記者会見で表明して、所属していた民主党を離党した。また、岩手県議会で民主党を離党した県議会議員10人も、「生活」の結党の趣旨に賛同して、新会派「希望・みらいフォーラム」を2012年7月26日に結成している。この会派の規模は民主、自民に次ぐ第3党である。また、千葉県議会の県議1人は、同党の結党に同調し、新会派「生活が第一」を2012年7月20日に結成している。2012年8月1日には栃木県議会で山岡賢次衆議院議員の直系で民主党会派を離脱した県議2人が新会派「県民第一の会」を結成した。
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新党きづなが合流
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8月、野田が「近いうち」の衆議院解散を明言した後、きづなとの合併に急速に動く。10月以降、きづな所属の渡辺義彦と三輪信昭が同党を離党して国民の生活が第一に入党。解散を翌日に控えた11月15日、きづなは解党し、生活に合流した。
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日本未来の党へ合流のため解党
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解散後の11月27日、当時滋賀県知事を務めていた嘉田由紀子が「卒原発」「脱増税」の政策を掲げる日本未来の党を結成した。同日、小沢も脱原発勢力の結集を目指してこれに合流することを決意、国民の生活が第一は日本未来の党へ合流した。なお党そのものは総選挙後まで存続しており、12月10日には党代表が小沢一郎から主濱了へと交代した。_NEWLINE_国民の生活が第一に残っていた石田三示が総選挙に立候補せず、前議員の資格を失ったため、第46回衆議院議員総選挙終了後の12月16日に政治資金規正法に基づく政党でなくなり、解党した。12月18日には政治資金団体の国民生活会議が「政治資金規正法に基づく政治資金団体になるべき団体としての指定の取消しの届出」を提出している。党に残っていた主浜ら参議院議員4人は日本未来の党に合流した。_NEWLINE_その後、日本未来の党は小沢派と代表の嘉田との間で考え方の違いが生じ、嘉田側が同党を離党。代表も国民の生活が第一に所属していた森裕子に交代して「生活の党」へと党名変更した。以降、生活の党は議席の回復に至る事はなかった。
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岩手県連所属議員らの政治資金移転問題
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民主党を離党し同党に移籍した議員のうち、同党岩手県連所属の菊池長右ェ門・衆議院議員と佐々木順一・岩手県議の2人が、民主党岩手県連が管理していた資金を、民主党に無断で各々の資金管理団体に移していたことが発覚。民主党岩手県連は2012年(平成24年)10月11日に、この2名の議員を相手取る形で、約4,950万円の損害賠償の支払いを求め盛岡地方裁判所に提訴し、現在係争中である。 | 1223822329722931378 |
Q11421064 |
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国民体育大会空手道競技
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概要
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組手と形で行われる。_NEWLINE_組手は個人戦と団体戦があり、それぞれノックアウトトーナメント方式で争われる。成年男子のみ体重別階級あり。 | 15844473152572931369 |
Q6157073 |
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国道264号
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概要
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豆津橋から、縄手町交差点(久留米市)までは交通量が多いにもかかわらず2車線の道路で線形も悪く、朝夕を中心に混雑が激しい。そのため、豆津橋東詰交差点から本町交差点までの区間にバイパス道路を設置されている。
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バス路線
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佐賀市と久留米市を乗り換えなしで結ぶ路線バス2路線のうち、西鉄バスの江見線が大部分で当路線を通る。 | 10370682962609293007 |
Q11439493 |
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国道8号大野道路改良
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接続する道路の位置関係
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(新潟方面)新潟バイパス - 黒埼IC - 現道 - 大野道路改良 - 白根道路改良(京都、東京方面) | 16831599259627365395 |
Q11421527 |
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国鉄1325形蒸気機関車
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1325形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道省に在籍したタンク式蒸気機関車である。
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概要
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元は、博多湾鉄道(後の博多湾鉄道汽船)が1911年(明治44年)にアメリカのアメリカン・ロコモティブのロジャーズ工場で2両(製造番号50331, 50332)を製造した、2気筒単式で飽和式、車軸配置0-6-0(C)のサイドタンク式蒸気機関車で、博多湾鉄道では8形(8, 9)と称した。1942年(昭和17年)の西日本鉄道成立による承継を経て、1944年(昭和19年)に糟屋線(現在の九州旅客鉄道香椎線)が戦時買収されたのにともない、鉄道省籍となったものである。国有化後は、1325形(1325, 1326)と改番されたが、ほとんど使用されないまま、1325は1947年(昭和22年)、1326は1950年(昭和25年)に廃車となった。_NEWLINE_なお、原形のサイドタンクは、第1動輪の中心線までしかなかったが、後に増量され、前方に延長されていた。 | 8995758069434378139 |
Q11421534 |
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国鉄145系電車
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145系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が101系電車の改造名義で製作した単独電動車 (1M) 方式の直流用新性能電車である。_NEWLINE_145系に属する形式は全てが事業用である。また、145系の制御システムに抑速ブレーキを付加した147系電車(クモユニ147形)についても併せて記述する。
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クモヤ145形
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クモヤ145形とは国鉄が1980年(昭和55年)から製造した直流電化区間用の牽引車である。主に車両基地内の入換やマヤ34形客車(軌道試験車)の牽引(マヤ検)に使用される。
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投入の目的
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当時首都圏にはATC対応のクモヤ143形が新製配置されていたが、地方にはまだ戦前製の旧形国電や私鉄買収車両などを種車とした旧形の牽引車や救援車などが使われていた。旧形車の置換えとして、101系電車の改造名義で主電動機や電動発電機、台車などを流用して製作された。
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特徴
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101系電車のクモハ100形・クモハ101形・モハ100形・モハ101形の各形式を種車に、1M方式の制御電動車とされた。_NEWLINE_車体はクモヤ143形とよく似た貫通型の高運転台・1,800mmの両開き戸が片側1箇所ずつ配置されたものが新製され、電車庫内などでの押し込み作業を考慮し2基のパンタグラフを搭載する。_NEWLINE_塗色は他の事業用車両と同じく、青15号の車体に黄5号を警戒色として前面窓下部に入れている。前面下部のスカート(排障器)は省略されている。_NEWLINE_C2000形コンプレッサと70kVAの電動発電機を搭載し、冷房装置つきの他車への空気・電力供給も可能になっている。また、電動発電機は種車の101系電車と同様、抵抗器冷却用の送風機をかねている。クモヤ143形と異なり、本形式にはATC装置は搭載されていない。_NEWLINE_足回りは基本的に種車のままであり、台車はDT21形・MT46A主電動機を搭載するが、後天的改造で主電動機をMT54へ載せ替えた車両もある(1000番台)。
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現状
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1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化の際に全車両が本州3社に承継されたが、東海旅客鉄道(JR東海)の車両は2008年に全車廃車された。
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特徴
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台車や冷房装置など重量物や大型の部品も運べるよう、車体の大部分がトラックのように屋根が取り払われたような構造の無蓋室(部屋になっているわけではないが、便宜上こう呼ばれる)になっており、運転室部分後部のほぼ客用扉と戸袋部分に相当するスペースが小型の部品の運搬や職員輸送などに用いられる、有蓋室に当てられている。_NEWLINE_改造元となった101系からは、台車、主電動機、電動発電機などが流用され、その特徴的な車体などは車体構造を強化する目的でそれまでの旧形国電からの改造車と同じ17mとし、台枠を厚くした設計にて新規に製作された。短編成で運用されることから、MM'ユニット方式から1M方式に変更し、101系から流用した主電動機の端子電圧の関係で回路構成を永久直列接続としている。_NEWLINE_また一部に架線のない工場や車両基地内での入換が容易にできるようにパンタグラフがクモル145形のほか、モーターのないクル144形にも設置されている。ただしクルのパンタグラフから得た電力は、一般のジャンパ連結器を通してクモル側に供給されるため、連結器の熱容量の都合上、長時間の使用はできない。そのため本線走行時は常にクモル側のパンタグラフのみを使用する。_NEWLINE_首都圏に投入された車両は、線区を問わず運用できるよう、ATSの他、ATCも設置されている。
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現状
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全16編成のうち、東日本旅客鉄道(JR東日本)に10編成(番号末尾1 - 10)、JR西日本に6編成(番号末尾11 - 16)が承継されたが、車両基地と車両工場との間の部品輸送が配給車(列車)からトラックへ移行したことにより、1990年代以降廃車が進み、2008年6月にJR東日本東京総合車両センター(旧・山手電車区)所属の1編成が廃車されたことでJR東日本では全廃され、2009年8月にJR西日本吹田工場所属の2編成が廃車されたことにより、JR西日本に1編成(クモル145-1015・クル144-15)が残るのみとなった。同編成は2016年4月現在、吹田総合車両所京都支所に所属しており、2018年3月に全般検査を受け、出場している。また2017年12月21日から26日にかけて、京都鉄道博物館で一般展示が行われた。_NEWLINE_JR西日本に配置されている車両のうち2000年代以降に残った3編成は、車両性能向上や、他の在来車と部品の共通化を図るため、主電動機がMT46AからMT54系に交換され、電動車の番号は1000番台(原番号+1000)に改番された。また連結器が並型連結器と密着連結器との連結が可能な双頭連結器に換装され、車両工場での構内入れ替え等に使用される。 | 3634444471580287385 |
Q75706 |
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国防省 (フランス)
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大臣
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現在の第2次フィリップ内閣においては、フロランス・パルリが軍事大臣を務めている。 | 2461415868516031372 |
Q212928 |
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国際スキー連盟
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歴史
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1924年にフランスのシャモニーにて14ヵ国の代表で創立。2013年現在では111ヵ国の各国スキー連盟が所属している。日本では全日本スキー連盟(SAJ)が1926年に加盟した。
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主な主催大会
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スキー競技ではワールドカップ、世界選手権、冬季オリンピックが世界の頂点を決める三大大会とされている。ワールドカップと世界選手権はFISの主催であるが、オリンピックのみは国際オリンピック委員会の主催となる。一方、スノーボード競技とフリースタイルスキーの一部競技ではワールドカップなどよりもアメリカ合衆国の賞金レースXゲームズの方がレベルが高いとされ、Xゲームズで活躍するワールドカップポイントの低い選手が、オリンピックで金メダルを獲ることもある。 | 8718624465308997495 |
Q866910 |
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国際バイアスロン連合
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国際バイアスロン連合(英語: International Biathlon Union、略称:IBU)は、バイアスロンの国際競技連盟であり、本部は、オーストリア・ザルツブルクにある。
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歴史
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IBUは、1993年7月2日に設立。それまでは、1953年から1993年の分離まで、国際近代五種・バイアスロン連合(UIPMB)が存在していた。それを国際近代五種連合とともに分離のちに設立された。テレビ中継の放送権はすべてユーロビジョン・ネットワーク(欧州放送連合)が独占契約を結んでいる。 | 8205240256124736687 |
Q2975816 |
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国際ボクシング評議会
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国際ボクシング評議会(こくさいぼくしんぐひょうぎかい、英:International Boxing Council)はプロボクシングの王座認定団体。略称はIBC。マイナー団体に分類される。
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概要
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1990年代にはヘクター・カマチョ、トミー・モリソン、ドノバン・ラドックなどの名のある選手が保持していたこともある。特にメジャー・タイトルに手が届かなくなってからのカマチョはこのタイトルを活用し、キャリア終盤のロベルト・デュランやシュガー・レイ・レナードらを相手に王座を防衛した。日本のK-1に参戦した元プロボクサーのヴァージル・カラコダも2001年にこのタイトルを獲得したことがある。しかし、マイナー・タイトルなので、この王座を獲得してもボクシング界では世界王者として認められない。_NEWLINE_近年はIBCのタイトルマッチも激減し、公式サイトの更新もない。現在は活動しているものの、ビッグマッチは行なわれていない。 | 7336068683768976479 |
Q14626962 |
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国際婦人年
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用語について
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「国際婦人年」と「国際女性年」の2つの用語が用いられている。1975年の制定時から「国際婦人年」とされてきたが、「婦人」という用語については、総理府(現内閣府)の婦人問題企画推進有識者会議意見(1990年)で、早急に改正が困難である法令に基づく用語・固有名詞等を除き、それまで一般に使われていた「婦人」という用語を「女性」に変更すべきであるとの意見が出され、以降、この意見を踏まえて内閣府の婦人問題関係の報告書等では、法令に基づく用語・固有名詞等を除き、「女性」の用語が用いられるようになった。これに伴い、内閣府男女共同参画局の報告書等でも特に近年は「国際女性年」の用語が使用されている。また、女性学・フェミニズム関連の専門家が編集・監訳した事典では、たとえば、1998年出版の新版『フェミニズム事典』では「国際女性年」、2000年出版の『フェミニズム歴史事典』でも「国際女性年」、さらに、2002年出版の『岩波女性学事典』では項目名を「国際婦人年」とし、「国際女性年とも」と併記している。_NEWLINE_なお、現在、日本では「国際婦人年連絡会」が中心的な役割を担っている。
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沿革
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女性の地位委員会(CSW)は女性に対する差別を撤廃する宣言の採択に向けた努力を数年にわたり重ね、1965年に女性の人権を確実にする宣言採択に向けて真摯に道を開こうと計画する。政府関係者やNGO代表および国連職員から、教育、雇用、相続、刑罰改革その他の問題を網羅する回答を得たCSW代表は、女性に対する差別撤廃宣言 (DEDAW)を起草、1967年11月7日に総会で可決される。宣言に対する支持を得ると次の段階は、条約として批准にかける準備である。予定よりも遅れながら1972年には米国議会がTitle IXを可決、連邦補助金の受給機関における教育の差別を撤廃したとき、撤廃宣言が議会を通過するという期待が高まる。それまで長い間、女性国際民主連盟(WIDF)の加盟組織は女性の不平等に対処する国際的な女性年と女性会議を切望していた。WIDFはCSWの加盟団体ではなくオブザーバーに指定されたため直接イベントを提案する立場ではなかったものの、提案をまとめるとルーマニア代表にCSWへの提出を代行してもらうにつき、フィンランドの支持を取り付ける。CSWは提案を受理し総会で提議、1972年12月の総会で1975年を国際女性年とすると宣言した。その日付には重い意味があり、国際連合発足30周年にあたったのである。_NEWLINE_ところが会議には問題が山積していた。当初、ソ連の女性は会議招集を拒んで交渉を強行すると、独自の会議を国連の枠外の東ベルリンで開催したいと申し入れた。そこで米国は冷戦政策の一環として、女性限定の会議はまともに受け止められないのだから出席は女性に限らず、ジェンダーに中立であるべきだと提案した。メキシコシティは会議の開催に同意し、CSWはCEDAW通過を確実にする「仕掛け」の準備に向けて動き出す。ヘルヴィ・シピラ Helvi Sipilä(フィンランド)は社会開発および人道問題担当事務次長に選ばれると、その年のイベント開催責任者を委嘱される。
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メキシコシティ
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第1回国連女性会議は6月19日から7月2日までメキシコシティで開催された。1975年の会議では世界行動計画(en)採択に加え、女性の平等と開発と平和への貢献に関するメキシコ宣言(en)が採択される。これに基づき監視メカニズムとして国際婦人調査訓練研究所(INSTRAW)や国連女性開発基金(UNIFEM)などの確立につながり、フォローアップ会議開催の動議を策定、その初回は1980年にコペンハーゲンで開催される。1975年から1985年までの期間を国連女性の10年として確立し、女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(CEDAW)の迅速な批准を求めた。1985年にナイロビ(ケニア)で開催された第3回会議は「国連女性の10年」を締めくくるだけでなく、一連の加盟国で2000年を期限として性差別撤廃を国内法で制定する日程を設定した。1975年のメキシコシティ会議には1000人以上の代表が参加、著名な出席者にはオーストラリアのエリザベス・リード(Elizabeth Reid)とマーガレット・ホイットラム(en ゴフ・ホイットラム首相夫人) ならびにスーザン・ライアン Susan Ryan (IWY事務局所属・のちの国会議員で大臣)が含まれていた。国際女性年のトリビューンも組織され、1975年の参加は女性4000人である。
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東ベルリン
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東ベルリンでは、メキシコシティ会議の開催直後にIWY主催で世界女性会議が開かれた。女性の平等は「社会主義的な人権の概念の真の具現化」として理想化されている。平等権に関する作業部会を構成する政府と法律の専門家は東ドイツ科学アカデミー(en)、フンボルト大学、社会党統一党中央委員会に在籍し、女性の権利は性別指定とは別の領域に属するべきという考えを否定する代わり、国連による人権の立場によって統帥されるべきと決定した。会議の主要招待者にはアンジェラ・デイビス、オルテンシア・ブッシ・デ・アジェンデ(en サルバドール・アジェンデ元チリ大統領夫人)が名前を連ねた。国の後援を受けたプログラムは国家社会主義を通じて階級、人種、性別に基づく抑圧から女性を解放する国家闘争における女性の連帯を提唱した。
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ブリュッセル
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女性に対する犯罪に関する国際法廷創設を計画したIWYだが、ようやく1976年3月4日から同月8日の会期にブリュッセル(ベルギー)で開催される。会議は資金調達の制約により40カ国2000人の女性を受け入れ、登壇者はさまざまな形で女性が受ける経済的搾取と暴力を取り上げた。同会議の最も重要な成果として国際フェミニストネットワークの創設を見る。
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シオニズムをめぐる論争
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1975年会議のもうひとつの注目点として、国連が提唱するフォーラムで初めて「シオニズムは人種主義」動議が可決され、翌11月の1975年国連総会決議3379(英語)の下地が整う。_NEWLINE_シオニズムを人種差別と同一視する声明は、当初、1985年開催の「国連女性の10年」(ナイロビ)の最終会議に提出する報告書案の付録にも含まれていた。しかしIt Takes a Dream: The Story of Hadassah (1997年)でマーリン・レビンが述べているように、「バーニス(・タンネンバウム Bernice Tannenbaum)が国連決議を公に否認するよう求めると、ロナルド・レーガン(アメリカ大統領)はシオニズムは人種差別と同等決議が最終会議の宣言に盛り込まれた場合、アメリカ代表団をナイロビから撤退させると約束する」。 タンネンバウムは重ねて米国上院に働きかけ、会議の決議を非難し、撤回を要求させる。さらに自ら上院決議案件としてケニアに飛んでおり、現地ではレーガン大統領の娘でアメリカ代表団長であったモーリーン・レーガン(英語)が大統領の約束を繰り返し、最終会議に決議が含まれた場合は会議から撤退すると表明した。ケニアの妥協案仲介でシオニズム動議を含まない最終会議報告書が提出される。
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オーストラリア
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「女性と政治」に関する会議を9月に開催、女性700人が参加した。
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カナダ
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カナダで行われたIWYイベントは総体としてカナダの女性に限らず、一般大衆の幅広い層に向けて女性の問題と成果に関する認識を高めた。オンタリオ州女性弁護士協会(Ontario Women and the Law Association)ならびにカナダ接待業・事務職・小売労働者組合(SORWUC)の創設を促し、女性の視点を教育および芸術活動に示すことを目指して参加する多くの人々に資金がもたらされた。カナダ映画協議会 National Film Board of Canada への請願もその一環であり、スタジオDの創設が実現する。グエルフ大学 (en)は同年9月にネリー・マクラング(en 全米女性参政権協会)に捧げる会議を開催、マクラングの念願であった改革問題を議題とした。
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ニュージーランド
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6月、 ウェリントンで合同女性会議 (United Women's Convention)を開催。
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アメリカ
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IWYを支援する1977年のイベントは民間組織やNGOによって全米で催され、6月11から12日にかけてコネチカット州で、同10月にクリーブランド広域会議で行われた。米国で最重要のイベントの1つは米国政府の助成金を受けるため開催地はテキサス州ヒューストンに計画されたものの、IWYイベントとして実現するには1977年まで待つこととなる。1977年アメリカ女性会議(en)は全ての州から代表の女性を集め、世界行動計画の多くの課題を反映する国家行動計画を策定した。
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ロゴ
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IWY作成の「鳩」のロゴはIWYの他CEDAWおよびUNIFILが使用する。様式化された鳩の形に女性を示す記号と等号(♀・=)を重ねたデザインは、当時27歳のヴァレリー・ペティス(グラフィックデザイナー・ニューヨークの広告会社勤務)から寄付を受けた。これはUNウィメン公式標章として 、現在も国際女性デーを祝う際に使用される。 | 10459543644887047424 |
Q1161813 |
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国際連合総会議長
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選考
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地域の偏りを防ぐため、5つの地域(アフリカグループ、アジア太平洋グループ、西ヨーロッパグループ、ラテンアメリカとカリブ海グループ、東ヨーロッパとその他グループ)に分かれ、その5グループが順番に議長国を務める。1956年より、同じグループから連続で議長国となった例はない。_NEWLINE_国際連合事務総長と同様に、国際連合安全保障理事会常任理事国(通称: P5)の出身者から議長が選ばれたことはない。その他、列強・大国とされる国からも選出が避けられる傾向がある。例外としては大国とされ常任理事国入りを主張しているブラジルとインドから議長が選ばれたことがあるが、これはいずれも国際連合総会が始まって間もないころのことである(1947年と1953年)。_NEWLINE_議長国を複数回務めた国はこれまでにアルゼンチンのみで、第3回(1948年)と第43回(1988年)の2度務めている。_NEWLINE_女性が議長を務めたことはこれまでに3度のみである。1953年、インドのヴィジャヤ・ラクシュミ・パンディットが初の女性議長となった。 | 13506086007669559744 |
Q11422833 |
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園田安賢
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園田 安賢(そのだ やすかた、1850年10月6日(嘉永3年9月1日) - 1924年8月7日)は、幕末の薩摩藩士、明治から大正期の内務・警察官僚・政治家・実業家。貴族院議員、宮中顧問官、男爵。警視総監(第8代・第10代)、北海道庁長官(第8代)。
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経歴
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薩摩藩士・園田良右衛門の長男として生まれる。戊辰戦争には慶応4年5月(1868年)から北陸征討軍に伍長として従軍し、戦傷を受けた。明治4年10月(1871年)、東京府取締組組頭となり、さらに司法省大警部となり1874年2月に退官。徴集小隊半隊長として台湾出兵に従軍した。_NEWLINE_1875年6月、警視庁14等出仕として再度、警察官となる。1877年4月、陸軍歩兵中尉兼警部として、西南戦争に抜刀隊巡査部隊の長として従軍し、戦傷を受けた。_NEWLINE_1882年4月、石川県警部長に就任し、その後、石川県大書記官。警視庁二等警視兼内務少書記官に異動。1884年4月から1886年4月まで各国警察の状況視察のため欧米に出張し、帰国後その報告を『泰西見聞誌』として出版した。以後、警視庁第三局長、滋賀県書記官、警視副総監兼第三局長などを歴任し、1891年4月に警視総監に就任。1896年6月5日、男爵を叙爵し、同年9月に退官した。_NEWLINE_1897年7月、貴族院男爵議員に選出され1911年 7月まで在任。1898年 1月、警視総監に再任され、その後、北海道庁長官、宮中顧問官を歴任。_NEWLINE_その後、帝国国債株式会社社長、共生銀行頭取を務めた。 | 1869782492158032622 |
Q7827528 |
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土佐加茂駅
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駅構造
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相対式ホーム2面2線を有する地上駅。配線は一線スルーではなく、分岐側を下り列車が使用する。なお、分岐器の速度制限は下りが60km/h、上りは100km/hである。_NEWLINE_駅舎は古い木造駅舎を縮小して作られた簡易なもので、その屋根は曲線状になっている。無人駅である。 | 1307020207895685488 |
Q11423039 |
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土佐煮
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概要
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筑前煮など、ほかの煮物にも鰹節を出汁のひとつとして使うものは多いが、土佐煮では鰹節の濃厚な味を生かしたり、具材の一部として使う特徴がある。土佐酢などと同様、鰹節を用いることから鰹で有名な土佐(現高知県)の名を用いる。高知県下に限らず、日本各地でこの手法や名称の料理が作られている。_NEWLINE_タケノコのものがよく知られているが、ゴボウやフキなどでも作られる。一般に、あまり甘味を加えずに、醤油と鰹節の風味を生かした煮方で作られることが多い。 | 8282267799227009585 |
Q1707766 |
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土壌物理学
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土壌物理学 (どじょうぶつりがく)は、土壌の物理的性質と過程を研究する学問分野である。自然あるいは人工の生態系を管理・予測するときに応用される。土壌物理学は、土壌の構成成分である固体、液体、気体の三相を取り扱う。物理学、物理化学、工学、気象学の原理を、農業、生態学、工学のような現実的な問題を解決するために利用する。特に、現代では多くの農家が農業生態系の理解を必要としているため、重要となっている。 | 5370432276371603785 |
Q11423438 |
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土川 (大仙市)
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地理
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大仙市北西部、心像川流域に位置する。西で北楢岡・刈和野・協和峰吉川、南で四ツ屋・松倉・神宮寺、北で協和稲沢および仙北市角館町西長野、東で・松倉・長野および仙北市角館町八割・角館町下延と隣接する。秋田県道10号本荘西仙北角館線が南部を横断し、秋田県道254号土川神岡線が南に分岐するほか、西から北へ秋田県道252号水沢西仙北線が通過する。 | 10066220667289025082 |
Q40076556 |
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土龍斎
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土龍斎(とりゅうさい、生没年不詳)とは江戸時代の浮世絵師。
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来歴
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礒田湖龍斎の門人かといわれる。安永期に土龍斎と号して噺本に挿絵を描いている。土龍斎は安永5年(1776年)刊行の噺本『売言葉』(整々畔市和作)に湖龍斎とともに2葉の挿絵を描いている。その絵は稚拙であり、画号は湖龍斎をもじったと見られる。 | 7366243838763904735 |
Q970739 |
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圧力隔壁
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圧力隔壁(あつりょくかくへき)とは、圧力を切り分ける設備である。この項目では航空機の圧力隔壁について解説する。
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概要
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与圧区域と非与圧区域の前後を隔てる機体設備で、旅客機や輸送機に限らず、ジェット戦闘機や練習機など与圧系統がある航空機にはほぼすべてに備わっている。 これは隔壁を設けることで、その外側に位置する構造へ与圧に耐える強度を持たせる必要がなくなり、軽量化を図ることができるからである。_NEWLINE_なお、このような設計を採用した際は万が一、圧力隔壁が破れた際に与圧に耐えられない構造が破壊する恐れがあるので、隔壁の後の構造に圧力を逃すための安全弁などを設ける必要がある。_NEWLINE_しかし、過去には設計想定を超える与圧漏れが発生し、オーバーフローを起こして構造破壊に至った例も存在する。_NEWLINE_なお、通常の圧力隔壁は積極的な制御機能を担っておらず、与圧は空気調和系統を通して機内に空気を導入することによって行い、減圧はアウトフロー・バルブから空気を排出することによって行なう。 | 442996296468993498 |
Q7730018 |
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地球の悪魔
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『地球の悪魔』(ちきゅうのあくま)は、手塚治虫の中編SF漫画作品。
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概要
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『少年少女 冒険王』(秋田書店)1954年(昭和29年)新年号(第6巻第1号)別冊付録として発表。初出時の題名は『地球1954』。翌1955年(昭和30年)、東光堂から単行本として再刊された際に『地球の悪魔』と改題された。改題にともない、作中に登場する怪人の名前も「地球一九五四」から「デモノバース」に変更されているほか、科白の一部などに変更がある。その後は長く再刊の機会に恵まれなかったが、1977年(昭和52年)に、講談社版『手塚治虫漫画全集』の第1回配本の1冊として再刊された。_NEWLINE_1950年代当時の核開発競争を背景とした、反戦色の強いSFであり、核戦争から人類の文明を守るための施設(核シェルター)として建設されることになった地下都市をめぐる葛藤と陰謀、そして、謎の怪人・デモノバースの暗躍を描いた作品である。初出時は、冒頭で、年代設定が題名通り昭和29年(1954年)夏であることが明示されていた。改題後も、地下都市建設工事を調達庁が担当し、国土防衛を保安隊が担当しているなど、年代設定が1954年であることを示唆する描写が残っている。_NEWLINE_舞台となった十三里村のモデルは、手塚が幼少時を過ごした兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)である。
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あらすじ
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十三里村では、2年前から、日本政府による地下都市の建設工事が、村民の反対を押し切って進められていた。謙吉少年がトラックにはねられて死亡する事故が起こったことをきっかけとして、建設反対運動は激しさを増す。_NEWLINE_ある夜、工事の責任者である高野博士とその妹のスミ子は、工事反対派の愚連隊に襲われる。そこへ、たまたま通りがかった村人の一人、福井英二少年が兄妹を救出する。高野博士は英二に、地下都市は原爆戦の発生に備えて人類の文化を保存するための、平和目的のものだと説明し、完成した際には十三里村の村民を地下都市に移住させることを約束する。その話を聞いた英二は、条件交渉の余地があるのではないかと考えはじめる。だがその一方、英二の双子の弟である英三は、強硬な反対派の一人として愚連隊に加わっていた。_NEWLINE_東京からやってきた私立探偵ヒゲオヤジは、村のパチンコ屋が愚連隊を集めて煽っていること、パチンコ屋夫婦の正体が、女スパイミス・ゾルゲとその手下であることを突き止めるが、捕まって地下に監禁されてしまう。偶然にタヌキの掘った穴を見つけて脱出したヒゲオヤジは、穴の中でスミ子と出会い、地下都市建設工事現場に抜け出る。_NEWLINE_工事現場で高野博士に面会したヒゲオヤジは、博士に「あなたはデモノバースというものについてご存じですか」と尋ねる。原爆の発明者の一人、水爆の発明者、そしてコバルト爆弾の発明者の一人が、いずれも遺言で「デモノバースに気をつけろ」という謎の言葉を残している、というのだ。そしてデモノバースとは、デモン・オブ・アース、すなわち「地球の悪魔」ではないかと言う。その話を聞いた高野博士は、異常な動揺を見せる。_NEWLINE_数日後。高野博士があらためてヒゲオヤジを地下都市に案内している際に、反対派の村民たちが地下都市に乱入し、博士とスミ子を捕らえて監禁する。その騒ぎの最中、ヒゲオヤジの前に、自らデモノバースと名乗る、鬼の仮面をかぶった怪人が現れた。_NEWLINE_乱入騒ぎは、地下都市を乗っ取るためにミス・ゾルゲとパチンコ屋が仕掛けたものだった。ミス・ゾルゲは地下都市に潜入し、地下要塞を発見する。その要塞の使用目的を尋ねられた高野博士は、「知らぬ」「説明できぬ」と言い、頭痛を訴えて倒れる。直後にミス・ゾルゲは、謎の装置の発する光線を浴びて、一瞬にして塵のように粉々になってしまった。それは、デモノバースの操るガンマ線の発射装置だった。_NEWLINE_乱入騒ぎの中で、パチンコ屋がスパイであることを知った英三は、村の人々にそのことを話すが、誰にも信じてもらえず、やむなく一人で愚連隊に立ち向かおうとする。そのことを知った英二は、英三の救出に向かう。さらに、英三を信じた修験者の馬場が警察に通報し、警官隊が出動する。_NEWLINE_パチンコ屋のおやじは「本部」(どこの国かは語られていない)に打電し、地下都市を破壊するために爆撃機の編隊を呼び寄せる。しかし、地下都市は爆撃にびくともせず、編隊は逆に、デモノバースの操るガンマ線によって全滅してしまう。_NEWLINE_ヒゲオヤジとスミ子を捕らえたデモノバースは、二人に対し、地下要塞やガンマ線発射装置は、自分が高野博士の頭脳を操って、本人も気づかない内に作らせたものだ、と語る。原爆や水爆も、彼の仲間たちが、同じようにして人間に作らせたものだと言うのだ。彼等の目的は、人間を操って殺人兵器を作らせ、それによって人類を自滅させることだという。デモノバースは、高野博士とミス・ゾルゲをホコリにしたというガンマ線を、二人にも浴びせようとする。_NEWLINE_だがその時、地下都市に侵入していた英二と英三が配電盤を壊したため、地下都市は炎上し、崩壊を始めてしまう。計画の失敗を悟ったデモノバースは、ついに正体を見せないまま、「いつかまた自分の仲間が地球に来る」と言い残して、炎の中に姿を消した。_NEWLINE_すべてが終わったのち、ヒゲオヤジは高野博士からスミ子宛ての遺書を手渡されていたことを思い出す。その遺書によれば、デモノバースと名乗っていた仮面の怪人の正体は、高野博士自身であった。デモノバースとは地球外からやってきた侵略者で、地球人の頭脳に寄生し、殺人的発明を重ねさせて自滅させようとしていたのである。博士は、デモノバースへの抵抗として、地下都市が簡単に崩壊するよう仕組んでおいたのだった。_NEWLINE_だが、村の開業医の手塚医師は、デモノバースなる侵略者が実在したとは信じられないと主張し、高野博士の頭の中にガンができていたことを根拠に、『博士は二重人格者であり、デモノバースとは博士の別人格にすぎなかったのではないか』と推測する。その説明に納得できないヒゲオヤジは、「きっといまに また世界のどこかでこんな事件が起こるであろう」と語るのだった。
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登場人物
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本作では手塚治虫本人のみならず、福井英一・馬場のぼる・高野よしてるら、友人の漫画家たちをモデルにした人物が登場する、という楽屋オチ的な趣向が見られる。 | 7987031189619183705 |
Q2088593 |
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地誌
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地誌(ちし)とは、地理上の特定地域を様々な諸要素(自然・地形・気候・人口・交通・産業・歴史・文化など)を加味してその地域性を論じた書籍。郷土誌。_NEWLINE_また、その地域性について研究する学問分野を地誌学(ちしがく)という。近代以後、地誌学は特殊地理学(地域地理学)、地域文化へと発展する事になった。 | 5470876508660472089 |
Q5327272 |
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地震保険
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歴史
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火災保険約款では、通常地震・噴火・津波によって生じた火災による損害を免責事由としているため、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災や1964年(昭和39年)6月16日の新潟地震の場合などで、火災保険は罹災者救済策として役立たなかった。そこで地震保険の創設に対する社会的要望が高まり、新潟地震から2年後、1966年(昭和41年)から地震保険に関する法律と地震再保険特別会計法が施行され、地震保険が実現した。_NEWLINE_1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災以降加入の動きが広まった。また、2007年1月より地震保険料控除制度がスタートした。_NEWLINE_損害保険料率算出機構によれば2012年度の火災保険新規契約者のうち地震保険にも加入した割合(付帯率)は56.5%と過去最高を記録した。
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保険の内容
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地震保険は、被災者の生活の安定を目的とする保険であるため、保険の対象は住宅及び生活用動産に限られ、保険事故は地震・噴火またはこれらによる津波を原因とする火災・損壊・埋没・流出による全損・半損・一部損である。_NEWLINE_この保険は、独立の保険ではなく、火災保険(住宅総合保険、店舗総合保険など)の契約に付帯する形(オプション)になっている。但し付帯を原則とするため、付帯を希望しないときには確認欄への押印が必要である。地震損害の巨大性に対処するため、政府が再保険することとなっており、保険金の支払いの確実を担保している。火災保険(主契約)の保険金額の30~50%に相当する範囲内で保険金額を設定することになるが、建物5,000万円、家財1,000万円が上限となっている。_NEWLINE_火災が地震を原因にして発生したか否かの線引きや、契約の分かりにくさが裁判に発展することがある。その典型的な例が、1993年(平成5年)に発生した北海道南西沖地震である。この地震では火災や津波で多くの家が被災したが、住宅購入時に金融機関で住宅ローンを組む際に加入した火災保険を保険会社に請求しようとした際、地震による被害を理由に支払いを拒否された。理由は契約書の「地震保険に入らない」という項目に印鑑が押されていたためだが、実際には住宅ローンを組む際、地震保険の話自体がなかったという。さらに、警察や消防から火災原因が不明と発表され、火災保険と地震保険のどちらが適用されるか分からない状態だった。そのため、被災者は保険会社に契約の瑕疵と原因不明を理由に保険金支払いを求める訴訟を起こした。裁判では当時の状況から火災原因が地震によるものとする判断だけがなされる形になり、2005年(平成17年)まで最高裁判所で争われたものの、原告側敗訴が確定した。_NEWLINE_一方、阪神・淡路大震災では、最初の揺れから半日たった夕方に発生した火災をもとに火災保険を受け取ろうとした被災者が、地震保険が未加入であることを理由に断られ、保険会社を相手取って訴訟を起こした。2003年(平成15年)まで最高裁判所まで争われたが、こちらも被災者の敗訴に終わった。_NEWLINE_保険料は、所在地(都道府県)と建物の構造により異なる。所在地は、地震の危険度により都道府県別に1等地~4等地までの4つに区分されており(4等地は、東京都・神奈川県・静岡県)、建物の構造は、木造か非木造かの2つに区分されている。また、築年数や耐震等級などの割引制度もある。なお、1回の地震について支払われる保険金の総額の限度が地震保険法施行令で定められており(2017年(平成29年)4月1日時点では11.3兆円)、支払うべき保険金の総額がその限度額を超える場合には、これに応じて保険金が削減される(関東大震災クラスの地震が発生しても全額支払可能と想定されている)。また、損害保険会社の経営が破綻した場合に契約者保護を行う「損害保険契約者保護機構」でも、地震保険は100%補償されることになっている。_NEWLINE_地震保険は、建物の時価額の30~50%を限度として補償する保険であるため、地震保険だけでは住宅を再建するための費用(再調達価額)に対して保険金が不足することもありうる。_NEWLINE_北海道南西沖地震や阪神・淡路大震災では、住宅が損壊・焼損しても住宅ローンの残額だけが残ってしまい、さらに損壊・焼損した住宅を建て替えるため、再度銀行等から借入れをするなど、多くの2重ローン債務者が登場し、「二重ローン問題」という形で社会問題化している。
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日本以外の地震保険
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米国カリフォルニア州、ニュージーランド、トルコ、台湾、アイスランドには日本と同様に国や州政府が関与する公的な地震保険制度が存在する。このうち台湾などでは火災保険に強制付帯させる制度となっている。メキシコの地震保険は民間保険会社が運営している。 | 1467477714868608111 |
Q11426318 |
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城陽市立南城陽中学校
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概要
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城陽市の南部にある中学校で、校区には青谷梅林などの名所がある。1979年に市内3番目の中学校として、前年には生徒数が1697名に達し、マンモス校となっていた城陽中学校より分離・開校した。_NEWLINE_城陽市立の小中学校は、教室の窓が南を向くよう、東西方向に長く校舎をレイアウトしているが、本校だけが45度東向きにずれてレイアウトされている。 | 4044091938213460631 |
Q11426379 |
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培風館
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概要
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創業者は山本慶治(1881-1963)。山本は兵庫県の豪農の家に生まれ、1908年東京高等師範学校英語科卒、1910年同教育研究科修了、奈良女子高等師範学校講師。岡本米蔵の紐育土地会社に勤務、その出版部門常務となり、1938年培風館として独立。当初は東京高等師範学校の教科書を刊行していた。1962年その長男の山本俊一(1910-2008、東大工学部卒)が社長となり、67年次男の山本健二(1912-93)が継ぐ。健二の死後その子の山本格が社長となる。_NEWLINE_かつては高校数学向けに「理系のための数学I」「理系のための基礎解析」などの受験産業にも1993年まで意欲的であった。1994年以後はその規模を大きく縮小したものの完全になくなってはいない。 | 9143359749854532100 |
Q11426773 |
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埼玉県立進修館高等学校
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概要
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行田市内に存在した県立校である行田進修館高等学校・行田工業高等学校・行田女子高等学校を統合して設置された。 設立に際し、歴史経緯上、元々一つの高校であるために市道を挟んで隣り合っていた行田進修館・行田工業の設備を活用することとし、両校間に連絡通路を設置し、統合後に行き来できるようした。2校と距離が離れている行田女子の設備は用いないこととした(後に埼玉県立総合教育センターの移転先として再活用)。 これに伴い、統合に先駆けて行田女子のみ生徒募集を停止した。行田進修館・行田工業は統合前年まで募集を継続しており、統合時の在校生は進修館に編入し、卒業まで旧校と同じ条件で在学できるよう配慮された。 | 10941764770730923763 |
Q11427949 |
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堕天使の涙
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『堕天使の涙』(だてんしのなみだ)は、宝塚歌劇団の雪組が公演したミュージカル。作・演出は植田景子。形式名は「Musical Fantastique」。17場。 本公演における併演作品は、レビューアラベスク『タランテラ!』(荻田浩一、作・演出)。_NEWLINE_雪組主演男役朝海ひかると主演娘役舞風りらの退団公演。
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内容
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神に見捨てられ、地上に落とされた天上界の天使ルシファー(演:朝海ひかる)。そんなルシファーに出会ったのは、振付師のジャンポール=ドレ(演:水夏希)。ジャンポールの双子の妹、盲目の少女リリス(演:舞風りら)。_NEWLINE_20世紀のパリを舞台に、地上に落とされた堕天使と地上に生きる人間との交流を描いたミュージカルファンタスティック。 | 13990385385779855558 |
Q30937302 |
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堺泉酒造
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沿革
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かつて大阪府堺市は酒の銘醸地であり、明治時代には100軒近くの酒造所があったが、水や土地の不足、大阪大空襲の影響などにより衰退。1971年(昭和46年)に最後の蔵元が灘の業者と合併し、以後酒造は途絶えていた。_NEWLINE_同市では酒造会社の元社長などを中心に酒造を復活させようとする動きがあったが、酒類免許の所得は安定して大量生産できる業者に限られていた事から、灘の酒造会社の協力を得て、酒類販売免許を取得。2014年12月、堺泉酒造を設立。2015年に料亭の跡地を利用して、醸造所を新設し、同市出身の茶人にちなんだ銘柄「千利休」を生産開始した。_NEWLINE_2016年10月、酒造場を新築移転。_NEWLINE_2017年からは、常温でも保管・流通できて販路を全国へ広げやすい火入れ酒を主力に、生酒を季節限定商品とする戦略をとっている。 | 9704597392588321526 |
Q17161254 |
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塚越和夫
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塚越 和夫(つかこし かずお、1931年(昭和6年) - )は、日本近代文学研究者、武蔵野女子大学名誉教授。 東京生まれ。早稲田大学文学部卒、1957年同大学院修士課程修了。早稲田大学高等学院教諭。武蔵野女子大学教授、2002年定年、名誉教授。 | 6937546676805445596 |
Q11174934 |
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塩沢石打サービスエリア
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過去にあった施設
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上下線ともにガソリンスタンド(上り線 ENEOS(株)にいがたエネルギー、下り線 Shell(株)井口商店)が設置されていたが、下り線は2005年11月30日に、上り線は2007年5月31日にそれぞれ廃止された。 | 2706566214844297754 |
Q11429390 |
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増穂パーキングエリア
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概要
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当初の計画では下り線(双葉方面)側に大型車5台と小型車10台、男性・女性用トイレをそれぞれ5つずつ設置し、上下線で共有する予定であったが、計画中に上り線(清水方面)側に隣接して道の駅富士川および河川防災ステーションの整備に関連し上下線で異なるパーキングエリアに変更された。下り線のパーキングエリアは駐車場のみとする一方で道の駅の施設を利用できるハイウェイオアシス型とし、上り線は増穂ICに隣接して駐車場とトイレを整備する計画とした。_NEWLINE_なお、上り線は道の駅から離れており、接続する通路もないことから施設を利用することはできない。また、上下線ともに本線からPAを利用後、増穂ICへ流出することができるが、増穂ICから流入する場合はPAは利用できない。 | 10492510862332093084 |
Q11429422 |
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墨染寺 (伊丹市)
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交通アクセス
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阪急伊丹線伊丹駅下車、徒歩7分 | 10396333539189610629 |
Q22131564 |
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壬生益成
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壬生 益成(みぶ の ますなり、天長7年(830年) - 寛平8年12月6日(897年1月12日))は、平安時代初期から前期にかけての官人。姓は直。左近衛将監・壬生里雄の子とする系図がある。官位は外従五位下・遠江介。
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経歴
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元慶3年(879年)左近衛将曹。元慶6年(882年)息子3男・娘4人とともに、それまでの甲斐国巨摩郡から改めて山城国愛宕郡に貫付される(このときの位階は従六位上)。元慶8年(884年)左近衛将監に昇格する。_NEWLINE_仁和3年(887年)外従五位下に昇叙され、翌仁和4年(888年)遠江介に任ぜられた。_NEWLINE_寛平8年(897年1月)12月6日卒去。享年68。 | 266604941770330692 |
Q3549701 |
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夏の妹
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概要
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公開年の1972年に返還された直後の沖縄県を舞台にオールロケで制作された。主人公・菊池素直子(すなおこ)が一夏の沖縄県の旅を通じて出会った様々な立場の人物を通して、戦後の日本と沖縄県の複雑な関係を、ウィットに富んだ文体で比喩的に表現した。
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エピソード
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大島監督と親交の深い実相寺昭雄、佐々木守の関わったTVドラマ『シルバー仮面』(宣弘社、TBS)の主題歌が劇中挿入されている。海外輸出版を作る際に、この主題歌の歌詞を訳すのに苦労したそうである。 | 2348656336051542802 |
Q11429899 |
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夏・長崎から'89
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解説
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さだまさしは1987年から2006年まで8月6日に「夏・長崎から」と題したチャリティ・コンサートを行っていた。本アルバムは1989年に長崎市営ラグビー・サッカー場で行われた同コンサートのライブ盤である。 | 2551291434022244498 |
Q11430277 |
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夕陽丘
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夕陽丘(ゆうひがおか)は、大阪府大阪市天王寺区西部の汎称地名であり、夕陽丘町を中心とした、上町台地西側の地域をさす。具体的には生玉町、生玉寺町、夕陽丘町、伶人町、逢阪(1丁目)、下寺町の地域一帯あたりを指し、「夕陽丘風致地区」に指定されており、緑風景が維持されている。広域的には東側の生玉前町、上汐(4~6丁目)、六万体町、南側の逢阪2丁目あたりも含まれる。_NEWLINE_上町筋よりも東の上町台地東側(上本町、北山町、四天王寺、小宮町辺り)にも「夕陽丘」と名の付く施設は幾らか存在するが、これらの地区は夕陽丘地区には通常は含めない。_NEWLINE_かつては夕日岡(ゆうひのおか)とも呼ばれていた。(後述)
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地理
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上町台地の西側、北は千日前通、南は国道25号線(逢坂)、東は谷町筋、西は松屋町筋に囲まれている。前述の通り風致地区に指定されており、大学・高校も複数所在、神社・仏教寺院も多く、幹線道路から少し中に入ると概ね閑静な住宅街である。_NEWLINE_天王寺七坂と呼ばれる七つの坂(真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂)は当地にある。 | 924076378808631839 |
Q11430360 |
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外国人枠
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外国人枠(がいこくじんわく)とは、ある集団においてその人員枠のうち、外国人の採用を前提とした枠のこと、もしくは外国人の所属人数などに対する制限のことである。_NEWLINE_本項では主にスポーツ競技において実施されている、外国人選手枠とも称される後者のものに関して記載する。
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概要
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スポーツ競技における外国人枠は、外国人過多に伴う弊害を考慮に入れながらも、競技運営において外国人選手の存在は不可欠であることから、全面禁止することなく制限を設けたものであり、所属人数に対する制限と試合への参加人数に対する制限がある。主にプロの団体競技において実施されているものであるが、大相撲や学生スポーツなどにも採用されている。採用の理由としては国内選手の保護や戦力の均衡などが挙げられる一方で、競技の質の向上や国際競争力などの観点から制限を設けるべきではないとの声もあり賛否両論となっている。_NEWLINE_なお、外国出身者であっても、競技団体の在籍する国への帰化や、同国での義務教育の修了などの条件を満たせば、国内選手と同じ扱い(いわゆる「在日外人枠」になり、規制の対象から外れる場合もある。同様の措置は、帰化者を除く外国人選手を全面禁止している団体でも採用されていることがある。外国籍で生まれたのち、日本へ帰化した選手については、競技により日本人と同等扱いとする種目(プロ野球、サッカー他)と、外国人枠とは別枠の「帰化選手枠」の扱いとする種目(大相撲、Bリーグなど)とがあり、後者は外人枠と同じく登録人数に制限が敷かれている他、Jリーグのように、アジア枠(アジア地区の競技連盟に加盟している国・地域に出生した選手)を外人枠とは別枠で扱う種目もある。_NEWLINE_また、競技運営団体によって外国人選手を規制する制度が定められていない場合でも、団体が在籍する国における外国人労働者に関する制度が実質的に外国人枠としての機能を持つ場合がある。
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競技の質への影響
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競技における途上国が、先進国から高い技術や能力を持つ選手を獲得することで、観客に質の高いプレイを提供することができるようになる。また、これに触発されることによる国内選手の技術向上なども期待できる。ただし、国内選手が育たなかった場合、質を維持するため永続的に多くを外国人選手に頼らざるを得ない状況になる恐れもある。また、出場機会を奪われることにより実戦経験が積めず国内選手が育たなくなる恐れもある。
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モチベーションへの影響
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優秀な外国人を獲得することで、質の高いプレイを間近に見られる環境や、出場枠争いの激化により国内選手のモチベーションの向上が期待される。一方で、この手の外国人選手は即戦力として獲得され無条件で出場枠が確保されていることから公平な競争環境とはならず、かえってモチベーションの低下につながる恐れもある。また、文化や言語の違う国から選手が来ることで、コミュニケーションや相互理解の不足などにより、選手個人またはチーム全体のモチベーションに影響する恐れがある。
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アイデンティティーへの影響
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言語や文化、民族等の異なる選手が増えることでチームの地域性や国民性が失われ、サポーターのチームに対する愛着も失われる恐れがある。その国、地域土着の競技であるにもかかわらず、外国人に強豪が集まった場合は、特に地域性との兼ね合いが問題になりやすい。一方、多民族、多文化で構成される国においてはあまり問題視されることはない。
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国際競争力への影響
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チームメイトや対戦相手に外国人選手がいることで必然的に外国人との戦い方を身に付けてゆくことができ、国際的な競争力の向上につながる。一方で外国人選手が特定のポジションに集中した場合など、出場機会を奪われた国内選手の育成が遅れ、かえって悪影響を及ぼす可能性もある。
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チーム運営への影響
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外国に目を向けることで選手獲得の選択肢が大幅に広がる。また、外国人選手が母国とのパイプとして機能し、ビジネスの幅にも影響する。その一方で、選手獲得に向けての調査や、獲得後の国内での生活等のサポート、また実績のある外国人の場合は多額の報酬も必要となることから経営を圧迫する恐れもある。 | 6525274054982126509 |
Q64783211 |
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多田庫雄
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経歴・人物
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東京府出身。1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業。_NEWLINE_1918年(大正7年)7月に岐阜連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐、1921年(大正10年)7月に歩兵第13連隊長を経て、1923年(大正12年)8月に陸軍少将に昇進と同時に待命、翌月、予備役に編入した。 | 18443506265213282308 |
Q11431236 |
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夜叉 (映画)
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あらすじ
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背中一面に彫られた刺青から「人斬り夜叉」と呼ばれた、大阪・ミナミの伝説の男、北原修治は、女の為にヤクザから足を洗い、若狭湾に面した小さな港町で漁師となって妻子と暮らして15年。ある冬のこと、ミナミから螢子という女が流れてきて小料理屋「螢」を開く。螢子の都会の刺激と香りに満ちた妖しい魅力に男の心が揺れ動く。しばらくして、螢子のヒモでシャブ中のヤクザ、矢島が現れる。矢島が漁師仲間たちを相手に覚醒剤を売っているのを知る。覚醒剤を処分した蛍子を矢島が追いかけ、修治が守る。螢子に矢島を助けてほしいと言われ、ミナミに。そして、修治の中の夜叉が蘇る…。
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ロケ地
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1984年12月24日から1985年2月1日まで、福井県美浜町日向や敦賀市の敦賀駅などでロケが行われた。 | 1423477973769621108 |
Q7341607 |
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夢はひとつだけ
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概要
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レコーディングは1977年5月23日から7月22日にかけてロサンゼルスのサウンド・ファクトリーで行われた。ジャケットの写真はジム・シア(Jim Shea)が撮影し、デザインはジョン・コッシュ(John Kosh)が手がけた。_NEWLINE_アルバムは1977年9月に発売された。ビルボードのアルバム・チャートで5週連続で1位を記録した。またビルボードのカントリー・アルバム・チャート、カナダのRPMチャートでも1位を記録した。_NEWLINE_1978年2月23日に開催された第20回グラミー賞でジョン・コッシュは最優秀アルバム・パッケージ賞を、ピーター・アッシャーは年間プロデューサー賞を受賞した。また、収録曲の「ブルー・バイユー」によりロンシュタットは最優秀女性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞にノミネートされた。「ブルー・バイユー」ではドン・ヘンリーがバッキング・ボーカルで参加している。 | 7748718076265059302 |
Q11431361 |
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夢 (プロレスラー)
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来歴
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風香に憧れてシュートボクシングを始め、2010年、風香の一番弟子として入門。_NEWLINE_8月29日に行われたSHOOT BOXING WORLD TOURNAMENT Girls S-cup 2010における「風香プロデュース〜女子キッズスペシャルマッチ」に「熊谷夢」として出場して植村風香に判定勝ち。_NEWLINE_その後、スターダムにキッズ枠として入団し、リングネームを「夢」とする。11月12日、第1回プロテストで合格。_NEWLINE_12月17日。「JEWELS 11th RING」に他の所属選手とともにデモンストレーションを行い、板割りを披露した。_NEWLINE_2011年1月23日、新木場1stRINGで開催された「スターダム旗揚げ戦 〜Birth of nova 新星誕生!〜」でプロレスデビュー。「キッズ・ファイト〜夢のプロレス物語〜」と題してパッション・ナッキーと3分1本勝負も時間切れ引き分け。夢は体格が大きくなるまでキッズファイト(3分1本勝負)として試合が組まれることが発表されている。_NEWLINE_2月12日、第2戦はパッション・セブンと対戦。_NEWLINE_2月27日、第3戦はスターダム所属外として初参戦となる広田さくらと対戦。広田の提案によりレフェリーの掛け声で試合を始め、触れ合った瞬間にゴングがなると言う変則ルールとなった。この試合より新コスチュームとなる。_NEWLINE_3月27日、広田と再戦。_NEWLINE_4月3日、大阪大会で初めての男子となるえべっさんと対戦。_NEWLINE_4月10日、高橋奈苗と対戦。夢は健闘を見せて、高橋から鉢巻をプレゼントされた。_NEWLINE_4月24日、ゆずポンマスクと対戦。_NEWLINE_4月30日、まず第2試合でマスクド・ヒロヨンと対戦。続いて「元気で行こう!奈苗JAPAN情熱注入」に4番手で登場し、最初「キッズファイトなので3分」とアナウンスされるも、夢は「これはキッズファイトじゃない」ととアピールし、4分に延長された(他選手は5分)。_NEWLINE_5月8日、夏樹☆たいようと対戦。_NEWLINE_5月29日、美闘陽子と対戦。_NEWLINE_6月12日、チェリーと対戦。_NEWLINE_6月26日、星輝ありさと対戦。この試合は5分に延長された。_NEWLINE_7月、休業。 | 971174180173499364 |
Q11431879 |
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大丸屋騒動
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大丸屋騒動(だいまるやそうどう)は上方落語の演目の一つである。安永年間に実際に京で起こった事件がモデルで、講釈ネタを落語化したものである。上方落語には珍しい人情噺(厳密にはサゲがあるので、狭義の人情噺ではなく落とし噺だが)で、前半部の宗三郎と番頭の軽妙なやりとり、富永町で悲劇へたたみかける演出、後半部の芝居噺風の演出などかなり手が込んでいる。サゲは地口落ち。_NEWLINE_妖刀村正、愛想尽かし、狂乱した宗三郎が祇園二軒茶屋の踊りの輪に乱入する場面など、歌舞伎の『縮屋新助』『伊勢音頭恋寝刃(油屋騒動)』のパロディが見られる。はめものとの呼吸に注意を払い、歌舞伎や京の風景・風俗に精通しなければならないなど、高度な技術を要する。_NEWLINE_太平洋戦争前は先斗町で生まれ育った初代桂枝太郎の十八番として知られていた。戦後は長く演者がいなかったが、1970年代に入ると初代森乃福郎や2代目露の五郎兵衛が相次いで高座にかけ、5代目桂文枝も得意とした。文枝は1990年の口演で芸術祭賞を受賞している。
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あらすじ
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伏見大手町の商家大丸屋宗兵衛の弟、宗三郎は、祇園の舞妓おときを愛人にしたことが親戚の怒りを買い、おときは祇園の富永町に、宗三郎は木屋町三條にそれぞれ別居する。_NEWLINE_兄としては、親類を説得させた上で、いずれは晴れて二人を夫婦にする算段なのだが、宗三郎には兄の思いが伝わらない。家に伝わる妖刀村正を床の間に飾って、番頭の監視下、無聊な日々を送っている。_NEWLINE_ある夏の夜、おとき逢いたさに、宗三郎は、木屋町の家をぬけだして村正を腰に、富永町の家にやって来る。「おとき、久しゅうこなんだ。わてなあ、お前に逢いとうてなあ。」「ほんま、久しゅうおすなあ。ところであんたはんお一人どすか。」「せや。ちょっと一杯燗けてんかいな。急に来となってな。」「お一人なら帰っておくれやす。」宗三郎の心情をうれしく思うおときだが、ここで宗三郎を入れたら宗兵衛が自分に不信感を持ち、さらに宗三郎に迷惑がかかると考え、訳を話して追い返そうとする。_NEWLINE_おときへの恋慕に凝り固まっている宗三郎は話が通じない。逆に愛想尽かしと勘違いし、怒って村正で鞘ごとおときの肩に食らわせると、鞘が割れ、おときを切り捨てる。狂ってしまった宗三郎、下女と様子を見に来た番頭をも切り殺し、祇園界隈で多くの人に切りつける。ついには二軒茶屋での踊りに乱入し暴れまわる。役人も手が付けられない。_NEWLINE_虫の知らせか、伏見から駆けつけてきた宗兵衛は、血刀をさげた弟を見て肝を潰し、役人に「あの者は私の身内の者でございます。わたくしめに召捕り方、願わしゅう存じまする。」と泣きながら訴え、役人の許しを得て宗三郎を後から羽交い締めにする。狂った宗三郎が刀を振り回すが、どういう訳か兄はかすり傷一つ負わない。不思議に思った役人が「こりゃ。その方は何やつか。」「へい。私めは、切っても切れぬ伏見(不死身)の兄にございます。」
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史実による『大丸屋騒動』
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この噺のモデルとなった事件の資料として、当時の官憲の報告書のコピーが「安永三甲午七月三日夜京都烏丸通上る町大文字屋彦右衛門疳症にて人を多く怪我させし趣御公議へ書上の写」として西沢文庫「讃仏乗」二編中の巻におさめられている。_NEWLINE_あらましは、1773年(安永三年)7月3日の夜、烏丸通りの材木商大文字屋の息子彦右衛門(25歳)が、新河原町の家で養生中に心神喪失状態となり手代を殺害、四条通に出て烏丸通りから丸太町の間にかけて「往来の人を切殺し又は手疵負せ右道筋につなぎ置き候馬迄三疋に瑕附候」、死者三名、重軽傷者二十一名という大惨事であった。凶器は「脇差、銘粟田口近江守忠納 長二尺三寸」で、その後、彦右衛門は帰宅後死亡したとある。_NEWLINE_その後、事件は講釈、歌舞伎などに取り上げられ、落語にもなった。 | 10487665133083713146 |
Q3615450 |
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大和新庄駅
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駅構造
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五条方面に向かって右側に配置された単式ホーム1面1線を持つ地上駅(停留所)だが、小さな駅舎がある。かつては相対式ホーム2面2線であったが、駅舎と反対側ホームの線路が撤去されたため1面1線になり交換不能になった。ホームと無蓋跨線橋は改装された。_NEWLINE_王寺鉄道部が管理している無人駅である。直立型の自動券売機および簡易ICOCA改札機が設置されている。_NEWLINE_トイレは、汲み取り式便所である。 | 9681749824074346413 |
Q30933332 |
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大和町 (名古屋市)
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地理
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名古屋市昭和区中央南部に位置する。東は塩付通、西は桜山町に接する。 | 16310530884150250549 |
Q11433557 |
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大和茶
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大和茶(やまとちゃ)は、奈良県大和高原を中心とする地域で生産される日本茶のひとつ。_NEWLINE_良質な茶の栽培には冷涼な気候が適しているとされ、大和高原はその条件に合っているので茶の栽培が奨励されてきた。月ヶ瀬梅林で有名な月ヶ瀬も茶の生産では有名な地域である。2007年の奈良県の荒茶生産量は2850トンで全国第6位である。
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概要
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大和茶が栽培される奈良県東北部の大和高原一帯は、標高200~600m、平均気温13~15℃、降雨量1500mmの山間冷涼地で、日照時間が短く、昼夜の温度差が大きいため昼間に合成された糖類が消費されずに茶葉に残り、自然な甘みや旨味が生きた茶葉が収穫できる。粘土層の地質が多く、土がミネラルなどを多く含み滋味豊かな茶葉が育つ。また、冬期は氷点下10度近くまで冷え込むこともあるため、害虫の越冬を妨げ、さらに、朝霧が発生しやすい地形のため、適度な湿度により茶樹が潤う。_NEWLINE_また、吉野川流域の大淀町、東吉野村でも、恵まれた自然条件を生かした茶の栽培が行われている。_NEWLINE_銘柄は、産地別に月ヶ瀬茶、田原茶、柳生茶、山添茶、福住茶、都祁茶、室生茶、大淀茶があるが、全県的に「大和茶」で統一されている。
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表示基準
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緑茶の表示基準というものが公表されており、「大和茶」として表示される以外に、生産地名からの呼称として「月ヶ瀬茶」や「福住茶」、「柳生茶」、「山添茶」という表示も行われている。
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奈良県在来種について
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奈良県の在来種をもとに実生から品種改良したものとして、「やまとみどり」がある。この品種は「茶農林10号」として1953年に品種登録が行われた。晩生種で樹姿直立、樹勢中、葉は長だ円形で濃緑色、耐寒性特に強く、着芽が密で収量は中である。結実性が高く、煎茶として品質優良とされる。奈良県農試茶業分場で育成された。
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大和茶の歴史
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公事根源によると、729年(天平元年)、聖武天皇の時代、宮中で衆僧を召して『大般若経』を読経させる季御読経の制度が始まり、2日目の衆僧に茶を賜る儀式を「引茶」または「行茶」と称したのが最初と言われている。当時の茶は、砕いた団茶を薬研で挽いて粉末にし沸騰した釜の中に投じ、茶盞に入れるもので、抹茶ではなかった。_NEWLINE_『竈の賑ひ : 日用助食』は「大和國揚茶粥 大和國は農家にても、一日に四五度宛の茶粥を食する也、聖武天皇の御宇、南都大佛御建立の時、民家各かゆを食し米を喰のばして、御造營の御手傳ひをしたりしより、專らかゆを用る事と云傳ふ、奈良茶といへるは是より出たる事とぞ」と、茶粥の始まりが奈良時代であると記している。_NEWLINE_これらの記述は後世に書かれたもので実証性には乏しい。しかし、正倉院文書には、758年(天平宝字2年)の「末醤、滓醤、酢、油、糯米、大豆、小豆、漬菜、青瓜、茄子、水葱、搗滑海藻(標出)茶、薪、松、柏」をはじめ、「茶」の文字が見え、奈良時代に奈良の都で茶が存在したことは確かである。_NEWLINE_大和茶のおこりについては、以下のように紹介されている。_NEWLINE_「大和茶は大同元年(806年)に弘法大師が唐より帰朝の際茶の種子を持ちかえり、これを現在の宇陀市榛原赤埴に播種して、その製法を伝えられました。またその際持ち帰った茶臼は赤埴の仏隆寺に現在も保存されております。茶の実もまた同境内に「苔の園」として保存されており、これが「大和茶」の初めとも言われております。」_NEWLINE_もっとも、波多野村の住人、吉田太郎兵衛が江州の信楽からチャの実を買い入れ、約70aに蒔いたともいわれている。奈良は仏教史跡、寺院も多く、仏教との関係で茶も広まり、一方ではヤマチャも諸所にあり、それなりに利用されたとされる。 | 4642443606483580064 |
Q11434639 |
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大山村 (愛媛県)
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歴史
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下記以外の歴史については大島及び吉海町の記事を参照のこと。_NEWLINE_藩政期には今治藩領。
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産業
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いも、豆類などを産した。_NEWLINE_石材(大島石)_NEWLINE_石材の搬出に付随して海運業も発達した。 | 16923223879489909767 |
Q10935269 |
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大師出入口
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大師出入口(だいしでいりぐち)は、神奈川県川崎市川崎区にある首都高速神奈川1号横羽線・首都高速神奈川6号川崎線の出入口である。_NEWLINE_既設は、東京方面のみの出入口であるが、2009年3月29日に横浜方面への出入口を開設した。_NEWLINE_また、横浜方面への出入口は、首都高速神奈川6号川崎線との連絡路が建設され、大師JCTとなった。なお、川崎線と横羽線の東京方面とは相互に行き来出来ない構造となっている。
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下り線入口
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下り線出口と上り線入口の料金所では、大師 - 羽田間の特定区間料金(普通車 300円、大型車 600円)を、下り線入口では神奈川線の料金(普通車 600円、大型車 1,200円)を徴収する。本線料金所については、大師本線料金所の項を参照する事。 | 12118177141488893131 |
Q18990999 |
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大池親水公園 (春日部市)
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概要
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この大池親水公園は古くより所在していた「大池」を囲うように整備され、開園した公園である。建設の際に大池の水面がやや縮小整備されている。園内には大池を周回できる園路がある。この他、憩いの家(入浴施設やホール、会議室など)や滝、ちびっこ広場が置かれており、大池ではハクチョウやコハクチョウなどの水鳥を見ることも可能である。公園の面積は約13,049㎡となっている。 | 11519302201139916054 |
Q54152949 |
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大法寺 (津山市)
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歴史
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慶長の昔、伯耆大山の人・理性が仏道修行のため諸國行脚の途次、此の地を通り一小堂で休憩した。此の堂は現在大法寺のある場所にあったもので、本尊は弘法大師であった。理性は何心なく堂内を見まわすに、兵乱の影響を受けて、本来仏法弘道の霊場であるはずのものが時には野武士の棲み家ともなってひどく荒らされていた。理性は此の有様を見て大いになげき、是非共之を再興しなければならぬと固く心に誓い、村の人達に相談をもちかけ、自分も此の地に仮住居して滞在することとした。最初の程は半信半疑であった土地の人達も道心堅固な理性に敬服して段々と協力者がふえて遂に一宇の寺院を建立するに到った。即ち慶長19年(1614年)、時の美作国の領主森忠政の允許を得て「静長山大宝寺」と号し真言宗に属した。これが当山の起源である。山号は今は「青長山」であるが、此の頃は「静長山」であって、いつ変わったものであるかについては未だ何等の文章にも接していない。しかし寺号の「大宝寺」が「大法寺」と文字の変ったことについては、慶長19年から160年ばかり後の安永4年(1775年)8月朔日の津山(松平)藩の日記に記録がある。 | 16219066982701716567 |
Q11437538 |
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大湖せしる
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大湖 せしる(だいご せしる、1983年3月8日 - )は、日本の女優。元宝塚歌劇団雪組の女役。_NEWLINE_兵庫県川西市、聖母被昇天学院高等学校出身。身長167cm。血液型A型。愛称は「せし」、「せしこ」。
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人物
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幼少の頃から母に宝塚観劇に連れて行ってもらっていた。記憶にある初めて観た作品は、月組公演「PUCK/メモリーズ・オブ・ユー」で、「PUCK」が大好きになり、ビデオテープが擦り切れるほど繰り返し観ていた。_NEWLINE_小学1年生からクラシックバレエを習い始める。その他、習字やピアノなどを習っていた。小学4年生から中学3年生まで宝塚コドモアテネに通い、日本舞踊や声楽なども習うようになった。中学に入学後、母の勧めで宝塚受験のための教室に通い始め、3度目の受験で音楽学校に合格した。_NEWLINE_芸名は、宝塚受験のための教室の恩師につけてもらった。「大湖」は大ファンだった湖月わたるから1字もらい、「せしる」は広く世に知られるようにという願いをこめた「世知」をひらがなにしたもの。_NEWLINE_入団11年目に、男役から女役へ転向した。入団10年目に「ロミオとジュリエット」で「愛」を演じた経験から、「男役をやりきったと思えた」「娘役としてまた新たに進化しよう」と考えての転向だったという。_NEWLINE_新人公演を主演した後に女役へ転向したのは、1977年の条はるき以来である。 | 6857301193018865727 |
Q11437784 |
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大牟田警察署
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概要
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有明海沿岸の密漁を取り締まるため、日本の警察としては全国で唯一の密漁係がある。_NEWLINE_管内には指定暴力団・九州誠道会の本部及び中核団体である村上一家が存在する。
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不祥事
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2004年(平成16年)、勝立交番勤務の新任巡査が出身地である佐賀県鳥栖市などで女児を連れ回して佐賀県鳥栖警察署に逮捕されるという事件が発生。_NEWLINE_同年秋に発生した大牟田4人殺害事件では、被疑者のうちの1人が警察署内で拳銃自殺を図ったり、また別の被疑者1人を福岡地方検察庁久留米支部から脱走させてしまうなどの失態が相次ぎ、住民から激しい非難を浴びた。 | 6011929862714503869 |
Q11437894 |
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大田原氏
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出自
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武蔵七党の丹党の一族である安保氏の分流とされ大俵忠清が大俵氏の初代であると伝承されている。初代とされる大俵忠清は南北朝時代に武蔵国阿保郷にあったというが定かではない。多治比真人は、多治比・丹治比とも表記し、古代の宣化天皇の皇子の末裔であると伝わるが、これも定かではない。_NEWLINE_また、別に大俵忠清は武蔵国榛沢郡阿保荘(郷ではない)に住んでいたが丹党に参加して、その後に関東平氏の一族と称し、領地の名からまた阿保と名乗ったともいう。_NEWLINE_また、その他の説としては平城天皇の皇子であった阿保親王の子で在原朝臣を賜った在原業平の後胤とするものもある。その説では藤原朝臣を名乗ったり、丹治氏に復姓したりしているが詳細は定かではない。_NEWLINE_大俵氏は、下野国那須地方の大俵に移住したことから大俵と名乗ったとされる。_NEWLINE_大俵忠清の子孫は代々、大俵を本拠とし、大俵を称したが大俵胤清の代に大田原に変更したといわれている。_NEWLINE_大田原家譜などの諸書によると、大俵康清は「那須氏に仕え、始めて那須に移り、金田村水口城に住し」などと記載があることから室町時代の初頭か前期頃に、大俵康清と名乗る武士が名族那須氏に仕官したことがわかる。大田原氏は康清の時代に那須氏に仕えながら、次第に勢力を拡大し、在地武士たちを家臣団として編成するなどして領主として勢力をつけていったと考えられている。_NEWLINE_康清は水口城を築き、大俵氏の基礎を固めたといえる。この水口城は大俵胤清の時代までの五代にわたって大俵氏の本拠として使用されたのである。
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動向
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戦国時代に入り、康清の子、大俵胤清とその子、大田原資清の時代になると、大田原氏は貪婪な野望を抱くようになる。那須氏が上下に分かれていたが、その上那須氏に仕えて当主、那須資親の信任の厚かったが、それを利用した。資親には実子がなかなか生まれず、致し方なく養子を白河氏から迎えていた。それが那須資永であるが、資親にはその後、実子の那須資久が生まれた。胤清・資清は巧みに、資親に資永が当主の器ではないと讒言し、実子の資久の方が有望で家臣の期待も集まっていると阿諛追従をした。そして、ついに、永正11年(1514年)の夏、資親と養子の資永の関係が悪化すると、資親の遺志と称して、資久を擁する大関氏・伊王野氏・金丸氏・芦野氏などの那須党の有力諸氏を味方にして資永を攻め滅ぼした。しかし、資永の籠もる福原城を攻囲している間に、幼主の那須資久は起死回生を狙った那須資永の放った者によって拉致され福原城へと連れ去られ、城が落ちる際に、惨殺されてしまった。そのため、胤清・資清の幼主を擁して上那須家を牛耳る計画は失敗に終わり、那須氏は上那須氏が滅んだことで下那須氏によって統一されることとなった。_NEWLINE_資清はそれでも野心を捨てず、領地拡大を図り、永正15年(1518年)に同じ那須党の福原資安・大関宗増などの不意を衝いて攻撃した。しかし、敗れた。そのため、一時、国許を去ったが、娘を那須政資に嫁がせるなどの工作をしたことが功を奏して、資清は本領に復帰した。その後、政資を篭絡し、大関増次を討ち取り、長男の高増を養子として大関氏の名跡を継がせ大関高増とし、福原氏にも政資の命と称して次男の、資孝を養子としていれて福原資孝として両家を乗っ取ることに成功した。_NEWLINE_父、那須政資が大田原氏を偏重することなどから、対立していた那須高資が家督を継いだ。そのため、高資を廃することを大田原氏は計画するようになった。しかし、高資は勇将で、近隣の有力大名の宇都宮尚綱が足利晴氏などと連合して攻め込んできた際も、大田原氏などの援助を得ずに単独で、それを撃破し、尚綱を討ち取るなど活躍した。_NEWLINE_資清の死後、その子、大田原綱清は、那須氏の宿敵、宇都宮広綱(尚綱の子)と誼を通じて、勇将の誉れ高い那須高資を千本城にて謀殺。姉の子である那須資胤を那須家の当主にして、専権を振るった。_NEWLINE_しかし、その後、成長した那須資胤は、大田原三兄弟(大関高増、福原資孝、大田原綱清)らの専断を憎むようになった。また、大田原三兄弟も那須氏はもはや不要であると考えるようになり、大田原氏は宿敵の佐竹氏と連合して、那須資胤を排斥しようと図った。その結果、那須資胤と大田原三兄弟は合戦に及ぶなど緊迫したが、近隣の佐竹氏や宇都宮氏、蘆名氏なども那須領を虎視眈々と狙っている情勢での内部分裂は愚劣であることは明らかだったので、那須資胤の老臣の興野氏(名は不詳)や那須党の有力国人の伊王野氏の意を受けた伊王野氏の老臣稲沢氏(名は不詳)らが会談を持ち、資胤や三兄弟を説得して、ついに和平にこぎつけた。それによって、那須氏は対外的にまとまりを持つことができるようになり、那須資晴の時代には雄飛することができるようになった。_NEWLINE_しかし、大田原氏の野望は尽きず、那須党の千本氏を謀略で滅ぼし、その領地を兄弟で分割するなど大田原氏は那須氏の癌であり続けた。_NEWLINE_豊臣秀吉が後北条氏を攻めると、いち早く、大田原晴清は豊臣秀吉に従い、その領地を保全し、那須氏には時期尚早として秀吉に従うことの非を唱えた。そのため、那須氏は遅参したとされ改易され、大田原氏は那須氏から認められていた領土をそのままに近世大名へと脱皮を果たし、大田原藩を立藩。そのまま一度も領地を移される事無く明治維新をむかえた。 | 14675850772210925385 |
Q11438070 |
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大相撲・幕内の全取組
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概要
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これまではテレビ朝日系列で『大相撲ダイジェスト』が放送されていたが、2003年9月21日の9月場所千秋楽を最後に放送を終了したのに伴い、一場所おいて当番組が始まった。_NEWLINE_そのため、放送局は異なるものの、当番組は『大相撲ダイジェスト』の実質的な後継番組にあたる。_NEWLINE_NHKでは本場所期間中の日中に幕下、十両、幕内の取組を中心に衛星第2テレビ、衛星ハイビジョン、総合テレビで生放送してきたが、取組が行われるのは日中から夕方にかけての時間帯であるため、仕事や学校等でその時間帯に視聴できない大相撲ファン向けに、未明・早朝帯に24分の枠にまとめたダイジェスト番組を放送している。_NEWLINE_番組では幕内の全ての取組を実況で紹介する。基本的にノーカットで取り上げるが、前半戦で長引いた取組については一部編集して放送する場合がある。また、開始当初は十両の注目の取組についても毎日1番ずつ実況で取り上げていた。
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2011年3月
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2011年春場所は大相撲八百長問題で開催自体が中止。これにより大相撲中継のみならずダイジェスト放送も中止となったためスタッフも配置されなかった。大相撲中継の担当のアナウンサーは定時のローカルニュースや他の業務に充てられ、その後2011年3月11日に発生した東日本大震災の特設ニュースで現地の中継リポート、ローカルニュース支援や安否情報(避難者名簿の紹介も含む)の担当要員に充てられた。
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2011年5月
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2011年5月の技量審査場所では大相撲中継のみならずダイジェスト放送も実施しないことが決定した。但し、NHKの各種ニュース番組で技量審査場所の注目の取り組みの映像を紹介する際、アナウンサーの実況音声も付加している。 | 13765184701641350773 |
Subsets and Splits
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